一番悲しいさようなら
私が叫んだその瞬間、オリヴァーの体が目の前から吹っ飛んでいった。見えない力に動かされるように彼は薬屋の看板が掲げられている門の向こう側へ弾きだされる。
ナイフは私の手に残った。
何が起きたのか分からない様子のオリヴァーは一瞬きょとんとして、頭を振って体を起こしこちらに向かってこようとしたが、門をくぐる事ができない。
「なんだ? ど、どういうことだ? これは君の力か?」
オリヴァーは門の手前で見えない壁と戦っている。だがどれだけ力を込めても境界線を越えることは出来なかった。
そこでようやく私は何が起きたのか理解する。
これは家がオリヴァーを『招かれざる客』だと判断したのだ。薬屋のあるじである私を害する者はこの敷地に入れない。危険な虫や獣もこの家が張る結界で入って来られない。オリヴァーは私が招き入れたから問題無かったが、恐らく今オリヴァーが私を害する危険な存在だと家が判断したのだろう。
こうなってしまってはもうオリヴァーが家に入ることはできない。所詮雇われあるじの私は、家が決定することに交渉する力は持っていない。この奇妙な共同生活は今この瞬間をもって終わりを告げたのだ。
いつかは終わると思っていたけれど、こんな終わり方とはね……。
私はゆっくりと門のそばにいるオリヴァーに近づいていく。
ずっと言えなかった言葉がある。
今言わないと二度と伝えられない。
喉がぎゅっと苦しくなって涙が出そうになるが、必死で耐えて意地で微笑んでみせる。
「私ね……人間だった頃、あなたが好きでした。あの頃は幼すぎて自分の感情がなんなのかわかっていなかったけれど、今なら分かります。
まだ十四歳の子どもだった私は、あなたに恋していました。鳶色の瞳に私が映るといいなといつもドキドキしながらあなたを待っていました。あなたが微笑んでくれるだけでどうにかなってしまいそうなくらい嬉しかった。
だからこそ、冤罪をかけられて処刑されるとなった時、自分が死ぬことよりも、あなたに信じてもらえないことがとてもつらかった……。
死にかけていたあなたを助けたのは、私を殺したあなたに恨み言のひとつもいってやりたいと思ったからですけど……って、自分に言いわけしていましたけど、結局はあなたが死ぬところを見たくなかっただけなのかもしれないですね……。
この薬屋は意思ある生き物です。そしてあなたはこの家に『招かれざる客』と認定されました。もう二度とこの門をくぐる事はできません。この生活ももう終わりです」
聞きたい事、言いたい事は山のようにあったが、もうこれ以上オリヴァーと分かり合う必要は無い。これ以降、もう二度と私達が会う事は無い。こうして再び出会ってしまった事が間違いだったんだ。
私の言葉を聞いたオリヴァーは目を見開き、こちらへ入ってこようともがくが見えない膜があるかのようで境界線を越える事ができない。
「ま、待ってくれ! まだ終わりにしないでくれ! さっきはどうかしていた、突然たくさんの事実を知って……混乱していた。まだ君に言いたいことがあるんだ! 俺は……」
「冤罪をかけられるのは慣れているつもりでしたけど、やっぱりキツイですね。
その人間界で起きた事に関して私は何も知りません。あなたがどうして魔の森に落ちてきたのか私は知る由もありません。パックンちゃんに食べられているあなたを見つけたのは全くの偶然でした。そう言っても信じないでしょうが、それももうどうでもいい事です。さようならオリヴァーさん。二度と会う事はないでしょう」
オリヴァーは私の言葉を聞いて崩れ落ちるように膝をついた。
うなだれる彼の肩がぶるぶると震えている。少し伸びたアッシュブラウンの髪が揺れて、私は思わずその頭に手を延ばしかけて……ぐっと押し留まった。
あの髪をわしゃわしゃと撫でた感触が鮮明に蘇ってきて、胸がぎゅうっと締め付けられた。
泣くな、泣くな泣くな泣くな。泣いたら気持ちが折れてしまう。拳を強く握って溢れそうになる涙を堪える。
オリヴァーが顔を上げ、力ずくで境界線を越えてこようともがきながら声を上げた。
「ヴィヴィアナ! どうしても君に言いたいことがあるんだ! ヴィヴィアナっ……」
止めて、名前を呼ばないで。オリヴァーの言葉を遮るように私は携帯していた麻痺薬を彼に向かって投げつけた。一瞬にしてオリヴァーはその場に崩れ落ちた。
魔の森のダチュラから精製した麻痺薬は大型の魔獣でも昏倒させる威力がある。ただの人間であれば数日は意識が戻らず身動きも出来ないはずだ。この麻痺薬は意識を朦朧とさせるだけでなく記憶障害を引き起こす。この魔の森で起きた事、私と過ごした日々も全て忘れてしまえばいい。
崖の向こうに捨てに行こう……。疲弊しきっていた私はその場にずるずるとしゃがみこんで頭を押さえた。
でもまずは納品する薬を作らねば。さっき蜂に襲われた時に採集してきた薬草をいくつか落としてきてしまった。回収して早く作業に取り掛からなくちゃ……。
昏倒しているオリヴァーをどうするか……。
傷がズキズキと痛む。先に治療しないとダメかも……。
考えがまとまらず、座り込んだまま立ち上がれない。
その私の上にふと影が差す。
「ヴィー、大丈夫か」
「イチ兄さん」
私が落とした薬草を手に持って、イチ兄さんが私の前に立っていた。
「だからこんな人間を助けたりせず、さっさと殺したほうがよかったんだ。お前が見たくないというのなら、俺が見えないところでコイツを処分してきてやる。お前はまず自分の傷の手当てをしろ。酷い有様だぞ」
「待って……お願い、オリヴァーを人間界に帰したいの。麻痺薬を使ったから記憶は曖昧になるはず……森のことはほとんど覚えていないだろうから、だから、あの……お願い、兄さん。オリヴァーを殺さないで」
森を守るイチ兄さんが、私を害そうとした人間をおいそれと帰してやるとは思えない。でもこのままではオリヴァーは殺されてしまう。どうにかそれだけは止めたいが上手い言葉が出てこない。そんな私を見てイチ兄さんはため息を一つついて、落ち着かせるようにそっと私の頬を撫でた。
「分かった、お前がそう言うのなら殺したりしない。俺がちゃんとお前の記憶も消して、崖の向こう側へ帰してくるからお前は行くな。本当に殺さないから、そんな顔するなよ」
不安が顔に出ていたのか、イチ兄さんは重ねて約束してくれた。両手で私の顔を包み何度も優しく撫でてくれる。
頬を撫でられるたび、冷え切っていた心が溶けだすようにポロポロと涙がこぼれた。
どうしてこうなってしまったのか。
再び身に覚えのない罪でせめられるとは思わなかった。
彼のなかで私はそれほど悪辣な存在だったのか。愚かな子どもだった私はそんな事に気づきもせず、ただ優しい騎士のオリヴァーに憧れ恋をしていた。
そしてもう一度、彼に会って共に時間を過ごすうち、忘れていた恋心を思い出してしまったなんて、私はどこまで愚かなんだろう。
オリヴァーと過ごした穏やかな時間が幸せすぎて、今はこんなにも切ない。
「……泣くなよ」
イチ兄さんは泣きじゃくる私を困ったように抱きしめる。
「ヴィー、俺がいる。俺は人間のように騙したり裏切ったり利用したりなんてしない。俺がお前のそばにいるから、お前も俺だけを見ていろ」
「……兄さん」
私を抱きしめる腕にギュッと力が入る。大丈夫だ、と体全体で伝えるように兄さんは強く私を抱きしめてくれた。
次から視点が変わります。