兄は過保護
そこに居たのは銀色オオカミの魔人で、魔の森で私にとっての義理の兄である、イチ兄さんだった。
オオカミのお母さんと兄弟のおかげで、私はこの魔の森で生き延びる事ができた。特にイチ兄さんはこうして独り立ちした後も、長男の責任感からか私の事を気にかけて時々訪ねてきてくれる。
お母さんも兄弟たちは魔獣の姿だが、ひときわ体が大きくて優れた個体だったイチ兄さんだけ魔素を多く取り込んだのか、ある時、魔人へと変化して、巣立ちしてからは完全なヒト型の魔人へと進化した。
大きな耳と、ふさふさのしっぽだけがオオカミだった頃の名残として残っている。今はもう魔人らしく衣服をまとい狩りには武器を使う。
狼だった頃よりも身体能力は向上し、複雑な魔術も使えるようになった兄さんは、泉を抜けて魔界へ行けるようになり、アッチで色々仕事をするようになったらしい。忙しくて大変そうだが、それでも割と頻繁に来てくれる。
時間が空けば顔を見せに来てくれる兄だが、今日はただ遊びに来たという訳ではなさそうだった。
「谷にまた人間が落ちてきたみたいだ。それだけならこれほど森が騒がないはずなんだがな、ヴィー、何か知らないか?」
「あー……兄さんゴメンナサイ、それ私が拾いました。人間だった頃の知り合いだったので」
そこまで言うと兄さんの殺気が一気に膨れ上がった。金色の瞳がグワッと見開かれて恐ろしいことこの上ない。
「人間だった頃の知り合いだあ? それをお前は助けたのか? 自分が人間界でどんな目に遭わされたのか忘れたのか? ヴィーは……その人間と元の世界に帰るつもりなのか?」
「ちょ、兄さん、覇気が、覇気がすごくて死にそうだから……ちょっと落ち着いて。帰るわけがないじゃない。あそこはもう私の居場所じゃないし、男を助けたのは、恨み言のひとつもいってやろうと思ったからで……」
「男だあぁあ!?」
牙をむき出して兄さんが吠えた。ウオオオーンという声とともに覇気をぶつけられ体がばらばらになりそう。あ、だめだこれ死ぬ。
白目を剥いて気絶しかけた時、正気に戻った兄さんが慌てて覇気を収めた。
「す、すまんヴィー!大丈夫か!?」
「……ダイジョウブです。兄さん、あの、私本当に人間界に戻るつもりは無いし、この魔の森に関する情報を外に漏らすつもりはありません。恩ある森に仇なすつもりなんて全然……」
「悪い、お前が悪心を持っているだなどと疑ったりしていない。でもまさかお前が人間を助けると思わなかったから、ひょっとして人間に戻りたいのかと心配になってしまったんだ。ごめんな」
「いいえ、報告を怠った私が悪いのです。そいつは私を谷から投げ落とした仇のような相手です。せっかくの機会ですから恨み言のひとつもいってやりたいと思ったので殺さずに保護しました。まあそれに飽きたら記憶を消して人間界に返してやるつもりです」
「なんでそんな面倒な事を……さっさと殺すんじゃダメなのか? 復讐してやりたいなら、俺が生まれてきたことを後悔するくらいの目に遭わせてやるぞ? ヴィーと一つ屋根の下に男……いや、ヴィーを害した危険な人間を一緒に居させるわけにいかないからな。そんな危ない真似、兄として認められないぞ。ダメだダメだ」
「いえ、今は怪我して自力で動くことも叶わないので危険はありません。イチ兄さんは手を出さないでください。これは昔の私のためにしていることです。自分でやらなくては意味がありません。ひ弱な私では信用できないでしょうけど……」
「いや、信用してないとかじゃないんだ。ただな、可愛い妹の身に何かあったらと思うと心配でたまらないんだ」
「大丈夫ですよ。ここは薬屋の敷地内ですから。その男に返り討ちにされたりしません」
兄さんはだいぶ渋っていたが、重ねて頭を下げると『男の傷が治るまで』という条件付きで許してくれた。もっとも、この家に居る限り敷地内で『薬屋のあるじ』である私に危害を加えることは出来ないと分かっているから兄さんも寛容なのだろう。
「今日はひとまず帰るがまた来る。何かあったらすぐ俺を呼ぶんだぞ」
昔のようにギュウと抱擁して鼻を擦り合わせる。そして私の顔をペロペロと舐めた。オオカミだった頃と変わらない、イチ兄さんの親愛の挨拶。兄さんはヒト型になった今でもオオカミの時の癖がぬけない。オオカミの時より小さくなったので窒息することはないのだが、口の中を舐めまわすのは正直止めて欲しい。
兄さんはいつも以上にしつこく私を舐めまわしたあと、ようやく帰っていった。
兄さんの去っていったほうを眺めながら暫くぼんやりと考える。
私のしていることは、何の意味があるのか。魔の森を危険に晒すつもりなどなかったが、人間に与する危険な存在と思われる可能性もあったことに思い至らなかった。私を受け入れ、居場所をくれたこの森を脅かすような真似は絶対にできない。
“さっさと殺すんじゃダメなのか?”
兄さんの言葉が頭をよぎる。それを打ち消すようにぶんぶんと頭を振って踵を返すと、窓から身を起こしたオリヴァーがこちらを見ていた。
森で分けてもらったエンドウマメを鞘から出してすりつぶす。保冷庫からヤギのミルクを取り出しすりつぶしたエンドウマメをのばして塩コショウで味を調えポタージュをつくる。
人参は柔らかく茹で、潰して小麦粉と砂糖、そしてよく泡立てた卵を加え、混ぜ合わせる。熱したフライパンにそれを流し込み薄く広げて焼く。ひっくり返して両面焼くと、ふわふわのパンケーキの出来上がりだ。
今日の夕飯はエンドウマメのポタージュと人参のパンケーキにした。卵は近くに住む鶏(凶暴)が孵化しないものだけを分けてくれるが、数が少ないのでとても貴重だ。
パックンちゃんにもらった蜜をたっぷりかけて、オリヴァーの前に皿を置いてやるとゴクッと喉が鳴る音が聞こえた。朝食べたきりだからお腹が空いていたのだろう。
温めたポタージュを木匙で掬い口元に持っていく。
「はい、あーん」
オリヴァーはものすごく何か言いたげだったが、空腹の方が勝ったのか大人しく口を開けた。ポタージュを口に含むとパッと目を見開いて『オイシイ!』て顔になるので面白くて笑ってしまう。パンケーキも一口大に切り分けて食べさせてやると、あっという間に食べきってしまった。
「お、美味しかった。ありがとう……」
恥ずかしそうにお礼を言うオリヴァーはやっぱり雛鳥のように見える。よしよし、と頭を撫でてやるとものすごく複雑そうな顔で俯いた。私も同じ食事を済ませると、見計らったようにオリヴァーが口を開いた。
「さっき、外に魔人の男が来ているのがみえたが……知り合いなのか? 随分と……ものすごく親しいようだったが」
「ああ、兄です。元々はオオカミの魔物でしたが、魔人に変化したのでヒト型なんです」
「兄弟なのか……! オオカミだから、あんな感じの挨拶なんだな! そうかそうか! あっ、じゃあ君も元はオオカミだったのか? だけど全然似てないんだな。さっきの魔人は確かにオオカミのようだったが、君は耳とか生えていないのか。髪と目を隠してしまえば君は人間に紛れても分からないくらいだ」
「……そう、ですかね。私は兄弟のなかでも出来損ないなんで」
兄とは血が繋がってないどころか種族も違うのだから当たり前だと思ったが、口には出さない。
これ以上詮索されると余計な事をいってしまいそうなので口を噤んだ。私が黙るとオリヴァーはなにかまずい事を言ってしまったのかと、気まずそうな顔をして、それ以上聞いてくる事は無かった。
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