オリヴァーの後悔
ここから視点が変わります。
待ってくれ。
いつか俺も、君の元に行ったら、君に伝えたいことがあったんだ。
まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった。
許されるつもりもないけれど、もう一度だけ君と話がしたかったんだ。
朦朧とする意識の向こうでヴィヴィアナの泣き声が聞こえた気がした。
***
あの子を初めて見た時、噂に違わず変わった令嬢だとしみじみ思った。
なにせ蛾を素手で捕獲したのだから、ほかの子ども達がドン引きするのも無理はない。
それを指摘すると彼女は事も無げに、『毒も無いですし』と何を言っているんだといわんばかりの若干呆れたような表情で言い放った。
まったく、見た目と中身のギャップが恐ろしい。
ヴィヴィアナ・カレン。
滅多に人前に現れない幻の令嬢とひそかに話題になっていたが、初めて王宮主催のお茶会に現れた時に、これは良くも悪くも社交界に多大な影響を与えるだろうと誰もが思ったに違いない。
ゆるく弧を描くはちみつ色の髪に、人形のように整った容姿。
歳の割に背が小さくて一見幼く見えるが、どこか老成したような雰囲気を持っていた。
大人と子どもが入り混じるアンバランスで不思議な魅力があり、人の目を惹きつけてやまない。
こんな子が現れたら、大きな話題になるだろうと他人事ながら心配になった。
魅力のある人物は良いものも悪いものも引き寄せる。上手く立ち回る事ができる子であればいいが、そうでなければ他人の嫉妬や羨望に振り回されていずれ潰されてしまうだろう。
お茶会の場では、今までどこにも顔を出したことのないカレン家の娘が突然現れ、その飛び抜けた容姿と堂々とした佇まいで皆の度肝を抜いた。媚びることなく飄々とした態度で、他者を寄せ付けない雰囲気の彼女は案の定浮いていた。
お茶会のテーブルに蛾が落ちて、子どもたちがパニックになった時、大騒ぎをする子らを一喝して黙らせた冷静さと統率力に舌を巻いた。彼女の発する声に思わず護衛の騎士たちも姿勢を正してしまったほどだ。
蛾を素手で持つという暴挙でそのことはうやむやになってしまったが、賢明な者は気づいていただろう。彼女の声には力がある。人を従わせる何かがある。それをカリスマ性と呼ぶのか俺には分からないが、こういう人間は他者に多大な影響を及ぼす存在になるだろう。
本人がそれを意識していない場合、それはもろ刃の剣になるが、彼女の場合、全くの無自覚だ。
かくいう俺も、初めてヴィヴィアナと話をした時、理知的な灰色の瞳でじいっと見つめられて、相手は子どもだというのに妙に緊張してしまった。人形のように整った顔はどこか冷たい雰囲気を醸し出していたが、笑うと突然ふにゃっとあどけない顔になるので、このギャップもまた人を惹きつけるのだろうと思った。
王太子殿下は、あの騒ぎの後からヴィヴィアナに興味を持たれたようで、もっと彼女と交流を深めたいと言いだした。
今までにない性急さで、ヴィヴィアナと距離を詰めようとして彼女に不審がられていたが、かなりゴリ押しする形で最終的に彼女が押し切られて二人は友人になった。
特定の子女と親しくなると権力争いの火種になりかねないとして、義務的にしか人々と付き合ってこなかった殿下が、ヴィヴィアナにだけ特別の関心を示されたことは貴族たちに大きな衝撃を与えた。
殿下もそれを理解していたようで、ヴィヴィアナを王宮に呼ぶ際は口の堅い御者と俺だけを迎えに遣わせ、王家の紋章が入っていない目立たない馬車を用意していた。王宮内でも人目につかない場所を選び、彼女とのお茶会はかなり慎重におこなっていた。
逆に言えば、殿下はそうまでしてもヴィヴィアナと会いたいということだ。
実際、彼女と話をしている時の殿下は、見た事の無い悪戯っ子のような笑顔でヴィヴィアナをからかったり、側近の誰も聞いたことがない本音をこぼしたりしていて、殿下にとって彼女の存在は特別なのだと早い段階で理解した。
ヴィヴィアナは変人の自分が友人では殿下に悪影響があるのではと心配していたが、それよりも何の後ろ盾のない彼女のほうが実際危うい立場にあった。
殿下も、彼女に要らぬリスクを背負わせている自覚はあった。
それでも彼女を遠ざけることができなかったのだ。
二人の邂逅は決して甘い雰囲気などではない。どちらかというと男友達のような砕けた雰囲気だったので、殿下が色恋ではなく純粋にヴィヴィアナを友として気に入っているのだと思っていた。
殿下は彼女との付き合いを慎重に隠していたが、腹に一物ありそうな者達は王太子殿下の動向をつぶさに探っていたようで、ヴィヴィアナは将来の王太子妃なのだ、と誰が言いだしたのか分からない噂が囁かれるようになった。
ヴィヴィアナの父カレン家当主は高潔な人物で、実力と己の功績で今の地位を築いた人物だ。
娘に政略結婚など望まないと公言していたのだが、如何せん彼が、国内屈指の実力者で高位の役職に就いているがゆえに、彼が政権を握ろうと画策していると考える者も出てきて、ヴィヴィアナ嬢の知らないところで大人達の思惑が錯綜していた。
殿下の婚約者が決まっていればこれほど騒ぎにならなかったのだろうが、まだ決める段階ではないとして、国内から選ぶのかはたまた同盟国の姫と婚姻を結ぶのか、方向性すら明言されてはいなかった。
年頃の娘がいる貴族らは殿下に我が子を売り込もうと躍起になっていたが、当の殿下も両陛下も平等に皆を招いてお茶会を開くだけにとどめ、どの令嬢にも付け入る隙を与えないままだった。
そんなところに突然現れたヴィヴィアナは、そういった貴族たちの不満に火をつけた。
何故彼女だけ特別扱いなのか、やはりカレン家当主がなにか王家に汚い手を使って働きかけたのではないかなど噂が噂を呼び、いつの間にかヴィヴィアナを取り巻く環境は、彼女の知らないところで随分ときな臭くなっていった。
どれだけ殿下が噂にならないよう気を遣ったとしても、人の口に戸は立てられない。このままではいずれヴィヴィアナ嬢の知るところになるだろうし、なにより彼女を蹴落とそうと何か仕掛けてくるものも出てくるかもしれない。
その事を踏まえ、俺は殿下にヴィヴィアナ嬢とのお茶会はもう止めたほうがいいのでは、と申し上げたことがあった。
「ヴィヴィアナ嬢は腹の探り合いなどできる人間ではありません。どうみても世渡りも下手そうですし、このまま殿下の身近におけば、彼女を貶めようと画策してくる者も出てくるでしょう。それを彼女自身が察知できるとも思えません。腹黒い連中と渡り合うのもあの素直な性格では難しいでしょう。何か手を打つか……いっそ付き合いを断つかしなければ彼女の身が危うくなります」
「ああ……そうならないよう気を付けていたつもりだったんだがね。それほど彼女と私の交友は噂になっているのか?」
「不穏なほどに。無い裏を探ろうと皆が躍起になって、正しくない噂が出回っています。このままではカレン家そのものを攻撃しようとする者も出てくるでしょう。いっそ婚約者となれば表だって守ることもできるのですが……それも無理な話ですし」
「じゃ、ヴィヴィアナを正式な婚約者としよう。そうなれば王家がカレン家の後ろ盾となるから安心だろう?」
殿下は今日のおやつでも決めるかのように軽い言葉で婚約者にすると言った。
一瞬冗談かと眉を顰めたが、全く笑わない瞳でほほ笑んでみせる殿下をみて、これは本気だと気付いて血の気が引いた。