オオカミはこうして兄になる
自分たちとチビの姿が違うと気が付いたのは、みんなで水浴びをしていた時だった。そういえばチビは毛皮がないかわりに何かを纏っている。それを脱いでつるつるの姿になって水に入っている姿を見て、なんだか胸の真ん中がむずむずした。
チビと俺たち兄弟は大きさも形もずいぶんと違う。不思議に思った俺は母さんに聞いてみた。
『母さん、あいつはなんでつるつるしてて俺たちと違うの?』
『メスだからじゃない?』
『メス? そっか、メスだからチビでつるつるなんだー』
そして俺たちはオスで兄なのだから、妹を守らなくてはいけないと母さんは言い、『そっか! アレは弟じゃなくて妹っていうのか! 俺たちオスだもんな! 兄貴だもんな!』と俺たち兄弟はチビを守るために一致団結した。
いつまでたっても大きくならず、小さくふにゃふにゃのままのちびっこ。
母さんはそんなチビが可愛くてしょうがないらしく、出かける時も寝る時も大事そうに抱えていた。抱き心地がいいチビの隣はいつも兄弟で取り合いになっていた。
チビは時々夜中に泣きながら飛び起きることがある。母さんがなだめるように顔を舐めるが、そういう時はいつまでたってもチビの震えは止まらなかった。
心配になった俺が上から覆いかぶさるようにぎゅっと抱きしめて動けなくすると、チビはすがるように俺にしがみついてきた。そのまま涙を舐めていてやると、安心したのかチビの震えは止まった。
それからというもの、チビが泣いた時は俺がぎゅっと抱きしめるのが俺の役目になった。
俺の前足に挟まれ、毛に顔を埋めてすやすやと眠るチビを見ていると、やっぱり胸の真ん中がむずむずした。
ある時、チビが俺と兄弟たちに『名前を教えてほしい』と言ってきた。
なまえ? なんだそれ? 俺は俺で、こいつらはこいつらだ、と言うとチビは困った顔をして、無いと不便なので名前をつけてもいいか、と言う。そして自分は『ヴィヴィアナ』だと言った。
ヴィ? ヴィー? 変な響きだ。
俺には『一番目のお兄さんだから、イチ兄さん』と言ってきた。イチ。俺はイチか。
ヴィーに名前を呼ばれると、不思議と力が漲ってくるような感覚がした。今までぼんやりとしていた思考がはっきりとして、ヴィーの言っている言葉も以前より理解できる気がする。
のちに知ったが、『名付け』をするという行為は魔物の進化を促す行為だったらしい。俺が早い段階で魔人になったのも、これが大きな要因の一つだ。
ヴィーは自分のことを『役立たずの居候』と卑下して、いつも隅っこでちいさくなっていたが、実際はそんなことはない。
母さんが怪我をした時も、舐めて治すだけしかできなかった俺達と違い、傷口を洗い、何かの葉っぱを巻きつけて、あっという間に母さんの傷を治してしまった。
物を掴んだりできない俺と違って、小さな前足で色々な道具を作ったり、食料を採取したりできる。ヴィーの小さな顔は、表情をする。笑ったり、泣いたり、驚いたり、俺の顔とは全然違う動きをする。
なんで俺とヴィーは違うんだろ? ヴィーと同じような形をしていればもっと抱きしめやすいのに。成長するにつれ、どんどん俺とヴィーは違っていく。
同じになりたい。ヴィーともっと近くなりたい。もっともっとピッタリ重なりたい。
そんな風にずっと考えていたら、ある時体の中からグワッと魔力が湧き上がってきて、力が身を包んで、俺はヴィーと同じヒト型になっていた。
『かーさーん! 俺! ヴィーと同じになった!』
『あら、すごいじゃない。イチは魔人になれるのね』
魔物のなかでもとりわけ強い個体は、魔人というヒト型に進化して、より強い力を得ることができるのだ、と母さんは教えてくれた。
やったー!と思ったのもつかの間、また元の姿に戻ってしまった。完全な魔人になるにはまだまだ力が足りないし時間がかかる、と母さんは言った。
ヒト型になると、今までぼんやりとしていた思考力が一気に上がり、ヴィーが本当はどういう存在なのか、ようやく理解できるようになった。
ヴィーは人間で、魔物の俺たちとは違う人間という生き物で、他の人間に殺されてこの森に落ちてきた。
夢でうなされていたのはそのせいだったんだ。
騙されて、信頼していた相手に裏切られた経験からか、ヴィーは頑なに独りで生きることに拘った。家族である俺たちに助けを求めることも拒む。巣立ちが近くなるにつれ、ヴィーも独り立ちする算段を立てていることに俺も母さんも気付いていた。
ハッキリ言って、弱い人間のヴィーが、この森で独りきりで生きるなんて不可能だ。小さな虫にすら負けるのだから、巣を出た瞬間に死ぬに違いない。俺なら一生守ってやれるのに、ヴィーは、誰かに依存して生きるのは嫌だ、と言って譲らなかった。
自分の足で立って、生きられるようになりたい。
それがヴィーの望みだった。
そう願っているヴィーを無理に庇護下に置いても、きっと悲しむだけだ。俺はもう引き留めることはせず、影から見守ろうと決めた。ヴィーが巣を出たら後をつけて、近くに住んで周囲を俺のナワバリにすればいい。時々ヴィーにマーキングしておけば、獣も近づかないだろう。
そのつもりで、意気揚々と巣を旅立ったヴィーの後を追ったのだが、出てすぐに、ヴィーは煙に巻かれるように姿を消した。なにか植物の罠にかかったのかと慌てて周囲を探し回ったのだが、痕跡どころか匂いも全く消えてしまった。
さんざん探したが見つからず、仕方なく母さんに報告するため一旦巣に戻ることにした。
すると、巣の洞窟の前に魔人の男が二人立っていた。魔人を見るのが初めてだったので驚いたが、母さんはごく普通の態度で何かを話している。男が俺に気が付くと声をかけてきた。
「あなたがイチさんかね? お嬢……妹さんの独り立ちだと聞いて、森に来てみたんだが、どうやらワシらは出遅れたみたいだ……。早くも『薬屋』が妹さんを確保してしまったよ。やれやれ、まいったなあ」
人間の姿をした年寄りの魔人が頭をかきながら俺に話しかける。もう一人の魔人は鳥の顔をしていて、一目で上位魔人だと分かる立派な衣服を身に付けている。
「森の薬屋になったのなら、それはそれで構わない。薬屋も後任が見つからなくて閉店したままなので困っていたんだ。あれも気難しくて、気に入る者でなければあるじにしないからな。ちょうど胃薬を調達しなければいけないところだったんだ。まあ、薬屋のあるじで終わらせるには惜しい人材ではあるが、慌てることもないだろう」
何の話をしているのか分からず戸惑っているうちに、鳥頭の魔人はさっさと飛び立って居なくなってしまった。残った年寄りの魔人が俺に話しかける。
「妹さんは、この森にすむ『くすりや』に捕まってしまったんですよ。先ほどの方は魔界で王の補佐をされている方です。あの方に巣立ちしたお嬢の後見を頼もうと思ったんですが、薬屋に先をこされてしまいました。
ああ、身の危険はない、ただお嬢は店のあるじになっただけです。こうなってしまうとワシらも手出しができないが、その代わり薬屋の中に居る限り彼女は守られるので、身の安全は保障されるので、まあ悪いことではないのですが……。
ワシは、お嬢が人間だったときからの知り合いでしてね、将来有望な子でねえ……ワシも目をかけていたんですが、人間共のくだらん争いに巻き込まれてお嬢は森に落とされて、あなたのお母さんに保護されたというわけで」
魔人になりたての俺は、森が存在する意味もその先に魔界があることも何も知らなかった。ヴィーが人間だったということは理解していたが、アイツが人間界でどんな目にあったか全く分かっていなかった。
そして、ヴィーは母さんのおかげで少しだけ魔物に近づいたが、それでもまだ人間と変わらないくらい弱いという。
もともと、人間のヴィーは魔の森で魔素に馴染ませる必要がある。魔界へ連れて行くにはもっと魔素を取り込んで魔人に変質しなければいけないので、無理に薬屋から取り返さずにこのまま様子を見る、とじいさんは言った。
俺は、魔物の腹の中に住むなんて心底気持ち悪い、ヴィーをそんな不気味な場所に置いておけないと抗議したのだが、結局本人があるじになることを受け入れたため、ヴィーは正式に薬屋のあるじになってしまった。そして、俺たちの心配をよそにとても楽しそうに毎日働いている姿をみて、俺も受け入れざるを得なかった。




