兄は後悔する
「その時はワシがその男を受け取りましょう。記憶を消して、どこか別の土地で別の名を与えます。あの男もこの十年、ずいぶんと苦しんでいましたしね、もうお嬢のことを忘れて生き直したほうがいい」
そういってじいさんとはその場で別れた。俺は魔物たちを連れて森を抜ける。
『森、ヴィヴィノ匂イスル』
『ヴィヴィ好キ』
『ヴィヴィ会イタイ』
連れている魔物たちがひそひそと囁きあっている。
「まだ会えないぞ。お前たちはもう少し魔物として安定させないと消えてしまう。それに……お前たちがヴィーのために人間を殺したと知ったらアイツ悲しむだろうしなあ。どうすっかなあ」
『会イタイ』
『会イタイ』
『ヴィヴィノ近クイキタイ』
「だからまだダメだっつうの」
なりたての魔物たちは本能に従順だ。
ヴィーは人間だった頃から癒しの力を持っていた。相手に力を付与し生き物を癒す、その特別なその力は、陰の魔界では決して生まれない祝福された陽の能力だ。
生き物たちはその力に魅かれて、アイツの元に集まってくる。俺がオオカミだった頃も、アイツのそばにいると心地がよくて、離れがたいと感じていた。
この魔物たちも、じいさんが与えた魔物の力は本当にごくわずかだというのに、ヴィーを慕い恋しく思う気持ちだけで魔物に進化してみせて、アイツを貶めた人間に長い年月をかけてヴィーのために復讐し続けたのだ。
だが、特別な力というのは、それを無意識に感じ取って脅威に思う者もいる。ヴィーが人間界で陥れられたのも、そういった影響があるのではないかと思った。
ヴィーは薬屋のあるじとして必要とされている一方で、その能力を薬師だけで終わらせるのはもったいない、早く治癒師となってほしいから早く魔界に連れてきてくれと俺に言ってくる者もいて、正直板挟みになっている。
役立たずどころか引く手あまただ。アイツもそろそろ低い自己評価を改めて、存在価値を認識しなくてはいけない。下手に自己評価が低いと、また薬屋のように変なヤツに魅入られた時に、言葉巧みに連れて行かれかねない。
魔界へ渡り、魔物たちの預け先を種族ごとにそれぞれ手配する。
魔人にまで進化することができれば、いずれヴィーに会わせてやることもできるだろうと言うと、魔物たちは無邪気に喜んだ。それを複雑な思いで見送った。
俺はじいさんのアドバイスどおり、ヴィーと話をつけるために薬屋へと向かうことにした。
門をくぐると、いつも通り家が『帰れ帰れ』とうるさいが無視して店の扉を開ける。
そこにヴィーは居らず、フードを被った人間の男が店にたっていた。
ヴィーはちょうど森に出かけて不在だった。本当はヴィーに話をつけてからにしようと思ったが、いっそこのまま何も知らせず引き離したほうがいいのかもしれない。
男に、人間界に帰してやると言うと、喜ぶかと思いきや必死に拒んできた。ごちゃごちゃと言い訳をしているが、要はヴィーから離れたくないらしい。
……コイツ、ヴィーに惚れたか?
ヴィーのことを口にするときコイツの目に熱がこもる。なにが『去勢された犬』だ。完全に雄目線でヴィーをみてるじゃねえか。
一刻も早くコイツをヴィーから引き離したくなって、もう力ずくで連れて行こうと手を延ばした瞬間、薬屋が物を投げつけてきた。
『店のなかで暴れる気か、このクソオオカミが。今日は大量の発注が入ってあるじは忙しい。店を荒らされると薬が作れない。話す時間は無い。余計な問題を増やしてあるじを煩わせるな』
そう言って薬屋が俺を追い出そうと店のなかに魔力を充満させてくる。ヴィーも忙しいなら、俺の話より仕事を優先させるだろう。どちらにせよ薬屋が許さないのなら今日は引き下がるしかない。
出直すつもりで魔界への泉を渡り始めた時、かすかにヴィーの叫び声が聞こえた気がした。慎重なアイツが森でしくじることはないと思うが、嫌な予感がして森へと引き返す。
家の近くは木々がザワザワと騒いでいて、必死に『ヴィー危ナイ』と俺に訴えてくる。俺も死にもの狂いで森を駆けると、蜂の残骸があちこち散らばり、ヴィーが採取したと思われる薬草が落ちていた。一目で戦闘蜂の襲撃を受けたのだと分かった。
「ヴィー! どこだ! 無事かっ!?」
声を上げると、それに応えるように藪の奥から食人花がのそのそと現れた。
「蜂ゼンブ食ッタ。ヴィー無事。アノ人間セイ」
食人花の説明によると、人間の男があの後森に出てしまったらしく、それを助けるためヴィーが蜂の襲撃を受ける羽目になったと言う。ヴィーの悲鳴を聞きつけた食人花が助けに入らなければ本当に死んでいたかもしれない。
「そうか……ヴィーを助けてくれてありがとう。感謝している」
心から感謝の気持ちを述べると、食人花はドヤ顔をして帰って行った。
やっぱりあの時無理にでも人間を連れていくべきだったか……。ヴィーを危険な目に遭わせた人間に改めて怒りがこみ上げる。俺はヴィーが落とした薬草を拾って、薬屋へと引き返した。
門の前では、結界によって敷地からはじき出されている人間の男と、傷だらけでボロボロのヴィーが悲しげな顔で人間を見つめていた。
声をかけるべきか逡巡していると、薬屋が話しかけてきた。
『あの人間、あるじが元人間だと気付いてしまって、人間界で人間を殺していたのはお前だろうとあるじを責めたんだ。挙げ句、あるじの手を使って自殺しようとするからさ、もう外に放り出した。あんな危険なペットはもう置いておけないよ。あるじのトラウマがまたひとつ増えちゃったじゃないか。オオカミ、あるじには無理だからお前が人間を片づけてくれよ』
「なんだそりゃ……人間てのはアホなのか……?」
人間は今更ヴィーに向かって叫んで縋っている。ヴィーは涙を堪えながら人間に向かって麻痺薬を投げつけた。人間が意識を失うと、ヴィーも気力が尽きたのか崩れるように地面に座り込んでしまった。
やはりこんな人間をヴィーのそばに置いてはいけなかった。判断をミスった自分に苛立ちながらヴィーに声をかけると、アイツはオリヴァーを殺さないで、と必死に懇願してくる。
その姿を見て、ああ、ヴィーは本当にこの男が好きだったんだなと理解した。
泥で汚れた頬を撫でてやると、ヴィーはポロポロと涙をこぼす。
夢でうなされる時以外、ヴィーが泣くのをみるのは初めてだ。
声を上げて泣くヴィーを、抱きしめてやることしかできない。
俺がいる。俺は何があってもお前を裏切らない。そう言ったが、ヴィーの涙は止まることはなかった。
***
ヴィーとの約束通り、人間の男は殺さずに、人間界にいるじいさんに引き渡した。じいさんはあの男に同情的だったから、ちゃんと生活が成り立つまで面倒をみるだろう。
いくら俺が口づけしようとも、その意味を理解していなくて、オオカミの挨拶だとしか思わないあのヴィーが、あの人間に『好きだった』と言った。
ヴィーはきっと、この短い期間にいろんな感情を学んだのだろう。憎んだり、恨んだり、怒ったり、泣いたり、悲しんだり、決して綺麗なことばかりじゃない気持ちにまみれて、ようやく『好き』という感情を理解したのだ。
アイツが本当のヒトらしさを取り戻すには、穏やかな親愛だけではダメだったんだな、と少しだけ苦い気持ちになった。
それにしても、なんでよりによってあんな情けない人間をヴィーは好きになるのか。弱いうえに去勢された犬のような男のどこに好きになる要素があるのか全く理解できない。
アレのどこが好きなのか問い質したい気がしたが、泣き崩れるヴィーにそれを聞くのはさすがにできなかった。
よっぽど俺のほうが男として魅力があると思うのだが、ヴィーは一度も俺をオスとしてみたことはなかった。
それでも、アイツが俺に『兄』を望むのならば、それに応えるつもりでいた。誰かに頼ることが苦手で、放っておくとどんどん孤独を深めていくアイツを俺のエゴで追いつめることはできないと思っていた。
「まあでも、ずっと『兄』のままでいるつもりはないがな」
独りごちると、俺はまたヴィーの元へと向かった。
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