三人の甲子園
三人の甲子園
三郎に打順が回ってきたとき、三郎は動じなかった。九回表、三対二、三郎のいるチームが一点差で負けている。ワンアウトでランナーが一塁にいて、ここで一発打てば逆転というまたとないチャンスだった。心地よい緊迫感と、やってやるという意気込みが三郎を奮い立たせる。相手のピッチャーは疲れ気味で、肩で息をしている。これならやれるかもしれない。三郎は勇み立った。
「ストライク」
一球目は、空振りした。
「ストライクツー」
二球目も空振り。
「ストライクスリー、バッターアウト」
審判が言った。見事なまでの空振りだった。三球三振。相手ピッチャーの思惑通り綺麗に打ち取られた三郎だった。意気消沈した三郎は、バッターボックスから出ると、ベンチへと戻っていった。三郎の次ぎの打者も、ファールを立て続けに打って粘ったのだが、結局アウト。試合終了となった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
両チームの挨拶が終わり、荷物をまとめると、三郎とミツヒデ、照子は帰路に着いた。
「ねえ、さぶちゃん」
「ん?」
照子が言った。
「今日の試合、さぶちゃん、いいとこなかったね」
照子はそう言うといたずらに微笑んだ。
「うるさい。対戦相手のタイタンズが強すぎたんだ」
「そうかな」
「そうだよ」
三郎はそう言われて、そっぽを向いた。そうして足早に歩き出した。そのあとを照子が追った。二つの影が、夕日を浴びて伸びていく。走っていく子供たちの後を、影が、ゆらゆらと揺らめいた。
「へへへ、冗談だって。そう怒らないでよ、さぶちゃん」
照子はそう言うと、三郎の顔を覗き込んだ。
「おれなんか三安打二打点だぜ!」
二人の隣にいたミツヒデは、そう言うと嬉しそうに持っていたバットを振り回した。ミツヒデの顔が夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。
「みっちゃんすごい!」
照子は称賛のまなざしでミツヒデの事を見つめた。
「あー、もう、どうせ俺は野球が下手ですよ」
三郎はそう言うと、ミツヒデと照子を睨みつけ、走り出した。
「あっ、待って!さぶちゃん」
ミツヒデはそう言うと、三郎の後を追いかけた。そのあとを照子が続いた。そうして、三人は、坂道を上ると、そこから照る夕日を見つめた。太陽が今、まさに地平線の彼方に沈んでいくところだった。大気がゆらゆらと揺れながらオレンジ色になったあたり一帯が、寂しさとともに不思議な感慨を抱かせた。先ほどの試合で疲れた手足がかすかにうずく。夕日に何もかも飲み込まれそうな予感がした。
「うわあ、すごい」
「うん、すごい」
三郎とミツヒデが言った。
「すごいって何が?」
あとから来た照子が二人の背中に向かって問いかけた。
「夕日」
「夕日?」
「見てみろよ」
そう言われて照子が顔をあげた。
「わあ」
三人の目の前では建物のあいだに暮れゆく夕日が、オレンジ色に染まっていた。夕日は、その輪郭がぼやけながら、ゆらゆらと少しずつ沈んでいき、三人の姿を照らし出した。その影は、今まさに、うしろに向かって長く細く伸びていく。
「腹減った!帰る!」
三郎はそう言うと、一目散に家へと向かって走り出した。片手にはバットを持って、片手にグローブを持って、帽子をかぶりなおして三郎は走った。先ほどと同じように、そのあとをミツヒデが走り、照子が続いた。夕日に向かい走っていく二人の背中は、黒い影となって手前側へと伸びていて、その影を追いながら照子が言った。
「ねえ、小学校も、今日で終わりだね」
照子が誰とはなしに走りながら言った。
「うん、そうだね」
前を駆けて行く三郎が答えた。
「明日から中学校だよ」
「そうだね」
「中学校ってどんなところ?」
照子が言った。
「今までとは違う人たちが集まってくるみたいだよ」
ミツヒデが言った。
「きっと日本中からすげえ奴らが集まってくるんだぜ」
ミツヒデが言った。
「世界中から強い奴が集まってくるんだよ、きっと」
三郎が言った。
「そうかなー」
「そうだよ」
三郎とミツヒデ、二人が目をきらきらさせて言った。
「えー、それは違うと思うよ」
照子が二人の意見に異を唱えた。
「じゃあ、どんなところなの?」
「わかんない」
「怖いところ?」
「楽しいところ?」
「部活があるよね。中学校から」
「うん、ある」
「おれ、野球部に入るんだ」
「おれも。絶対レギュラーになってやる」
「三郎には無理だって」
「なにお、この」
三郎が憤慨した。
「とにかく楽しみだ」
ミツヒデがそう言うと、バットを担いでいない方の手を挙げて、それを振り回した。
「じゃあね、また明日。中学校で」
「うん、ばいばい、みっちゃん」
「ばいばい」
春休みの終わり、小学校最後の日の夕方、ミツヒデはそう言うと、交差点を曲がって行ってしまった。ミツヒデの行った後、照子と三郎は走ることをやめ息をついた。そうして、二人して歩いていた。野球の試合の後で、くたくたになっていた三郎は無言で歩いた。それを受けて、照子の方も、特に口を利くということはなかった。二人は、黙って歩いた。商店街の料理屋からカレーの匂いが漂ってきた。三郎のおなかが鳴った。照子はこれを聞くと少し笑い、私もおなかすいた、と言った。商店街の一角にあるスーパーで二人はコロッケを買うと、それをほおばった。
「ほくほくだ」
三郎が言った。
「うん、ほくほく」
照子が言った。
「おいしいね」
三郎が言った。
「うん、おいしい」
「おい、照子、買い食いはいけないんだぞ」
三郎が言った。
「さぶちゃんだって買い食いしてるじゃないの」
照子が笑いながら言った。三郎はこれを受けて何も言えなくなってしまった。そして少し考えてから、やがて言った。
「秘密な」
「うん、秘密だよ」
照子が言った。二人がコロッケを食べ終えるころ、住宅地の連なるところまでやってきた。二人の分かれ道は、もうすぐそこだった。分かれ道に差し掛かると、今までコロッケを食べていた照子が切り出した。
「ねえ、さぶちゃん」
「ん?」
「今日は試合お疲れ様」
「うん」
三郎は言った。
「明日からの中学校もよろしくね」
「うん」
三郎はそう言うと、照子のことを見つめた。照子は、ばいばい、と手を振ると、自分の家へと続く道を帰って行った。三郎と別れたあとも、照子は、時々振り返って三郎のことを見て手を振った。だから三郎も照子が見えなくなるまで手を振り返した。手を振る照子の姿は夕日に向かって徐々に小さくなっていき、夕日を背景にしたその影は濃密な名残りを秘めながら、やがて三叉路を曲がると、見えなくなった。三郎は、今までの小学校生活が終わってしまったという喪失感と、これから始まる中学校生活への期待感を胸に秘めながら、照り付ける夕日を背後に、家に向かって走って行った。沈んでいく夕日が、先ほどまでとは違った趣きを呈していた。手を振っていた三郎は、照子と別れると、今日の夕食は何だろう、と思い浮かべながら、自身の家路を急ぐのだった。
中学校初日の朝、三郎は家を出ると学校へと続く道を歩いていった。昨日まではここを曲がって小学校に行っていたけれど、今日は違う。いつもの道を今日はまっすぐに進み、中学校へと向かって行った。中学校では、どのような生活が待っているのだろう。期待に胸を膨らませながら、三郎は歩いて行った。
「照子、お前、スカートかよ」
中学校についてみると、今まで私服だった皆が制服を着ていて、その事がなんだか新鮮だった。三郎とミツヒデは照子の制服を見ると笑った。
「女の子の制服は、これなのよ。なによ、似合ってない?」
照子は、恥ずかしげにそう言うと、二人の事を見た。
「似合ってなーい」
三郎が言った。
「しつこいわよ、三郎君」
照子はそう言うとスカートのすそを撫でた。
「へへへ、おれ学校の中、探検してくる」
ミツヒデはそう言うと、校舎の中へと向かい、走って行った。
「あ、おれも」
三郎もそう言うと、ミツヒデの後に続いた。そうして二人は、今日から通うことになった中学校の校舎の中へと、入って行った。
校舎は、小学校よりも広く三階建てで一年生の教室は一階、二年生が二階、三年生が三階だった。二人はその中を、階をまたいで上へ下へと走り回った。そうしながら校舎を見て回った。今までとは違う環境に心が浮き立つ。
「おい、見ろよ。教室広いなあ」
「広い!」
「給食室でかいぞ」
「でかい!」
「見ろよ。図書室だぞ。本がいっぱい」
「興味ねえ!」
二人は次々と校舎の中をはしゃぎながら見て回った。すると、職員室の前で、頭の禿げた先生が出てきて、二人のことを一喝した。
「こりゃ、一年坊主ども、廊下を走っちゃいかん」
二人はそう言われると、急停止して、背筋を伸ばし、先生の方を見た。
「お前ら、そろそろ体育館で入学式が始まるぞ。早くそっちに行きなさい」
「はい、わかりました!隊長!」
ミツヒデがわくわくしたまなざしで先生に向かって敬礼した。三郎も敬礼した。頭の禿げた先生は、敬礼をされて戸惑っていたが、やがて二人は入学式の行われる体育館へと向かって行った。
「えー、そういうわけでございまして、諸君らはこれから当校の生徒となるわけであります。くれぐれも悪さをしないように、しかし、日々の生活を目いっぱい楽しんでください」
校長先生の話が終わり、三人は校舎へと移動していた。着慣れない中学校の制服を着て、幾分気持ちが高ぶっているミツヒデと三郎は、照子と共に、渡り廊下を歩いていた。すると、渡り廊下の向こうの方に、広い校庭が見えてきた。
「おい、見ろよ。校庭だぞ」
「本当だ」
「あそこで、野球やるんだぜ、きっと」
「そうかなあ」
「そうだよ」
ミツヒデが言った。
「さっそく今日の放課後から見学できるってさ。楽しみだね」
ミツヒデはそう言うと、ボールを投げるしぐさをして笑った。そうして、振り返って三郎のことを見つめた。
「三郎君も行くでしょ?」
「うん、行こうと思ってたとこ」
「話がはやい。それじゃあ、ホームルームが終わったら、下駄箱んとこ集合な」
「私も行く」
照子が言った。
「照子も?」
ミツヒデと三郎は、驚いて言った。
「うん、わたし、マネージャーやろうかと思って」
「マネージャー?」
ミツヒデが言った。
「うん、変かな」
「うーむ」
二人はそう言うと考えた。
「例え照子でもマネージャーは居た方がいいかもな」
三郎が言った。
「そうだな、たとえ照子でも、いた方がいいかもしれないな」
ミツヒデは神妙に頷いた。二人はそう言うと笑った。
「何よ。わたしだって人並みに活躍できるんだからね」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
ミツヒデはそう言うと口笛を吹いてはぐらかした。
「ミツヒデ、お前何組?」
「五組。お前は?」
「二組」
「ふーん」
「それじゃあ私と一緒ね、私も二組」
「えっ、照子と一緒かよ。勘弁してくれよー」
三郎は愚痴を言った。
「ははは、こいつはいいや。せいぜい仲良くしなよ、おふたりさん」
ミツヒデは笑った。そうして振り返ると、二人に背を向けて歩き出した。
「放課後の予定、忘れんなよ」
そう言うと、ミツヒデは自身のクラスへと行ってしまった。ミツヒデがいなくなり、二人で二組へと向かう途中、三郎が隣を歩いている照子に向けて言った。
「なあ、照子」
「なに、三郎君」
「ちょっと気になったんだけど」
「うん」
照子は、三郎のことを見つめて、その続きを待った。三郎は、しばらく間をおいてから、続けて言った。
「お前、なんでマネージャーになろうと思ったの?」
「え?マネージャー?」
「うーん、なんでかな」
照子はしばらく考えていたが、やがて言葉を継いだ。
「はじめは、野球って感じじゃなかったんだ。文芸部とか、吹奏楽部とか、そういうの興味あったし。でも、三郎君もミツヒデ君も、野球部に入るっていうから。そんな中で、自分にできることって何だろうって考えたとき、頑張ってる男の子たちの手助けができたらいいなって思って」
「ふうん」
三郎は考えた。
「そう言うのってわかんねえ。なんで、自分優先で考えないの?」
三郎は三郎なりに考えて、そうして出した回答だった。
「失礼しちゃうわね。頑張ってる人を支えたいっていう気持ちは、普通だと思うけれど」
「うーん、そうかなあ」
三郎はそう言うと、上を向いて考えた。
「ふふふ、三郎君は、女の子のそういう気持ちってわからないんだ。三郎君にはまだ少し難しいかもね」
照子はそう言うと、いたずらに微笑んだ。これを受けて三郎は考えていたが、三郎には女の子の気持ちなどわかるはずがない。女の子が何を考えているかなんて、三郎にとっては、宇宙の仕組みと同じくらい謎に包まれたものなのだ。
「あ、ここみたいよ。二組」
照子は、そう言うと教室の中へと入って行った。これに続いて三郎が教室に入り、二人が席に着いた。教室の中の生徒たちは、皆それぞれくつろいでいて、話したり、隠れて漫画を読んでいたり、そういったことをして過ごしていた。やがて、担任の先生が入ってくると、皆は席に着き、先生が話し始めた。
「諸君、こんにちは」
開口一番、担任の女先生が言った。
「こんにちは」
クラス中の三十人は居る生徒が声をあげた。
「元気があってよろしい。先生は森川と言います」
森川といった先生は、黒板にチョークで森川、と大きく書いた。
「ここテストに出るからね、覚えとくように」
森川先生は、そう言うとチョークで自身の名前をこつこつと叩いた。
教室中に笑い声が起こり、照子も三郎も笑った。そうして、森川先生が学校での生活や、部活動について、様々な話をして、中学校での生活をざっと説明し終えると、やがて集会が終わり解散となった。家に帰る者、談笑する者たちがいる中で、三郎と照子は野球部の練習を見に校庭へとやってきた。そこでは、二、三人がキャッチボールをしている程度で、まだ、部員は集まってきていない。三郎と照子はキャッチボールをしている部員に近寄っていった。三郎は少し緊張しながら、野球部のユニフォームを着た背の高い男に声をかけた。男は振り返ると、三郎のことを見つめ、照子のことを見つめた。
「あの、野球部の見学に来ました。一年二組の田中三郎と言います」
「マネージャー希望の一年二組、三井照子です」
二人は幾分緊張しながら、大きな声で言った。
「ああ、入部希望ね。ちょっと待ってて、キャプテンがまだ来てないから」
「キャプテン?」
「うん、キャプテン。主将」
背の高い男は、そう言うと、再びキャッチボールに戻っていった。
照子と三郎が、校庭の隅の方で待っていると、やがてミツヒデがやってきた。そうしてその場で背筋を伸ばすと口を豪快に開けて唾を飛ばしながら、大声で言った。
「一年五組、谷川ミツヒデ!野球部に入部いたします」
ミツヒデはそう言うと、鼻を鳴らした。
「おう、元気のいいのがやってきたな」
先ほどの男がそう言うと、向かいにいた男と笑った。そうして自分たちの練習に戻って行った。ミツヒデは三郎と照子を見つけると、そちらの方に近づいて行き、そして言った。
「お前ら、下駄箱のところで待っててって言ったじゃん。なんで先行くんだよ」
ミツヒデはそう言うと、頬を膨らせた。
「あ、忘れてた。ごめん、ごめん」
「薄情な奴らだな、本当」
「今度埋め合わせするから」
「絶対だぞ」
「わかったわかった」
三郎とミツヒデ、照子が話していると、そこに、一人の男がやってきた。その男がベンチに荷物を下ろすと、校庭に散らばってキャッチボールをしていた部員たちが集まってきて、一堂に会した。そうして、その男の前で整列した。その様子からしてどうやらその男がキャプテンらしかった。
「うぃーす」
キャプテンが言った。
「うーす」
残りのメンバーが答えた。キャプテンとメンバーを合わせて、だいたい十人ちょっと、それに一年の見学が四人いた。
「今日から新学期です。一年が見学に来ます。くれぐれも失礼のないように。いいとこ見せるぞ」
「うおーす」
部員たちはそう言うと、等間隔に広がり体操を始めた。体操をする部員たちをしり目に、一年生のもとにキャプテンがやってきて、四人に向かって笑顔を向けた。
「野球部へようこそ、キャプテンの出口と言います。よろしく」
「よろしくお願いします」
四人が声をそろえて言った。
「これから、練習をするから、君たちは見ていてね。質問があれば何でも受け付けるから。それじゃあ」
キャプテンは、手短にそう言うと、自身も体操の輪の中に入って行った。照子とミツヒデ、三郎は体操を終え、練習を始めた部員たちを眺めていた。部員たちは、肩慣らしにキャッチボールを始めていた。すると、練習を見学する三人のもとに、もうひとりの一年生がやってきて、話しかけた。
「君たちも入部希望?」
「うん、そうだよ」
ミツヒデが言った。
「仲良いみたい。友達?」
「うん」
すると、その一年が胸に手を当てて自分の事を指し示すとやがて話し始めた。
「ぼく、平山。今まで野球はやったことなかったんだけど、このあいだ、父ちゃんと甲子園を見に行ったんだ。そうしたら野球って面白そうでさ。やってみようかと思って」
平山と名のった少年はおっとりとした顔をしながら、ゆっくり話はじめた。
「ふーん」
三郎が言った。
「おれは小学校から野球やってるよ」
ミツヒデが言った。
「ぼくも」
三郎が言った。
「へー、そうなんだ。君はマネージャー?」
平山と言った少年が照子に話しかけた。
「うん、そうだよ、マネージャー」
「マネージャーって、なんか本格的だなあ」
平山はそう言うと、笑った。話し合う四人の向こう側で、野球部員たちが遠投を始めた。
「あー、早く練習やりたいなあ」
ミツヒデが言った。
「すぐ出来るよ。明後日からだっけ。練習に参加できるの?」
「うん、確かそうだった」
「ユニフォームとか、どうすればいいんだろう」
「え、わかんない。買うんじゃないの?」
「どこで?」
「わかんない」
そうして四人が話していると、そこに遠投で取り損なったボールが飛んできて、四人の目の前に転がった。ボールは、四人の後ろに飛んでいくと、金網にぶつかって地面に転げた。
「おーい、一年。ボール取ってくれる?」
遠くから声がした。
四人の中から三郎が進み出て、ボールを拾うと、投げ返した。
「サンキュー」
部員はボールを受け取ると遠投を再開し、一年生たちは話に戻った。
「ねえ、君たちは藤岡小から来たの?」
「うん、そうだよ」
照子が言った。
「平山君は?」
「滝坂小。長岩公園をずっと行ったところの」
「ふーん」
「藤岡小にいた山崎って知ってる?」
「うん、知ってる。山崎光夫でしょ」
「あいつとスイミングスクールが同じで、友達なんだ」
平山はそう言うと笑った。
「へー、そうなんだ」
「山崎君はどこ行ったの?」
「大石中」
すると、基礎練習を一通り終えたキャプテンが四人のもとにやってきて、笑顔を向けた。いかにもスポーツ少年と言った爽やかな笑顔だった。
「これからトスバッティングをやります。君たちも退屈だろう。練習に参加してみない?」
「いいんですか?」
ミツヒデが目を輝かせた。
「部員たちが打つから、近くからボールを投げてほしいんだ。ボールを投げる人の数が足りなくてね。これなら一年生にもできる」
そうして、一年生の四人が球を投げ、それを打ち返す練習が始まった。打者のもとにボールを投げると、それは気持ちのいい音を立てて、壁代わりの防護ネットに吸い込まれていった。金属製バットの打撃音、揺れるネットの軌道、すべてが新鮮なものに感じられた。三郎は、ボールを投げると、バットのボールを叩く音に耳を澄ませた。テレビの野球中継で耳にした音だ。
「いい音だろ?」
打者の野球部員が言った。
「ええ、そうですね」
三郎が言った。
「金属バットってうちの小学校にはなかったです。全部木製でした」
「そうか。お前、小学校で野球やってた?」
「ええ、やってました」
「なんとなくわかるよ。じゃあ、金属のバットって新鮮でしょ」
そう言うと、三郎の投げた球を打ち返した。バットがボールを打ち返すキーンという良い音がして、球がネットに吸い込まれていった。
「うちの野球部はさ。強くはないけど、良いところだよ」
また、キーンという音がして、球がネットに吸い込まれていった。
「そうなんですか」
「ああ」
しばらく間があってから、部員は勢いよくバットを振った。
「主将はいいやつだし、みんなも仲良くて」
「へえ」
「それでいてだれてるわけでもない。程よくはりがある感じ」
そう言うと部員は三郎の球を打った。そうして、しばらく練習が続いたが、やがて部員が口を開いた。
「打ってみる?」
野球部員はそう言うと、バットを三郎の方へと差し出した。
「いいんですか?」
「ああ、いいよ」
三郎はジャージ姿のままバットを構えた。はじめての金属バットは、緊張した。三郎は部員の方を見た。部員が球を投げ、三郎はバットを振った。すると軽快な音を立ててボールがネットに吸い込まれていった。
「いいフォームしてるじゃん」
野球部員が言った。
「ありがとうございます」
三郎が言った。そうして、二、三球トスを打った。
「よかったら、うち入りなよ。部員足んなくてさ。こきつかってやるぜ」
野球部員は笑った。三郎は、少し緊張しながら、笑みでこれに答え、続けて球を打った。バットが球にミートする瞬間が心地よかった。三郎は、心地よい汗をかきながら打撃を続けた。ボールを一通り打ち返したところで、球拾いをした。上級生も一緒になってボール拾いをしてくれた。
「はい、お疲れ。次は試合形式の練習だから」
「わかりました。ありがとうございました」
三郎はそう言うと、ベンチへと戻って行った。上級生は、緊張感を持ったまま、しかし適度に休憩を入れ、一生懸命に練習している。
「おら、山口、行ったぞ」
ボールが、レフトの方向へと飛んでいった。その様子を一年生の四人が見つめた。山口と言われたレフトはボールをキャッチすると、それをホームへと投げ返した。打球は、きれいに弧を描いて、キャッチャーミットに吸い込まれた。
「よーし、サード」
ボールがサードへと飛んでいった。
「次、セカン」
ボールがセカンドへと飛んでいった。そうして、練習は続いていた。皆が皆いい汗をかいて、練習に集中していた。動きも機敏で無駄がない。小学校の野球と比べると、レベルが一つも二つも上だった。練習を続けて、皆疲れた様子だったが、顔には精気が満ちていた。いいところかもしれない。頑張ってみようか。三郎は思った。
昼休み、三郎が弁当を食べていると、そこに、ミツヒデと平山がやってきた。三郎は弁当を食べる手を止め、二人のことを見つめた。
「三郎」
「なに、弁当食べてるんだけど」
三郎がそう言うと、ミツヒデと平山が三郎の目の前に紙切れを突き出した。その紙には、入部届と書いてあり、氏名を書く欄が備わっていた。
「入部届?」
三郎が言った。
「そ、入部届。お前もう出した?」
「いや、まだだけど」
「それじゃあ出し行こうぜ」
「弁当食べてるんだけど」
「いいから、いいから」
そう言うと、ミツヒデと平山は、三郎を連れ出して、職員室へとやって来た。職員室に縁のない三郎は少し戸惑いながら、ミツヒデと平山は、勢いよく中へと入って行った。
「失礼します」
ミツヒデが言った。そうして、野球部の顧問である山本先生のもとに歩いて行った。
「入部の受付、今日の昼休みからでしたよね」
「ああ、そうだよ」
山本先生が弁当を食べながら言った。
「うぉっす。谷川ミツヒデ、野球部に入部いたします」
そう言って山本先生に入部届を提出した。
「へへへ、一番乗りですよね」
そう言って得意になっていたミツヒデだったが、
「お前の前にもひとり来てるぞ」
と、先生が告げた。
「え、本当ですか」
そう言うとミツヒデの顔が青くなった。
「ほら」
山本先生はそう言うともう一枚の入部届をミツヒデに見せた。
「三井照子、マネージャー」
ミツヒデはその紙をつかみながら顔の前に持っていって言った。
「あいつ、こういうのだけは素早いんだなあ」
ミツヒデが悔しそうに頭を掻きながら言った。
「いいじゃん、順番なんて」
そう言いながら、平山が先生に入部届を渡した。
「おれが一番だと思ったのに。なんてこった、おれの負けだったのか、世界の終わりだ」
ミツヒデはそう言うと、憤怒しながら職員室を出ていき、何処へ行くとなく廊下を駆けて行ってしまった。
「全く、忙しい奴だ」
山本先生はそう言うと、大きく笑い、再び弁当を食べ始めた。
「ミツヒデ君っていつもああなの」
平山が三郎に言った。
「うん、あんな感じ」
三郎が呆れて言った。
「人生楽しそうだよね」
「まったくだ」
そう言って二人は笑った。その日から、野球部での練習が始まった。一年はまだ練習に参加させてもらえず、球拾いが主な仕事だった。上級生はユニフォーム、一年生はジャージ、そういった所にも、両者の違いは垣間見えた。照子は、ベンチに座ってスポーツ飲料を人数分作っていたし、ミツヒデはひたすらと声出し、三郎は、集めたボールを先生のもとに持っていった。先生は、それを片手で取り上げると、セカンド、と声をあげる。そうして、球を打つと、セカンドの選手が球を捕球、一塁に投げる。一塁手は球を後ろで控えている平山に渡す。平山が三郎のもとにボールを持ってくる。三郎はボールを先生のもとにある籠に入れる。先生がライト、と言い、球を打つ。球はライトへと飛んでいき、ライトの選手が球をとり、投げ返す。そのような一連の流れを三郎は見つめていた。決して強いチームではないと言っていたけれど、小学校のころと比べると、その違いは明らかだ。球は速いし、選手一人一人のフォームも安定している。選手たちの姿はとても様になっている。これが中学生の野球か。三郎は思った。そうして、校庭の反対側へとボールを拾いに行く平山を眺めながら、三郎は、選手一人一人の動きを観察した。ピッチャーの出口先輩は、ライナー性のあたりでも素早く捕球する優れた反射神経を持っている。フライが上がった。それをライトの選手がキャッチする。ボールはワンバウンドでこちらへと帰ってくる。肩が良い。ライトはなんという人だろう。まだ、名前も分からない人たちが、三郎の目の前で、一連の流れを素早く丁寧にこなしている。皆は汗をかきながら、しかし、気持ちがよさそうだ。春の日差しは、心地よい気配を帯びて、あたり一帯に満ちている。三郎は、野球がうまいわけではない。どちらかというと下手の横好きに近い。しかし、今目の前で繰り広げられている光景を見ていると、早くこの練習に参加したいという思いが、十二歳でしかない少年の心の中に、確かなひとつの塊となって存在しているのだった。
しばらくは、球拾いと声出しの日々が続いた。三郎もミツヒデも、平山も、それを苦にせずこなしていた。ミツヒデが言うには、ここの野球部は、上級生が十人しかいないから、いずれ自分たちにも出番が回ってくるだろう、うまくすれば一年生でレギュラーの座も狙えるかもしれない、という事だった。三郎が、ボールを拾うとそれを平山の背負っている籠に入れる。平山はそれがいっぱいになると、それを、打撃練習をしているピッチャーのもとに持っていく。ピッチャーが球を放り、バッターが打つ。球は校庭の反対側まで勢いよく飛んでいく。その繰り返しが、いつまでも行われている。その練習が終わると、選手たちはベンチに行って休む。水分を補給し、疲れをとる。そのあいだ、一年生は筋トレだ。
「なあ、三郎」
ミツヒデが腕立て伏せをしながら言った。
「お前ポジションはどこがいい?」
「うーん、外野手」
「なんで?」
「ボールを思いっきり投げられるから」
「それ、ただストレスがたまってるだけじゃん」
「そうかな」
「はやく、打撃練習とかしたいよな」
「でも、今はまだ、体をつくる段階だって、監督が言ってた」
平山が言った。
「でも、筋トレきついよ」
ミツヒデはそう言うと仰向けになって寝っ転がった。
「ふひー、疲れた」
そうして、空を見つめていた。
「お、わた雲発見」
ミツヒデが言った。
「サボってると監督に怒られるぞ」
「いいんだよ、ばれなきゃ」
「うわー、ミツヒデ君、不良だ」
平山が言った。
「おれも」
そう言うと三郎も筋トレをやめ、仰向けに寝っ転がった。
「雲が流れていく」
三郎が言った。
「二人とも、ちゃんと筋トレしなよ」
平山が腹筋をしながら注意した。
「今日の夕飯何かな」
「おれは、ビーフカレーがいい」
ミツヒデが言った。
「おれは、お前の母ちゃんじゃないぞ、そういう事は母ちゃんに言え」
三郎が文句を言った。
「ぼくは、かつ丼」
背筋をしながら、平山が言った。
「じゃあ、おれは刺身定食」
二人の鷹揚な感じに流された三郎が言った。そうして、三人が微睡んでいると、そこに照子がやって来た。照子はサボっているミツヒデと三郎を見つけると、二人のもとに近づいて行き、そして言った。
「三郎君、ミツヒデ君、サボってちゃだめじゃない」
「なんだ、照子か。いいじゃん別に」
ミツヒデがこともなげに言った。そうして、空を見つめている。
「なんだー、照子良い子ぶりやがって」
「そんなこと言っていいのかな」
照子は不敵に微笑んだ。すると、うしろを振り向いて大声で言った。
「監督、サボり発見しました!」
照子は言った。すると、何処からともなく山本先生がやってきて、寝転がっているミツヒデ、三郎、平山の三人の事を見おろした。
「こりゃ、お前ら、サボっておるな。確かに見たぞ。腕立て腹筋ワンセット追加」
監督はそう言うと、笑みを浮かべ、高らかに笑い声をあげながら去っていった。
「ちくしょー、お前のせいだからな。覚えてろよ」
三郎は腕立てをしながら、照子に言った。
「ぼくはサボってないのに。完ぺきに巻き添えだよ。ひどいったらありゃしない」
平山が愚痴を言った。照子は、必死になって筋トレをしている三人の姿を眺めると、満足そうに去っていった。
「あいつ、絶対良い嫁にならない」
ミツヒデが言った。二人も頷く。それは、三人の共通した意見だった。
筋トレと、ランニングと球拾い。この三つが一年生に与えられた活動だった。もっとバットとボールを使った練習ができるものと思っていた三郎は、内心不満を抱きながら練習をこなしていた。いつもの練習が何のための練習かというと、それは試合のための練習であり、練習試合は普段の力を試す格好の場所だった。そうして、三郎たちが野球部員になってからはじめての練習試合の日になった。空は晴れ渡り、気温は心地よく、三郎たちは意気揚々として対戦相手の中学校のグラウンドを訪れた。相手は、隣の市の開明中学。三郎とミツヒデが部活に入ってから、はじめての試合だった。光下中学の部員たちは、試合当日、円陣を組み、なにやら作戦を話していたが、オーッと、掛け声をあげると、校庭に広がり守備についた。一回表、相手校の攻撃で、ピッチャーはキャプテンの出口。審判の合図とともに、颯爽と振りかぶり、美しいフォームで球を投げた。120キロくらいのストレートで、中学生にしてはなかなかの球だった。それは、手から離れると、まっすぐに吸い込まれるように、かまえられたキャッチャーミットに収まった。
「ストラーイク」
審判が言った。光下中のベンチがにわかに沸き立った。バッターは、勢いよくバットを振ったが、球にはかすりもしなかった。
「ストライクツー」
次の球もストレート、ど真ん中だった。
「ストライクスリー、バッターアウト」
相手のバッターが勢いよくバットを振り、しかし三球三振。ピッチャーの出口が声をあげた。一人目からの威勢のいい勝負に、両サイドのベンチが沸き立った。
「ナイッピッチング」
三郎が大声で言った。
「ストレートしかないよ、見ていこう」
相手側から声が上がった。そうして両者試合最初の歓声を上げていたところに、ベンチから次のバッターが出てきた。ピッチャーの出口は、この相手にも真っ向から勝負した。三球三振。どれもまっすぐの球だった。二人を打ち取り、幸先のいいスタートを切ったピッチャーの出口は、帽子をかぶりなおすと前を見つめた。三人目は体格のいいキャッチャーをやっている男で、鷹揚としたまなざしでピッチャーの事を見つめている。一球目は、外角高めのストレート、バッターはこれを見送った。続いて、二球目は、ど真ん中のストレート。バッターは、これを引っ張り打球は右にそれていくファールだった。
「まっすぐだよ、まっすぐしかないよ。まっすぐ狙ってけ」
相手ベンチから声が上がった。
「出口先輩、ストレートしか投げられないんだ」
ミツヒデが不安げに言った。相手ベンチは勢いづき盛んに声を張り上げていたが、自陣営は水を打ったように静かだった。不安げな一年生の四人はただ黙ってマウンドを見つめている。ツーストライクからの三球目、ピッチャーの出口は、間をあけることなく、モーションに入り、そうしてから球を投げた。カーブだった。真っすぐを見越していた打者は、タイミングを逸し、これを空振りした。このタイミングでの初めての変化球に、相手チームから怒号が上がった。スリーアウトチェンジ。ピッチャー出口は颯爽とマウンドを降りていく。相手のバッターは、悔しがり、いまだバッターボックスで立ち尽くしている。出口はベンチに戻ってくると、チームメイトのひとりひとりとハイタッチをしていった。
「出口先輩、お疲れ様です。真っすぐばかりで、どうしようかと思いました。変化球投げられたんですね」
三郎が言った。
「ああ、毎回はじめて当たる相手には、これでいくんだ。リスクの高い方法で、上手くいくときもあるし、うまくいかないときもあるけど、今日は上手くいったな。まあ、始まりの挨拶みたいなもんさ」
そう言うと出口はベンチについた。こちらのチームが、グラウンドから引き上げて行って、相手のチームがグラウンドに散っていく。こちら側の攻撃が始まる。一番のバッターが出て行き、バッターボックスにつくと、相手のピッチャーが投球を始めた。相手の投手の球は、速くはなかったがコントロールが良く、ストライクぎりぎりをつくのが上手かった。打者が一人塁に出たが、そのあとは三振と凡打が続き、結局きれいに打ち取られてしまった。二回表は、キャプテンの出口がストレートと変化球を織り交ぜた投球で打者を打ち取り、その裏も打者が塁に出ることはなかった。試合は、投手戦の様相を呈してきて、相手もこちらも一点がほしい。その一点が契機となって試合が動く。そのような様相を帯びてきた。中学生の野球は、七回までだが、この試合は、六回まで点が入らなかった。点の入らない野球はつまらない。そういう事もあるかもしれないが、この試合は違った。この試合は、投手がいかに打者を打ち取るのか、その投げ合いが魅力の一つとなって展開した。投手同士が力投を続け、六回表、相手チームの打者は、三番から五番、ピッチャー出口には軽い疲労が見受けられた。光下中の弱みとして、ピッチャーが一人しかいないという点があげられる。全部で一四人、うち一年が四人、試合に使えるのは十人足らずだ。そして試合に九人出るので、残りは一人。とても人数が足りない。ピッチャーの出口は、よく耐えた。しかし、誰にでもミスはある。それが、一番運動量の必要なピッチャーならなおさらだった。六回を戦ってきた出口は、ふとしたはずみに、コントロールが乱れ、甘い球を投げてしまった。それを見逃さなかった相手チームの打者の慧眼も称賛に値する。打者は勢い良くこの球を打ち、打った球はライトスタンドへと伸びて行くホームランとなった。0対0で来た試合は、この一球で1対0になった。打者は、軽快に塁を回り、ホームにつくと、仲間と喜びをあらわにした。この一点で、勝敗は決した。それが、その場にいた皆の感じたことだった。相手チームは喜んでいたし、こちら側は沈んでいた。この段階で試合は、もう、勝敗が決したようなものだった。しかし、ピッチャーの出口にも意地があった。出口は、打ち崩された直後、体勢を立て直し、残り二人をきっちり三振と三塁ゴロに打ち取り、次いで七回を投げ切った。七回の裏、光下中は、三者三振で、相手ピッチャーにきれいに打ち取られ試合終了。三郎とミツヒデにとって、中学で初めての試合が終わった。
相手の中学から帰る道すがら、今日一日の試合を見ていた一年生四人は、駅前のコンビニでジュースと食べ物を買うと、表に座って、今日一日を振り返った。
「出口先輩かっこよかったな」
ミツヒデがアイスを食べながら言った。
「今日は投手戦だったね」
平山がから揚げを食べながら言った。
「今日の試合、よかったね。わたし見ているだけで面白かった」
照子が言った。
「ぼくも早く試合に出たいなあ」
三郎が言った。
「君には無理だよ」
平山が三郎をからかった。四人はそうして、思い思いの事を考えながら、コンビニの壁に寄り掛かって、誰からともなく空を見上げた。視界いっぱいに空が広がる。空を雲が流れていく。太陽は沈みかけていて、空は今、薄い水色に染まっていた。
「大きな雲」
誰かが言った。
「綿あめみたい」
誰かが答えた。
「ぼくも早く試合に出たいなあ」
平山が言った。
「お前には無理だ」
三郎が言った。
「なにお、この」
「今日の試合、よかったね」
「うん、よかった」
そうして、程よい疲れに満たされながら、体の先がじんじんして、ジュースがのどに染み渡った。ジャージ姿の四人は、コンビニの壁から立ち上がると、ひとり、ひとりと歩きだし、それぞれの家に向かって帰っていった。
それからも、いくらか練習試合が行われたが、一年生の出番はなかった。光下中は、勝つ時には勝ったが、負ける時には負けた。最近五試合では、勝ちが3の負けが2、勝ち越していたが、負けが優先することもあった。実力で言えば、中くらいに位置するどこにでもある中学だった。そんな中、季節は夏に変わり暑い季節がやって来た。一年も筋トレと球拾いは相変わらず続けていたが、練習に参加できるようになっていた。今日の練習試合の相手は、三つ向こうの駅にある三鉄中学。初めて対戦する相手だった。試合が始まると、ピッチャーの出口先輩は、この相手にいつものように挨拶をおみまいした。これに動揺したのだろうか、試合が進むにつれ、光下中が点を取る展開になり、四回が終わって三対一、三郎のチームが勝っていた。出口先輩は、丁寧に一人ずつ打者を打ち取っていったし、チーム全体の打撃も好調だった。そうして六回の裏、点差は、五点に広がり、試合の先行きも見えてきたというところで、三郎のチームの監督が立ち上がった。そうして、バッター交代を告げると、一年の固まっているところにやってきて、ミツヒデの肩を叩くと、バッター交代、バッターミツヒデと告げた。
「おれがバッターですか監督」
ミツヒデが仰天して言った。
「ああ、そうだけど。やめとく?」
監督は笑顔で告げた。
「このときを待っていました」
ミツヒデはそう言うと、バットを持ち、それを振り回しながら打席に入った。
「いよっ、ミツヒデちゃん。待ってました」
「一発かましたれ」
ベンチから声が上がり、皆がミツヒデをはやしたてた。ミツヒデは鼻息も荒く打席に入ると、緊張した様子もなく、相手ピッチャーの一球目を左中間に打ち返す二塁打を放った。ミツヒデの華麗なデビューでの一撃にベンチが沸き立った。
「やるじゃねえか、ミツヒデ」
ベンチから声が飛んだ。ミツヒデはこれを聞くと、二塁ベースから高々とこぶしを掲げた。ミツヒデらしい華々しいデビュー戦だった。
この日の試合は、六対二で光下中が勝ち、ミツヒデの初打席初ヒットを祝い、帰り道で皆がミツヒデに好物のハンバーガーを贈った。十人からハンバーガーを送られたミツヒデは、それを嬉しそうに頬張りながら、顔をくしゃくしゃにして喜びを表した。
「ミツヒデ君初打席、初ヒットおめでとう」
照子が言った。
「一年で試合出たの君が初めてじゃないか」
平山が言った。
「へへへ、悪いね」
ミツヒデはハンバーガーを食べながら、これに答えた。
「調子のるなよ、一年坊主」
キャプテンの出口が、しかし楽しそうに声をかけ、ミツヒデの坊主頭をなでまわした。
「ハンバーガーうまいです、ありがとうございます」
ミツヒデが出口先輩に向け言った。
「お前らも早く試合出れるといいな」
「はい、ありがとうございます」
平山と三郎が先輩に向けて言った。
そうして三人が話しているあいだ、ミツヒデはハンバーガーにがっついていた。
「ミツヒデ君そんなに食べて大丈夫?」
「だいじょうぶ」
口の中にハンバーガーを詰め込んで、もぐもぐしながらミツヒデが満面の笑顔で言った。
次の試合には、三郎と平山も出場した。相手のピッチャーは、直球を主体とするタイプで、速度があったが、スタミナがなく、途中からばててきていた。そうして、乱れが出てきたところで、代打で出てきた平山は、冷静に四球を選び塁に出、同じく代打で出てきた三郎は豪快に三振した。一打席だけだったけれど、マウンドに立ち、ピッチャーに相対して、実際に戦いの場に出る。二人はそれが初打席だった。この部活に入って半年、はじめて野球らしい野球をすることができた。帰り道、三郎は、照子とミツヒデに自身の活躍について力説した。綺麗にバットを振りぬけたとか、ピッチャーを睨みつけてやったとか、三郎はそういった事をつらつらと力説した。
「でもお前、三振だったじゃん」
ミツヒデが言った。
「確かにお前みたいにはいかなかったけどさ」
三郎が言った。
「でも、おれの野球人生が始まったって感じがして。へへへ、それが嬉しくてさ」
「三郎君も、ミツヒデ君もお疲れ様。今日は家でゆっくり休んでね」
照子が言った。
「照子、お前もマネージャーが板についてきたじゃないか」
「ふふん、当然よ」
照子はそう言うと、胸を張って二人の事を見つめた。
「ほら、これを見て」
そう言うと、照子はカバンからノートを取り出して二人の前に差し出した。そこには、野球部の選手たちのデータが事細かく記載されていた。
「田中三郎、一打席一三振。打率ゼロ。良いとこなし」
ミツヒデがノートに記載されているデータを読み上げた。
「谷川ミツヒデ、二打席二安打。打率十割。わが野球部の期待の星」
三郎が読み上げた。
「なんだこりゃ」
「へへへ、野球部期待の星だって。まいったね」
ミツヒデが大きく声を上げた。
「それに引き換え、三郎君は」
ミツヒデが横から三郎の事を覗き込んだ。
「なんだ、なんだ、うるさいぞ」
三郎は言った。そうして、二人の事を睨みつけた。
「見ていろ、この三郎様が光下中学始まって以来の大記録を打ち立ててやるからな」
三郎が声も高らかに宣言した。
「三振の数の記録だね」
照子が事もなげに言った。
「可愛くねえ」
「ははは」
ミツヒデが笑った。
三郎は膨れ面をして、二人の先に立って歩いて行ってしまった。
「うわー、打球高い。こりゃいったな」
一年生たちが練習試合に出場して、部活としての体裁が整ってきた秋口、この日、試合形式の練習をしていたのだが、打った球が、右方向にそれてグラウンドを出て行き、民家の中に入ってしまった。こういった時は、球を取りにいかなければならないのだが、誰が取りに行くかでもめることになる。だいたいにおいて、家の人に叱られるからだ。このときは誰が取りに行くのかじゃんけんで決まった。三郎だった。三郎がじゃんけんで取りに行くことになったのだ。三郎はグラウンドを出ると、歩いて行き、ボールの入った民家に行った。民家は、赤銅色の屋根をしていて前側に庭が面していて、その奥に古めかしい家がある。家は、普通の一軒家で、三人から四人位の人が住むのにちょうどいい大きさだろう。家は静けさに満たされていて、ボールを取りに来た三郎にとって、その静けさは不気味だった。家の前に回ってみると、そこは今、玄関が開いており、家の人が待っていた。
「小僧」
その家のお婆さんが言った。三郎は縮み上がり老婆の前で立ち尽くした。ボールを取りに人の家に入るこの瞬間は、いつ経験しても嫌なものだ。
「ボール取りに来たか」
「はい、そうです。ボールを取りに来ました」
三郎は言った。
「窓ガラス割れとる」
お婆さんはそう言うと、庭の方へと歩いて行き、ボールが当たって割れた窓ガラスを指さした。
「お前、打ったか」
「いえ、僕ではありません」
「そうか」
三郎はお婆さんの事を見つめた。お婆さんの言葉には、心の中を見透かす何かがあった。お婆さんは、割れた窓ガラスの側の縁側に座り、三郎に隣に座るように促した。三郎がそこに座ると、お婆さんが隣に座った。そこからは、光下中学のグラウンドが見渡せた。
「おれ、ここに座って見とる」
お婆さんは言った。
「見てるって、何をですか」
「お前たちの練習だ」
「そうですか」
「お前、打っていない。打ったのは違う小僧だ」
「はい」
三郎は言った。
「お前、走った。十周も二十周もくるくる走った」
お婆さんはそう言うと手振りで走っている様子を表した。
「グラウンドをいっぱい走った」
お婆さんは言った。
「一年生の練習なんです。先輩たちの言いつけで」
「おれ、あんな走ったことない」
お婆さんは言った。
「甲子園か」
「いえ、中学に甲子園はありません」
「そうか、ないか」
「ええ」
三郎は言った。
「お前、食ってけ」
お婆さんはそう言うと三郎にせんべいをよこした。三郎は、それを受け取ると、ぱりぱりとせんべいを食べた。それは普通のしょうゆせんべいで、部活で疲れた三郎にとって大変おいしいものだった。
「うまいか」
「ええ、美味しいです」
三郎は言った。そうして、お婆さんと一緒に、遠くの方でグラウンドを走り回っている野球部員の事を見た。いつもぼくはあそこにいるんだな、と三郎はいつになく感傷的に思った。皆が練習しているその時に、三郎はお婆さんとお茶を飲んでいる。三郎のいるお婆さんの家から遠いところで、皆が練習をしている。そのことが、どこか不思議な気持ちがした。
「あの、窓ガラスを割ってしまってすいませんでした」
「いいさ」
お婆さんは言った。
「こういった場合、学校から修理費が出ますので。こちらで修理の対応をさせてください」
「おれ、いつも練習見ている」
「そうですか」
「お前たちの練習」
「ここに座って見ている」
三郎はお婆さんの事を見つめた。その眼は、きらきらと輝いていて、見ているとその心の様子が現れているようだった。おばあさんはやがて言った。
「おれは野球はやったことがないんだが」
お婆さんは続けた。
「部活は楽しいか」
「はい、楽しいです」
「そうか、楽しいか」
お婆さんは言った。
「おれは、部活をやったことはない。学校にもあまり行かなかった」
お婆さんは言った。そうしてからお茶をすすった。三郎はそのような老婆の事を見つめ、何か考えていたが、やがてお婆さんが言った。
「また来い、小僧」
「はい、また来ます。ありがとうございます」
三郎は言った。そうして、お辞儀して頭を下げた。三郎のそのような様子をお婆さんは黙って見つめていた。三郎は、ボールをつかむと、もう一度お礼を言ってその場を後にした。グラウンドへと帰る途中一度振り返って老婆の家を見たが、その時は、もう老婆の家は、連なる家並の一つになって見えなくなっていた。
「おい、三郎。怒られなかったか」
ボールを取って帰って来た三郎に向かって三年生が声をかけた。
「いえ、怒られなかったです。お婆さんにせんべいをご馳走になりました」
「なに、せんべいを」
「はい、せんべいです」
「ふーん」
三年生はそう言うと、何やら考えている様子だったが、やがて納得したのだろうか、向こうへと行ってしまった。三郎は、お婆さんのいる家の方を見た。ネットの向こう側、遠くの彼方に、お婆さんの姿が見える気がした。
三郎たちのチームは、強くもなかったが弱くもなかった。守備は弱いが打撃は強く、それでいて投手も強い。三郎は練習試合でそこそこの成績を上げていたが、一方で、ミツヒデは、打率三割を超す成績を上げ、一年生にしてチームの主戦力になっていた。その日も打撃練習でピッチャーの出口先輩の球を打ち返しヒットを放つという成果を上げていた。球拾いと筋トレが主だった日々の中に、打撃や試合形式の練習が加わり、一年の顔にも張りが出てきた。朝練が終わった後で、三郎とミツヒデ、照子の三人は、球拾いをしながらたわいのない話をしていた。三人は校庭を後にすると、購買でパンを買い、教室まで歩いて行った。多くの生徒が教室へと入って行くところで、皆が皆、思い思いに話をしたり、音楽を聴いていたり、勝手気ままに過ごしていた。
「じゃあな、また午後」
「ああ、またな」
ミツヒデと別れた後の三郎と照子は、教室に入ると、席に着いた。
「なあ、照子」
「なに、三郎君」
「今ミツヒデ打率どれくらい?」
「三割五分」
照子が言った。
「おれの打率は?」
「一割八分」
これを聞くと、腕を組んでいた三郎は、机に突っ伏した。
「なかなか上がらないよな、打率って」
「うん、上がらないね」
照子は言った。照子は机の上に教科書を積み上げ、授業の予習を始めたし、三郎はそんなものどこ吹く風で、何やら考え事をしていた。同じ練習をしているのに、ミツヒデの方が野球がうまく、センスも良い。なぜ、こういった差が出てくるのだろうか。三郎は三郎なりに考えを巡らせ、そうしているうちに、やがて、授業が始まり、先生が教壇で話し始めても、三郎は沈思黙考し、動かなかった。
「おーい、野球バカ。せめて教科書くらい広げんか」
現国の森川先生が言った。これを受け、三郎は我に返り、慌てて教科書を広げると、立ち上がり、竹取物語の冒頭を読み始めた。
「昔あるところに竹取の翁と言うものありけり。野山に混じりて竹を取りつつ、よろずの事につかいけり。名をば讃岐のみやつこ、、、」
「馬鹿もん、今やってるのは、トロッコだよ。大丈夫か三郎」
先生はそう言うと、もう一度三郎の頭を叩いた。教室中に笑いが起こり、先生は教壇の方へと帰っていった。完膚無きにまで打ちのめされた三郎は、椅子に座ると、その場に打ちひしがれてしまった。
休み時間になると、照子が三郎のもとに行き、授業中の出来事を話した。
「三郎君、散々だったわね」
「むー、まあね」
三郎が言うと照子が笑った。
「三郎君、何考えていたの?」
「んー、トスバッティングしたいなと思って」
「トスバッティング?」
三郎は照子の事を見つめた。三郎がしたいのは、秘密の練習で、気がついたら上手くなっていたという、そういった類のものだった。野球に上手くなってミツヒデを見返してやりたい、とそう思ったからだった。だから、秘密の練習をミツヒデには言うわけにはいかない。平山は、ミツヒデに口を滑らせるかもしれない。そうすると、頼りになるのはこの照子だ。三郎はこういった考えに至ると、照子に向かいそして言った。
「それじゃあさ、照子、トスしてくんない」
三郎は言った。
「ミツヒデ君に頼めばいいじゃない」
「いや、こっそりと練習したいんだよ。気が付いたらさ、野球が上手くなっていたって、そうなるように。かっこいいじゃん、そういうの。そうやってミツヒデの事見返したいんだ」
「なるほどね」
照子はこれを聞くと、ため息をつき、しばらく考えているようだったが、やがて、再び三郎の事を見つめると、そして言った。
「しょうがない、やってあげようじゃない」
「本当」
「うん、しょうがない。わたしだって野球部員の端くれだもの。部員の悩みは聞いてあげるのが、本当じゃない」
「そうか、ありがとう。恩に着るよ」
三郎はそう言うと、頭を下げた。
「そのかわり、厳しいわよ」
照子が不敵な笑みを浮かべた。
「ふふん、望むところ」
三郎が、言い返した。
「じゃあ、今日の昼休みからね」
「うん、わかった」
二人の間に合意が形成されたところで、教室に先生が入って来た。二人は席につき、やがて授業が始まった。
英語、算数、理科が終わり、昼休みを告げる鐘が鳴った。三郎は、教科書を閉じると、大きく一つ息をはきだし、授業中に食べ終わった弁当箱を片付け、勢いよく立ち上がると、誰にともなく言い放った。
「しゃー、終わった!練習じゃあ」
三郎はそう言うと、勢いよく教室を飛び出していった。
「おーおー、元気がいいな野球部」
教室の中の生徒が言った。三郎は、廊下まで行くと、二段飛ばしで階段を下りて行った。
「照子―、早く来いよ」
廊下から三郎の大声が聞こえてきた。
「わかったわよ、まったく。しょうがないわね」
照子は言った。
「恥ずかしいったらありゃしない。まったく三郎にはデリカシーがないんだから」
照子はそう思うと、三郎の後を追いかけ、校庭へと向かって行った。三郎と、照子の秘密のトスバッティングは二ヶ月くらい続いた。昼休み前の授業中に弁当をかっ込み、授業が終わるとその足で校庭に出て、トスバッティングをする。ボールをミートすることの苦手な三郎は、ゆっくりとした球を芯でとらえる練習をした。十球、二十球と黙々とボールを打っていく。三郎の汗が飛び散る。照子がトスをあげる。それを三郎が打つ。そういった練習を三十分間延々と続ける。そうした毎日を過ごしているうち、次第、音が変わって来た。ボールを打つ音が、鈍く低い音から、鋭く響く音へと変化していった。ボールが芯をとらえる音だ。三郎には、実感がなかったが、しかし、練習の成果は実り、変化は着実に訪れていた。
次の練習試合の日、光下中は、四回裏一対0で負けていた。しかし、五回の表で、キャッチャーの鴻池がきわどいあたりのゴロで塁に出ると、続く川上が四球、ランナー一、二塁というチャンスになった。ここで、五番の出口が、ライトフライを放ち、ワンアウトランナー二、三塁。一打出れば逆転という場面になった。ここで、打順が三郎に回って来た。今回、レギュラーの外野手が途中ひとり怪我で欠場していて、そこに三郎が入っていた。誰もが一年坊主の三郎には期待していなかった。しかし、三郎の中には自信があった。照子との秘密の特訓の成果を見せる絶好のチャンスがやってきたのだ。プレッシャーがなかったわけではない。しかし、それを超える、やってやるという意気込みが、三郎のプレッシャーを掻き消していた。だから三郎は一球目から、勝負にいった。そして、それはあたりだった。相手のピッチャーは、一球目は様子見という判断をしたのか、少し甘い外角高めの球が入って来た。三郎は、それを打ち返した。三郎の手の中には、さんざん練習したあの、球が芯をとらえた瞬間の手ごたえがあった。ボールは、左中間に勢いよく飛んでいく。
「回れ、回れ」
ベンチから声が飛んだ。ランナーが一斉に帰ってくる。三郎は、塁を回りながら、確かな手ごたえを感じていた。三郎の一打で二点が入り、光下中が逆転、試合のペースは、一気にこちらに流れ出した。三郎の後の打者もヒットを放ち試合は三対一になり、ペースはこちら側に引き寄せられた。五回、六回とピッチャーの出口は、危なげなく各回を三人で打ち取った。しかし、七回の裏、出口がワンアウトから四球を一つ与えると、相手は起死回生のバントを繰り出す。ツーアウトランナー二塁。そこで、相手がヒットを打った。ボールは、一二塁を抜けてライトへと向かい、ライトが球を捕球したとき、ランナーは三塁を回ったところだった。間に合うか間に合わないか、きわどいところからの送球は、一直線にキャッチャーの元へと帰ってきて、走者のスライディングも間に合わずアウト。試合終了となった。光下中の勝ちだった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
試合が終わり、家へと帰る道すがら、三郎はその日のヒーローだった。
「おい、見たかよ、おれの一撃」
普段活躍する機会のない三郎にとって、今日の一撃は何ものにも変えがたい喜ばしいものだった。
「ああ、見たよ。三郎にしては珍しかったな」
「二塁手の頭をかすめて、気持ちよく飛んでいったぜ」
「ああ、そうだな」
「でな、一塁を踏んだ時の達成感が、これがまた」
「ああ、わかったわかった」
ミツヒデはそう言うと、笑って三郎の事を見つめた。
「なかなかの試合だった」
「うん、二打席一安打。上出来だ」
「おれは、四打席三安打」
ミツヒデが言った。
「やるなぁ」
「お前が駄目なだけさ」
そうしたいつものやり取りが、二人の間で繰り広げられた。二人はお互いがお互いを励ましあい、叱咤激励し、時に喧嘩をして、そうして二人で研鑽を積んでいった。季節は夏から秋になり、冬が訪れ一年はあっという間に過ぎていった。
やがて、中学校の一年が終わり、二年生になる時がやって来た。三郎もミツヒデも平山も、今では立派な野球部の一員だったし、マネージャーの照子もなくてはならない存在になっていた。そうして、春から一年が加わる。それが何とも言えずに楽しみだった。
「お前なんか後輩が出来たらこき使いそうだよな」
ミツヒデが三郎に言った。
「そんなことないぜ。寛大な心をもって、仲良くなるね」
「仲良くなるっていうのは、ちょっと違うな」
「みっちり基礎をやらせて、雑用、肩もみ、掃除、荷物持ち。やらせることはたくさんあるぜ」
「なんだよ、やっぱりこき使うんじゃないか」
ミツヒデと三郎が話していると、そこに平山がやって来た。
「そこのおふたりさん。今日から一年が見学に来るってさ」
「一年が来る?いいね、楽しみだね」
三郎が言った。
「おれたちも上級生か」
そのような話をしていると、そこに、緊張した面持ちの一年生がやって来た。一年生たちはジャージを着た鼻たれ小僧の様相を呈していて、三郎は、自分も、入部したての頃は、あのような感じだったのかな、と思い至った。その年に入って来た一年は、六人にのぼった。二年と三年の九人と合わせて一五人がこの年の野球部のメンバーになった。
一年生を扱き使いながら、三郎たち二年生は夏を過ごし、季節は冬になっていた。冬のグラウンドは、たいそう冷たく、ボールを握る手がかじかむ。初めのうちは冷たくてボールを思った方向に投げられない。それでも、しばらく運動していると、だんだんと暖かくなってくる。冬の寒空の下、今、練習の終わった二年生の三郎とミツヒデ、平山の三人がグラウンドを整地していた。すると、どこからともなく、三年生の先輩がやってきて、三人のもとに行くと、声をかけた。
「よう、お前ら、頑張ってるか」
「おえぇっす」
三人が声をあげた。
「よしよし、いい返事だ」
三年生の先輩が笑った。三年生は、今はもう部活を引退してしまっていて、受験勉強に精を出していた。しかし、時々、三郎たち野球部のところにやってきて、練習を見ていったりするのだった。
「先輩、勉強お疲れ様です」
三郎が言った。
「ああ、いや、まあな」
三年生の先輩が言った。
「まあな、って何ですか」
三郎とミツヒデが笑った。
「それなりに頑張っているという事だ」
「ははは」
側にいた三年生が笑った。
「お前ら、おれたちが抜けて気が楽になった?」
「うぉーす」
「ははは」
「そうかそうか、まあ、頑張ってくれ。応援しているよ」
「はい、ありがとうございます」
三年生たちが行ってしまうと、三人は、グラウンドの整地に戻った。グラウンドには霜柱が出来ていて、それを整地するのは、大変な作業だった。
「おれたちの最後ってどうなるんだろうな」
「最後?」
「夏の大会」
「ああ」
「どこまで行けるか」
「県大会の三回戦まで行けば上出来じゃない」
「行けるといいな」
「ああ」
やがて、グラウンドの整地が終わると、あたりは夕暮で、三人の吐き出す息が白い。
「おい、雪だ。雪が降って来たぞ」
ミツヒデが言った。すると、三郎と平山も空を見上げた。三人の元には雪が降って来た。
「いよいよ、冬って感じだな」
三郎が言った。
「うー、さみい」
平山が言った。
「早く帰ろうぜ」
「おれ、教室にプリント忘れてきた」
「おいおい、勘弁してくれよ。一人で行って来いよな」
「いやだよ、みんなで行こうぜ」
「しょうがないな」
三人がグラウンドの整地を終え、プリントを取りに教室に行くと、そこには誰もおらずに、がらんとした教室が広がっていた。外には雪が降っている。
「誰もいない教室って気味悪いよな」
「ああ、そうだな」
「お前、今おれの事怖がりだって思っただろう」
「いや、思ってないよ」
「本当か?」
「ほんと」
「だいたいさ、こんな時間まで練習させる先生の気持ちがわかんねえよな」
「ああ、そうだよな。冬場は早く終わらせてほしい」
「全くだ」
「手なんか、かじかんじゃって」
「だよね」
「暗くなるのも早いしな」
「球が見えなくなるんだよね」
「投手は得か。消える魔球」
「ははは」
「おい見ろよ」
ミツヒデはそう言うと、下駄箱から校庭を見た。そこには、先ほどから降っていた雪が積もって、斑な銀世界になっていた。
「ほっほー」
三郎が嬉しそうに外に飛び出す。そのあとにミツヒデと平山も続いた。三人は、校庭へと飛び出していくと、雪玉を作ってそれを投げた。
「くらえ、砕ける魔球」
三郎がそう言って雪球を投げた。平山の体に雪玉があたり、にぶい音をたてながら崩れた。
「いてえ、反則。それ、反則だよ。ピッチャー交代、ピッチャー交代」
平山がそう言いながら、逃げていった。三人はしばらく、そのようにして遊んでいたが、やがて疲れてその場に倒れ込んだ。
「まさか、雪が降るとは思わなかったよな」
ミツヒデはそう言うと、積もった雪の上で言った。
「見ろよ、こうすると、たくさん雪、落ちてくるぜ」
ミツヒデが言った。
「なだれ攻撃」
三郎はそう言うと、ミツヒデの頭に雪をかけた。
「うわっぷ」
ミツヒデが悶絶した。それを見て、三郎と平山が笑った。
「こうしてさ、校庭の端っこで雪の上にうつ伏せになっていると、変な感じしない」
「する」
三郎が言った。
「あんまり人には見られたくないな」
「そうだな」
「雪の降らない年もあるし、降る年もあるけど」
ミツヒデが言った。
「今年は降った」
「うん、降った」
「明日部活休みかなあ」
「どうだろうね」
「雪、降ってるね」
「うん、降ってる」
「もうすぐ飯の時間だ。帰らなきゃ」
平山が言った。
「うちも。うちもご飯だ」
ミツヒデが顔から雪を振り払い、そして言った。
「帰ろ」
「うん、帰ろ」
「ピザまんが食べたい」
「帰りコンビニ寄ってく?」
「駄目だ。お金ない」
「あんまり遅いと母ちゃんに怒られる」
「そうだな」
「うー寒い」
三人は会話をしながら歩いていく。傘をさす手が冷たい。部活で温まっていた体が、今はもう冷たくなっていて、足の先がかじかむ。でも、その寒さは、雪がもたらす高揚感と相まって、心地よい雰囲気をもたらしてくれる。しかし、そのような高揚感も、次第に薄れていき、そのあとには冷たさだけが残る。一歩一歩降り積もった雪の中に足を踏み込む。いつまでたっても、家につかない。そんな気がする。ミツヒデと平山と別れると、三郎は、傘を一回転させた。傘に積もっていた雪が飛び散る。そうして、そこにまた雪が積もっていく。家へと続く道はいつもより長く感じられた。そうして家に帰ると、温かいシチューを食べた。
冬の野球は、大変だった。寒くて、ボールを投げるのが大変なのと、ベンチで座っていると体が冷えてくることがある。普段の練習もそうだし、練習試合でも、いかに体を温めていられるかが、最大のポイントになってくる。今日の相手は、真田中学。ここの投手は、インコースを丁寧につくピッチングを得意としていて、打たせて取るタイプのピッチャーだ。この日、ミツヒデはスタメン出場、三郎は五回表に代打で出場した。相手ピッチャーは、球数を押さえて投球していて、五回表になっていても疲れが見えない。三郎は、それを確認すると、大きくバットを一振りして、打席についた。ピッチャーが振りかぶる。三郎は、大きく深呼吸すると、きっとピッチャーを見つめた。三郎はもう一度バットを振り、狙う球種を考える。このピッチャーは、内角に球を集める傾向にある一方、それを外して、真ん中に投げる時がある。球はあまり速くないので、この球を狙うと、ミートしやすい。内角の球は、バッターも嫌だし、投げているピッチャーも嫌なものだ。だから、必ず、一球か二球は、真ん中が来る。それを狙う。三郎は、そう思って狙いをつけた。一球目は、内角高めのボール。二球目は、内角ぎりぎりのストライク。真ん中は来ない。三球目は、外、これはボール。四球目は、また深いところのストライク。カウント二アンド二。三郎の心に焦りが生まれる。今まで、一球も真ん中に来ない。三郎に対しては、散らしていく戦法を取っているのだろうか。そうして考えていると、言いようのない緊張感と、しかし、それを上回る高揚感、五球目は、はたしてどこに来るのか。三郎は身構え、ピッチャーは振りかぶった。ど真ん中だ。瞬間三郎は、そう思った。そして、それはあたりだった。ピッチャーの投げた球は、正確に真ん中へと入ってきて、三郎は冷静にそれに対処した。打った球は、綺麗に放物線を描いていくと、右中間へと落ちていった。やった、打ったぞ、という思いと、はやく、はやくという思い、そのようにして走る三郎は、一塁を蹴った。ボールは、ライトが取り、素早く二塁に投げる。三郎は、スライディングすると、球は、それに合わせるかのように、二塁手のミットに収まった。セーフ。塁審が告げた。三郎の放った二塁打だった。三郎は、立ち上がると、冷静に砂を落とし、小さく声をあげた。そのあとの打者は続かなかったが、それでも三郎は、二打数一安打。試合は、三対一で、三郎の光下中学が勝利した。相手のピッチャーの傾向を知っていたのと、読みが当たったこと、相手の打撃が不調だったことが、勝利の要因だった。試合をこなしていくうちに、三郎は着々とその腕をあげていった。次の坂下中学との練習試合も、光下の勝ち、人数が少ないまでも、頑張る光下ナインだった。
高校に甲子園があるように、中学の野球にも全国大会がある。三郎とミツヒデ、平山が三年生になった時、それは一種の緊迫感と期待感を持って現れた。三郎たちのチームは、県代表まで行くには、実力的に無理があったが、地区大会ではそれなりに勝ち進めるのではないかというレベルにまで成長していた。県大会の地区予選は順調に勝ち進み、五回戦までやってきていた。三郎はレフト、ピッチャーミツヒデ、平山が一塁手で出場した。相手は、練習試合で散々勝ってきた真田中学。ここ三年での通算成績は、六勝〇敗、今日の試合でも負ける訳がない。ピッチャーの二年生河合は、快調だったし、相手チームに強い選手もいない。まず、楽々と勝ち進めるカードだった。プレイボール。一回の表、ピッチャー二年の河合、三者三振に打ち取る。一回の裏は二番の新出が二塁打で出塁するも、得点はなし。好調な滑りだしと言えた。二回表、三回表とピッチャーの河合は完ぺきなピッチングを見せる。しかし、こちら側も簡単には点が取れない。二塁くらいまでランナーが出るのだけれど、なかなかそれが得点につながらないのだ。四回表、ピッチャーが一点を取られる。四回裏は三番からの好打順だったが得点はなし、五回表二失点、六回表一失点。うちのチームはいずれも得点を挙げることができない。勝てると思っていた試合だった。そうして、気がつくと七回の裏の時点で、〇対四で負けている。最後のバッター平山が二ゴロに打ち取られると、そのまま試合終了となった。野球は怖い。実力が必ずしも勝利へとつながるわけではないのだ。格下相手に簡単に負ける。しかもそれが、中学最後の大会だった。皆の心の中には言いようのない意気消沈とした思いがあった。試合が終わった後、ミツヒデは、グローブを地面に叩きつけ、苦悶の表情を浮かべていたし、平山は座り込んだまま動かなかった。三郎は、そんな皆を見つめ、何も言わずにただ、そこに立っていた。みんなを見た照子が不安そうな表情を浮かべた。そこには、皆がかけてきた思いの大きさが現れていた。そして、それが打ち破られた結果の落胆。敗者に迫りくる残酷な結末。誰もが気落ちしていた。しかし、そのような悔しい気持ちが、頑張ったものしか味わうことのできない悔しさであることを知っていた照子が、やがて言った。
「みんな、お疲れさま」
照子は言った。
「その悔しさは、本当だよ。みんなありがとう。わたし、この部活でマネージャーが出来てよかった」
照子が感傷的に微笑んだ。
「悔いの残る試合だったね」
平山が言った。
「悔いは残った。勝てる相手に負けてしまった。それが、おれたちの最後だ」
三郎が割り切って言った。
「これで終わりなんだな」
「変な感じ」
「みんなと一緒に試合が出来てよかった」
平山はそう言うとミットを手にして何やら考えているようだった。三郎もベンチに腰掛けうつむいたままだったし、ミツヒデもこのときばかりは言葉少なだった。そうして、皆がひとしきり感傷に浸っていると、やがて照子が声をあげた。
「おなかすいたね」
「ああ、腹減った」
「ねえ、焼肉食べたくない」
照子は気持ちを切り替えると、明るく振舞い、監督の顔を見た。
「え、なに?」
監督が驚いた顔つきで照子の事を見つめ返した。ミツヒデが監督の事を見て、三郎が監督の事を見て、平山が監督の事を見た。二年生が監督の事を見て、一年生全員が目を輝かせた。
「焼肉!」
全員が声をそろえて監督の事を見つめた。
「わかった、わかったよ。そんな顔で見つめないでくれ。お前ら今日は焼肉連れてってやる」
「おい、聞いたか、監督のおごりだってよ」
三郎が言った。皆はこれを聞くと、歓喜の声をあげ、先ほどまでの沈鬱な雰囲気はどこへやら、焼肉屋へと向かっていった。
「おい、お前ら、おごりとは言ってないぞ」
監督は憤怒して部員たちの去っていった後ろ姿を見つめながら、控室でひとり、愚痴をこぼすのだった。
三郎の中学での野球部の活動は、その日で終わった。それからは、勉強をする平凡な日々が続き、受験があり、高校進学があった。三郎と平山、照子は光下中学校の系列の光中高校に進み、ミツヒデは進学校でありながら甲子園出場常連校である冬峰高校へと進んだ。三郎と平山、照子は高校の入学式当日、緊張した面持ちで、体育館で校長先生の訓示を聞いていた。それから高校の校舎の中を見学して、教室へとたどり着いた。
「平山、お前何組?」
「三組」
「三郎は?」
「五組」
二人は、制服の留め金をはずして廊下を歩いていた。
「ねえ、三郎」
照子が言った。
「野球部の練習見に行くでしょ」
「うん、行くよ」
「平山は?」
「うーん、どうしようかな」
そう言ってしばらく考えている。
「相変わらず優柔不断だな」
平山はしばらく考えていたが、やがて言った。
「二人が行くなら僕も行くよ」
「よし、それなら今日からだ」
三人がそうして話していると、すると、向こうから見慣れた人影がやって来た。それは、三人の前で立ち止まると、笑顔を向けた。
「出口先輩」
三郎が言った。
「よう、三郎」
出口先輩はそう言うと、三人の顔を順番に眺めていった。
「平山も照子さんもいるな」
「お久しぶりです。出口先輩」
「うん」
「お前ら、変わらないな」
出口先輩はそう言うと笑った。出口先輩は、背が五センチくらい高くなっていて、坊主だった髪を伸ばし、現代風の若者になっていた。
「出口先輩、やっぱり高校でも野球やってるんですか」
「いや」
出口先輩はそう言うと頭を掻いてそして言った。
「今は、漫画研究会に入ってるんだ」
「そうなんですか」
「ああ」
「出口先輩のピッチング見たかったなあ」
「そう言うなよ。おれくらいだと、高校じゃあ通用しないよ」
「そうなんですか」
「ああ」
出口先輩はそう言うと、連れ立った数人の事を見た。
「お前は野球部に入るの?」
「ええ、そうしようと思います」
「そっか、頑張れよ」
「はい」
出口先輩のつれは、廊下の向こうに歩いて行き、出口先輩はそれを確認すると、そのあとに続いた。
「じゃあな」
そう言うと行ってしまった。
「出口先輩、野球やめちゃったんだ」
「そうみたいだね」
「なんか、寂しいな」
三人はそのようなことを話しながら、やがて各々の教室へと別れていった。そうしてから、野球部の練習の見学に来た。野球部は、新学期早々だというのに、すでに練習をしていて、広いグラウンドの一角を占めてキャッチボールをしていた。そこに、一年が数人かたまりとなって集まっていて、三郎、平山、照子がそこに加わった。一年生たちは、おしゃべりをしながらしばらく寛いでいたが、やがてキャッチボールを終えた部員たちが集まってくるとその中のひとりが、一団となって固まっている一年に向かって、からかうかのようにして声をあげた。
「お前ら野球したいか」
三年生が一年に向かい、声をあげた。
「うぉーす」
一年生が声をそろえていった。
「お前ら彼女ほしいか」
「うぉーす」
一年生が声をあげた。
「色気づいてんじゃねえ。そんなんじゃ甲子園いけねーぞ」
「うぉーす」
「お前らはじめは基礎トレばっかだぞ、覚悟しとけ」
「うぉーす」
一年生全員が声をそろえた。三年生は、そう言うと、ストレッチをはじめた。一年生は、そういった上級生の活動を見学して、そうしてから、校舎の外を外周、筋トレに精を出した。
「ひー、きついぜ」
校舎の外を走りながら、三郎が言った。
「お前ら、きっちりしめてけよ」
校庭の上級生からヤジが飛ぶ。
「まったく、あいつら偉そうだよな」
外周を走る三郎と平山に向かって声をかける者がいた。
「そうかな、おれは全く気にならないけれど」
三郎が言った。
「おれも、いつか下級生を扱き使いてえな」
「君、名前は?」
三郎が言った。
「おれは、藤田義郎」
「ぼくは、田中三郎。よろしく」
「よろしく」
二人は走りながら握手した。
藤田は中学からピッチャーをしていて、直球を主体としたピッチングを得意としている。大言壮語を語る分、実力も伴っていて高校でも一年から練習試合に登板している。多くの練習試合をこなしているうちに、しだい皆に認められ、二年の初めにはエースの地位を不動のものとしていた。三郎と仲の良かった平山も重量級の選手に育っており、チームでは四番を務めた。藤田とバッテリーを組むのは、同じく一年の常島。藤田の豪快なストレートを受けられるのは、この常島ひとりだった。高校での生活は、中学と違い厳しかった。全員坊主にされて一年目はひたすら下働きをやらされた。そうして、二年になるとやがて試合に出られるようになり、三年になるとレギュラーの座につくことができる。その先には甲子園が待っていた。
「照子、クリームパン買ってきて」
「いいよ」
「あと、焼きそばパンとサケおにぎりも追加!」
「ふとるよ、三郎」
「へへへ、いいんだよ」
三郎は豪快に焼きそばパンとおにぎりをほおばった。
「これ食べ終わったら、トスバッティングな」
「はいはい」
照子は、高校でも野球部の良いマネージャーになっていて、昼休みは、全員トスバッティングと決まっていた。
「照子、球もってきて、球」
「もう、こき使わないでよ」
照子が三郎に向かって球を投げた。三郎がそれを打ち返す。
「ちゃんと打ちやすい位置に投げろよな」
「角度がなってないんだよ」
「球ひとつ、満足に投げられないのか」
「だから、彼氏出来ないんだよ」
三郎が言った。照子は次ぐボールを三郎の顔に向かってほおり投げた。虚を突かれた三郎は、顔面で照子の球を受ける。
「あ、だいじょぶ?」
照子が、どこ吹く風で、心配していない様子で言った。
「照子、この野郎」
三郎が怒った。高校生になった照子と三郎の腐れ縁は、相変わらず続いていた。仲がいいのか悪いのか分からない関係は相変わらずで、二人とも部活の事だけを考えていた。
「あはは、三郎が怒った」
照子はそう言うと笑った。
「もう、やめなよ二人とも」
そんな二人を平山がたしなめた。
高校生になって変わったことなんてない。中学の頃と同じ光景がそこでは繰り広げられていた。ただ、子供の成長と言うのは目まぐるしいものがあって、三郎は筋肉質な体になり、平山は体格がよくなり、照子は女っぽくなった。一番背の高いのはキャッチャーの常島で頭も切れる。次が佐藤で棚山、加藤と続く。体格がいいのは棚山で、常島、平山、本川と体が大きい。平山が四番を務めることに誰も異議を唱えなかった。平穏な性格で誰からも好かれ、地道な練習を好むことから、仲間からは信頼を勝ち得ていた。キャッチャーの常島は、頭がよく、熱血漢の藤田と良いコンビになっていた。三郎たちの世代は、こういった面々で構成されていた。そしてみんなで一年、二年と、生活を共にした。すると、どこからか仲間意識が生まれ、お互いがお互いの事を理解する関係が構築される。たとえば、園田は、チームのムードメーカーのような役割を果たしていたし、藤田は、我が道を行くタイプで、常島にブレーキになってもらってちょうどいい関係を構築することができた。加藤は普段目立たないけれど、盗塁が上手い。三郎は、基本的にはベンチにおり、六番ショートで時々試合に出場した。今日も練習が終わり、最後の片づけの段階になって、三郎と藤田がグラウンドにトンボをかけていた。
「三郎」
すると、ピッチャーの藤田が言った。
「お前、野球やってて良かったなって思うのはどんなとき?」
「うーんそうだなあ」
三郎はそう言いながらバットを振った。
「おれはさ」
藤田が言った。
「打者と対峙するときのあの緊張感がやめられなくてさ。綺麗にストライクが決まった時の快感は何ものにも変えがたいよな」
そう言うと三郎に向かって球を投げた。三郎がそれを打ち返す。球は二塁ベースの少し右を通過して、校庭の向こうへと転がっていった。
「そうだな、おれもゲッツーを取った時の喜びは一塩だな」
「そうだろう」
「ピッチャーは、毎回その喜びを味わうことができるんだ。まったくお得なポジションだよ」
藤田はそう言うと三郎の事を見つめた。
「藤田、お前フォーク覚えたって聞いたけど」
「ああ、投げられるぜ」
「ちょっと投げてみてよ」
三郎はそう言うとバッターボックスに入った。
藤田がピッチャーマウンドにつき、丁寧にボールを眺める。三郎はバットを構えてピッチャーを見つめた。藤田がゆっくりと身構え、やがてボールを投げた。ボールは、まっすぐに向かってきたが、三郎の目の前で急降下した。
「フォークだ」
三郎が言った。
「なかなか難しかったんだぜ、覚えるの」
「そうなんだ」
三郎はもう一度バッターボックスに入る。藤田がもう一球フォークを投げ、三郎が空振りした。
「藤田これで持ち球が一個増えたな。いま何投げられるんだっけ」
「カーブとシュートとそれにフォーク」
藤田はそう言うともう一球球を投げた。三郎がそれを打ち返す。球はライト方向へときれいに飛んでいった。
「それだけあれば十分だな」
三郎が言った。
「ああ、でもたくさん投げられるに越したことはないんだ」
藤田が言った。
「選択肢が広がれば、バッターは自然と対処しにくくなる。凡打を打たせて、アウトを取ることがし易くなる」
「まあ、おれの場合マウンドでは常島と相談して配給を決めるんだけれどさ、サイン無視してやりたいようにやってるよ」
「だめじゃん、それ」
「ははは」
藤田はそう言うと笑った。そうして三郎に向かって球を投げた。球は三郎を通り越して後ろのフェンスにぶつかる。そうして何球か二人が打撃練習をやっているところに照子がやってきて、二人の側に近づいていくと、声をかけた。
「おふたりさん、いつまでやっているのかしら。もう今日の練習は終わったのよ」
「わかった、わかった。適当に切り上げるから」
三郎が言った。高校のグラウンドは、今、夕日が沈んでいくところで、オレンジ色に染まったあたり一帯は、次第暗くなっていき、やがて藤田の投げる球が見えなくなった。
「今日はこの辺にしとくか」
「そうだな」
そう言うと三郎と藤田はマウンドから切り上げ、ユニフォーム姿のまま家路についた。三郎は、家に帰ると夕食までの時間で素振りをした。バットの空を切る音があたりに響く。郵便配達の人がバイクであたりを通り過ぎ、子供たちが塾から帰ってきた。それでも三郎は素振りに集中した。バットを振るたびに汗が飛ぶ。日の沈んだ暗闇の中に、バットの素振りの音だけが響いていた。サラリーマンが帰ってきて三郎の脇を通っていく。電燈が暗いあたり一帯を照らしている。三郎はただ黙々とバットを振った。身体がバットを振ることに慣れてきた。余計なことを考えずに、ただバットを振ることに集中した。しばらく素振りを続けたところで、やがてぼんやりと自分がバッターボックスにいるところを想像した。そうして一回一回丁寧に素振りをした。藤田のフォークはまだ覚えたてなので変化の幅は大きくない。この角度で来たら、ここで少し落ちて、通り過ぎる。このくらいの踏み込みと力で打てば、レフト線へと転がるだろう。ストレートは、気合を入れて勢いよく振り抜けばいい。足を出すのは、上半身が回転する勢いに乗ってからだ。そうしてイメージトレーニングをしながら三郎は素振りを続けた。
「三郎、ご飯よ」
三郎の母親が出てきて言った。気がつけば、だいぶ時間がたっていた。少しだけの練習にしておくつもりが、ずいぶん長く練習していた。三郎の母親はそれだけの事を言うと玄関を閉めて家の中へと入っていった。三郎は素振りをやめて家の中に入ると、下駄箱にバットを置いた。靴を脱ぎ家の中へと入っていって、その日の晩御飯に取りかかった。
高校の一年は、ただひたすらと筋トレと走り込みだけで、過ぎていった。夏の暑い時期の筋トレは消耗が激しく、汗水たらしながら懸命に行なった。体が悲鳴を上げても、限界まで鍛え上げた。そうして練習した後のスポーツドリンクは美味かった。そのことに、物事の真実があるような気がした。三郎が一年のうちは、試合には出れなかった。三郎が一年の時、先輩は二十人くらい居て、その人たちが試合に出るだけで、枠は一杯だった。ベンチでは、三郎と平山と藤田をはじめ、多くの一年が声出しに精を出していた。日ごろの練習は、夏は熱く、照り付ける日差しがぎらぎらと反射して、グラウンドは熱気に包まれていた。
「セカン、行ったぞ」
「レフト、バック、バック」
「ショート、ライナー」
真夏の直射日光が照りつける中練習していると、球を投げる気力がなくなってきて、倒れる生徒がいた。すると、救護隊が出動し、倒れている生徒を回収し、木陰で休ませた。マネージャーが氷の入ったタオルをあて、回復を図る。木陰では、セミの鳴き声が響き渡り、蒸し暑い大気の中で、氷の入ったタオルの冷たさが際立った。練習が終わると、疲れた体に水分を補充する。からからに乾いた体に、スポーツ飲料が染み渡る。体が水分と一体化していく様子が実感として感じられた。のどを潤す水分の冷たさがすべてだった。今このときは、いくらでも水を飲んでいられる気がした。休憩中は皆無言だった。皆が体力の回復に意識を集中している。いつも陽気な面々が、このときだけは静かに、しかし皆が迫力を帯びていた。
「休憩終わり、守備練習行くぞ」
キャプテンが炎天下のなか、声をあげる。それに続いてぞろぞろと皆がグラウンドへと散って行った。休憩後の練習は、気だるい思いがある反面、休んだあとなので、身体は軽い。監督が球を打つ。ショートがすばやく捕球し、一塁へと送球。監督が球を打つ。センターがワンバウンドした球を捕球し、一塁へと投げる。その繰り返しが、延々と行われた。強い日差しがじりじりと肌に照り付け、球を握る手に汗がにじむ。真夏日のグラウンドは、直射日光の照りつける砂漠のような様相を呈していて、そこをひとつの白球が飛び交っていく。ショートがボールに飛びついた。しかし、ミットは届かずに球はレフトへと転がっていく。立ち上がったショートは、ユニフォームについた砂を落とし、再び守備につく。球がサードへと転がっていき、サードがすばやく捕球体制に入ると、一塁へと送球する。真夏の練習は、一秒が一分に、一分が一時間に感じられた。延々と続く練習に身体は疲労し、節々が悲鳴をあげる。のどが渇いて息がつまる。そこにボールが飛んできて、渾身の力を出しながらそれを取って、一塁へと送球する。皆が練習に明け暮れていると、木陰で休んでいた部員が立ち上がった。マネージャーの照子に、氷の溶けてしまったタオルを渡すと、帽子をかぶり直し、グラウンドへと帰っていく。照子はタオルを受け取ると、陽を受けて照り返すまぶしいその背中を見送り、部員一人一人にエールを送った。守備練習が終わり、打撃練習になると、皆が一様に校庭端の打撃練習のスペースへと集まり、バットを持って打席につく。バットの球を捉える音が響き渡り、球がネットに吸い込まれていく。一年がネットの前に転がった球を拾い集め、トスをする部員の脇の籠に入れていく。打席につく部員の振るうバットは快音を立てて響き渡り、流れる汗は、ユニフォームを濡らす。バットを握る手は一向にゆるまずに、ただ球を打つことに意識を集中する。そうして何百もの球をひたすらと打ち続けた。その事に忠実であり続けた。やがて、日が暮れてきて、飛び交う球が見えなくなって、それでも練習は続いていた。その日の練習を終えると、皆が、立っていることがやっとという状態で、ふらふらとした足取りで家路についた。帰り道はひたすらと無言で、三郎は、やがて家に帰ると、玄関に荷物を置いたままソファに寝転がり、そのまますぐに眠ってしまった。
一年は、すぐに過ぎ去り、二年になり、三郎は少しずつ試合に出れるようになった。スタメンではなかったけれど、代打要員として時々試合に出場した。三郎は実力的にはそれほど優れた選手ではなかった。スタメンのメンバーもだいたい決まっていて、中学と違い、部員の数も多く、皆のレベルは高く、競争は激しかった。二年の夏ぐらいになると、三年がいなくなり、最上級生になったという事もあり、代打で頻繁に試合に出れるくらいになった。ピッチャーは藤田がエースとして活躍しており、キャッチャーは常島、平山は四番打者のパワーヒッターに成長していた。冬は寒く、夏は暑く、練習はいつもきつかった。それでも毎日陽の暮れるまで三郎たちは練習に明け暮れた。特にきつかったのが、学校のまわりを走る外周走で、これは、一度守備のミスをすると、外周を一周走らなければならないというものだった。三郎たちの学校は、敷地が広く一周走るのに時間がかかったため、これは結構な難行だった。練習の初めのうちは皆ミスも少ないのだが、疲れてくると、どうしても捕球ミスや、送球ミスが出てくる。そして、外周を走らされる。疲れてミスをしているのに、その罰としてさらに疲れることをやらされるという理不尽な仕打ちで、多くの生徒が、ミスをしないように必死になった。それでも、夕方暗くなったグラウンドで守備練習をしていると、飛んでくる球が見えずに、皆がミスをした。一人、また一人と皆が外周を走りに行き、グラウンドに生徒が誰もいなくなったこともあった。そうして、外周を走って戻ってきた生徒から、再び守備につき、人数が足りないので、ノックを狙い撃ちにされてミスをし、再び外周を走りに出るという地獄絵図が出来上がっていた。それでも、部員たちはへこたれずに練習をこなした。何が彼らを突き動かしていたのだろう。彼らは懸命に走った。そうして、練習が終わると、皆その場でへたばり、しばらく動かなくなった。時刻はもう夜になっていて、皆で星空を見上げた。田舎の高校で見上げる夜空には、多くの星が瞬いていた。しかし、だれもロマンチックな感慨など抱かなかった。今はただ、のどが渇いて腹が減った。それだけだった。校門を閉めるという守衛に急かされて学校を出ると、疲れた足取りで家路につく。家に帰ると、勢いよく食べ、死んだように眠った。高校の間、少なくとも三郎には親に対する反抗期というものがなかった。日々の生活が忙しく、親と口論することもなかったのだ。
三郎の高校生活はそのように味気ないものだった。昼間勉強して、部活をして、夜、家に帰ってくる。休日は練習試合に出かけることが多かった。ときどき代打で試合に出る機会があり、大抵は凡打か三振に終わった。練習試合の帰りにコンビニに寄って、百円のポテトを食べる。それがなによりの楽しみだった。高校生活の中で、三郎は、三回靴を取り換え、グラブを二回修理に出した。それは、よく使い込まれていて、それでいてぼろぼろだった。
「ねえ、三郎」
授業の終わった十分休みに三郎が弁当をかっ込んでいると、照子が話しかけてきた。今は三時間目が終わったところで、昼休みではなかった。
「三郎、あんた今弁当食べたら昼休みは何食べるのよ」
照子が言った。
「弁当は、休み時間。昼休みは購買のパンを食べるんだよ」
三郎が言った。
「そうして、それを食べ終わったら練習」
「飽きれた」
照子は、ひとつため息をついた。
「ところでさ」
「三郎は大学に行く?」
照子が言った。
「うーん、わかんない」
三郎は豪快に弁当を食べながら言った。
「そんな先の事わかんねえよ。今は藤田のフォークをどうやって打つか、それしか考えてない」
「もう、馬鹿なんだから」
照子はそう言うと微笑んだ。照子は自分なりに進路の事を悩んでいたのだが、その事に無頓着な三郎を見ると、今まで真剣に悩んでいた自分が馬鹿だったのかな、という気がした。
「ねえ、三郎」
照子は弁当を食べている三郎の前の席に座ると、三郎の事を見つめた。
「もうすぐ、甲子園予選だね」
照子は言った。三郎はそれを聞くと、弁当を食べる手を止めた。照子が続けた。
「私たちってもう三年でしょ。今年は甲子園に行けるのかな。今の実力だと、県で一番強いところが冬峰じゃない。それでさ、これ見てよ」
照子はそう言うと三郎の前に地方新聞を広げた。そこには、甲子園出場常連校である冬峰高校に対するインタビューが載っていて、期待のピッチャーとしてミツヒデの名前があった。
「ミツヒデだ」
三郎が言った。同じ中学だったミツヒデが、強豪校でピッチャーをやっている。高校になってから音信不通だったけれど、なんだ、すごいことになっているじゃないか。
「照子、お前ミツヒデが冬峰のピッチャーやってるって知ってたの?」
「いえ、私も知らなかったわ。ミツヒデ君が冬峰に行ったのは知っていたけど、そこの野球部でピッチャーになっていたとは思わなかった」
「どうする?」
照子が言った。
「どうするって?」
「だって甲子園に行きたいんだったら、冬峰はどうしても避けて通れない道よ。トーナメントでいずれ当たることになるかもしれない。そうなった時、ミツヒデにどんな顔すればいいのかしら」
「そんなこと気にするなって」
三郎はそう言うと照子の顔をから視線をそらした。
「照子は、そんな事考えなくていいんだよ。甲子園予選であたったら、その時はその時さ。深く考えることじゃない。でも、驚いた。ミツヒデが冬峰のエースだったなんて」
三郎と照子は、額を寄せて話し合った。そうして、あのお調子者のミツヒデがどうなっているのか、考えをめぐらすのだった。
月日の流れるのは早い。高校で野球部に入って、日々野球漬けの毎日を送り、そうして、三郎と照子は、高校三年生になっていた。三年生になって一番重要なことは、受験ではない。受験勉強にあくせくするのは、普通の高校生たちだ。三郎たち野球部員にとって高校最後の年のイベントは、甲子園にあった。そうして、それが今目の前に訪れているのであった。甲子園地区大会。甲子園への出場を決める予選会だ。県からぞくぞくと強豪校が集まってくるこの大会に、三郎たち光中高校は、誰もが緊張した面持ちで臨んだ。そうして三郎たちが先発して球場で練習していると、そこに相手校が現れた。相手は、月之下高校といって、ここはピッチャーが強いことで有名だった。
「月之下高校の西荻です。ピッチャーやってます。よろしく」
ピッチャーの西荻はそう言うと、快活に笑った。そうして、はじめて会う見知らぬ相手チームのメンバーに、ひとりひとり話しかけていった。甲子園予選大会で誰もが緊張している場面でただ一人陽気な雰囲気を帯びていた。そうして、六番ショートについていた三郎にも話しかける。
「きみ名前は?」
「三郎です」
「そうか、三郎君か」
「ええ」
三郎は言った。
「朝飯に卵入れるじゃん」
「え?」
「白いご飯に卵。醤油を垂らしてさ。ネギなんかもつけると最高だよね」
西荻は続けた。
「朝食はご飯派?パン派?うちは毎日白いご飯でさ、パンとかは食べないわけ。でもさ、今日はいつもの白いご飯に卵がついてなかったんだ」
そう言うと三郎の事を一瞥し、ひとつ頷くと言葉をつづけた。
「信じられないよね。いつもは必ず卵がついてるのに。今日は白いご飯をそのまま食べてきたわけ。だから、調子くるっちゃってさ。まいっちゃうよ。それでさ」
そのようにしてまくしたてて喋り続ける相手の言葉に、三郎はたじたじになってしまった。
「じゃあ、今日はよろしく」
そうして挨拶を済ませると、相手チームのピッチャーは一、二球投球練習をして、それだけでベンチに引っ込んでしまい仲間と雑談に耽っているようだった。笑い声が反対側の光中高校側まで届いてきた。ウォーミングアップをするという気配ではない。
「これは、楽勝かもしれないね」
相手チームのそうした雰囲気に、平山が言った。そうして、ベンチで休む相手校を尻目に、三郎と平山は試合開始までピッチャーの球を打ち返し練習を続けた。試合が始まった。一回表、月之下高のよくしゃべる西荻と呼ばれるピッチャーは、マウンドまで飄々として歩いて行くと、手に持っていた帽子をかぶった。そうして、バッターを見つめると、しばらく精神を集中していたが、やがて投球を始めた。その球は、かなりの球速を誇り、この投手が口だけでないことがわかった。対戦するバッターはなかなか手が出ずに、放られた球はバットにかすりもせず、キャッチャーミットに収まった。続く球も球速はかなりのもので、きわどいところに投げ込んできた。打たせて取るタイプではない。三振を積み重ねていくタイプでもない。投手の型にはまらず伸び伸びと投球するその姿は、ある種の才能を感じさせた。
「あんな球打てっこないよ」
バッターボックスから戻って来た平山が言った。その投球に、光中高校のメンバーは圧倒された。先ほどまでの陽気さと違い、ピッチャーは、マウンド上で寡黙であり、黙々と打者を打ち取っていく。その様子は、先ほどまでの陽気な性格と違い、真剣な威圧感をまとったものだった。
「陽気な死神」
平山が言った。
「え?」
三郎が声をあげた。
「あのピッチャーにつけられたあだ名さ」
平山が言った。聞いたことがある。中学生にして完全試合を成し遂げたことのある有名な投手だ。高校でも対峙した相手が四打席連続で三振に終わり、自信を無くして野球をやめてしまったという伝説をもつ。相手のもつ野球に対する自信を粉砕する力と才能。そういった物をこのピッチャーは持っていた。普段陽気な分、マウンド上での寡黙さが際立ち、それと合わせて打者の気を打ち砕く投球からついたあだ名がこれだった。聞いたところと実際の雰囲気とで、これほどまで違うものなのか。光中ナインは、陽気な死神に対して一点も取れずに、無残に回を重ねていった。四回、五回と危なげなく抑える死神と違い、光中は苦労した。打者を二塁まで進出させる事が多く、ひやりとさせられる場面が多かった。そうこうしているうちに相手校に一点を入れられ、試合は相手ペースになった。点の取れないまま試合は相手ペースで進んでいく。甲子園への切符がここで終わってしまうのか。三年間の苦労は何だったのか。いや中学時代から計算すると六年になる。六年もの間の苦労、練習、ひたむきさ。そういったものがここで途切れてしまうのだ。三郎は、そう思うと、背筋に冷たいものが走った。唾を一つ飲み込み、陽気な死神の事を見る。陽気な死神のしている野球が打者を打ち取るという点においてきれいな野球と言うならば、光中高校の野球は、きたない野球と言えた。何とか塁に出て、走塁を重ね、懸命に点を狙う。取れる見込みのない球にも食らいつき、決して最後まであきらめるという事をしない。そうして、この試合は、綺麗に二つに分けられた。打者を一人も出さない死神と、相手に二塁三塁を踏ませても、点は与えずにこらえる光中。試合はそのようにして、8回を迎えた。相手チームの死神は相変わらずの投球を続けていたし、光中もここまで一失点に抑えていた。そうして、光中の打者は、二番ショート本川。死神は冷静にこれに対処した。難なくツーストライクを取り、三球目はストレート。空振りに終わり、これでアウトかと思われた。しかし、相手チームのキャッチャーがこれを取りこぼして球が後ろへと逃げていき、この隙に打者は一塁へと進むことができた。予定外の出塁となった。三番ライト棚山。三ゴロ。しかし、これを相手チームの三塁手が悪送球し、取りこぼして、棚山が塁に出る。ランナー一二塁。この日フォアボール以外で初めての出塁だった。
「よーし、ここ大事。一点狙ってこう」
光中の監督が声をあげた。はじめての二塁への出塁に、陽気な死神はなにを思ったか。相変わらず寡黙なまま、投球を続けていた。そうして次ぐ、四番平山が凡打を放ちアウト。しかしランナーは三塁へと進んだ。そうして、ワンアウトランナー二三塁と言う場面で、五番キャッチャー常島。ここは、なんとか点がほしい場面だった。相手チームはだれもがここを抑えようとしていたのに対し、光中は誰もがここで逆転を狙っていた。八回の攻撃が、光中にとって最後のチャンスと言えた。ここで点を取れば同点にできるが、ここで点を取れないと負けが決まる。光中の一年生が甲子園への思いと試合に勝ちたいという願いを抱き、大事な場面に至っているという局面で、張りつめていた緊張がはじけて、泣き出した。そうして泣きながら自身のチームを応援している。頬を涙が伝い落ちる。鼻水を垂らしながら声をあげる。そうして手を握り締め、ただひたすらに祈っていた。打者の常島はそれを見て思いを新たに、バットを握りかえして、投手を見つめる。
しばらく続いたが、やがて陽気な死神が大きく振りかぶると、第一球を投げた。外角のきわどいところに目一杯のストライク。手が出ない。次ぐ球は、内角から外に逃げるシンカー。カウントワンエンドワン。すると、今度は、ど真ん中の直球がきた。狙い球だ。これを見逃す手があるはずもなく、バッターの常島は、勢いよくフルスイングした。引っかかった球が右方向へと反れていく。これは結局ファールに終わった。八回裏ツーアウトのカウントツーエンドワン。相手チームは誰もがここを抑えることを祈っていたし、光中は、誰もが一発を願っていた。そして、それは起こった。バッターの常島は陽気な死神の多彩な変化球は捨て、狙い球をストレート一本にしぼった。それは一種のかけで、勝ち目は少なかったと言えるだろう。陽気な死神の投げた球は甘い球ではなかった。しかし、それは確かにストレートだった。狙い通りの球がきた常島は、その球を打ち返し、死神からツーベースヒットを放ったのだ。二塁と三塁にいたランナーがホームへと帰り、ヒットを放った常島がゆうゆうと二塁を踏む。死神からヒットを奪った。そして、二点が入った。相手から奪ったヒットは、たった一本だったけれど、今まで完璧なピッチングをしてきたピッチャーからヒットを奪ったというその事実が試合を決定的なものにしていた。流れが決したといえばいいのかもしれない。それだけで勝負が決まった。流れはいっぺんに光中の方に傾き、九回は表も裏も両校無得点に終わり、試合は一対二で、光中が勝利をあげた。
「いや、負けちゃったよ」
陽気な死神、西荻が言った。しかし、その実際の内容で言えば、こちらの光中高校の負けと言っても過言ではなかった。八回のたった一球、一本のヒットが勝負を決めた。劣勢だったチームが結果として試合に勝つ。野球とはそういうものだ。
「でも、うちも良い野球してたでしょ。やっぱたまごかけご飯に卵がなかったのがいけなかったかな」
西荻はそう言うと笑った。そうして、チームのメンバーと共にベンチへと引き上げていった。彼らの野球は終わったのだ。毎日学校が終わってから校庭で練習し、外周を走りまわり、コーチにしごかれ、懸命になった三年間。苦楽を共にしたメンバーとの日々。それが、今、終わりを迎えた。陽気な死神は、マウンドを降りるとまた陽気さを取り戻した。そうして、部活のメンバーと談笑しつつ、球場を後にした。野球部のメンバーは、残りの高校生活を過ごした後、大学受験をする者もいるだろうし、就職するものもいるだろう。そういったひとつのチームとして出来ていた級友たちとの絆や友情といったものが、今一つ終わりを迎えた。三郎たちは、この試合に勝利し、次ぐ甲子園地区大会二回戦へと駒を進めたのだった。
甲子園地区大会二回戦の相手は、玉縄高校という高校だった。三郎たちが会場に到着したころには、すでに練習を始めていて、なかなか気合が入っているようだ。ここは、特出したピッチャーがいるわけでもないし、優れたバッターがいるわけでもない。しかしそれでも試合に勝つ。ミスが少なく、部員たちの呼吸がそろっていて、いわば団結力を売りにしているチームだった。
「お願いします」
対戦前の挨拶が終わると、すぐに試合は始まった。相手チームは、手堅い攻撃と、統制のとれた守備を見せ、三回表の時点で〇対〇、同点だった。何かきっかけひとつで、崩すことができるだろうか、光中は玉縄の弱点を探った。そうして、玉縄と五回まで対戦して分かったことは、相手がミスをしないという事だった。ピッチャーは四球を出さないし、キャッチャーに取りこぼしはない。送球はいつも正確だし、ランナーを見て状況を判断する目は的確だ。これほど団結力のあるチームは見たことがない。ピッチャーは安心して背後を任せているので、打たせてとるピッチングをすることができ、それでいてミスがない。光中の面々は、どうしたものかと考えを巡らせた。
「あいつらから点を取るのは至難だな」
ピッチャーの藤田が言った。そんな藤田に向かって、キャッチャーの常島が言った。
「あいつらの強みは、なんだと思う?」
「さあ、なんだ?」
「団結力だよ」
常島はそう言うと足を組み替えた。
「お互いがお互いを信頼しあい、阿吽の呼吸が取れている。そこから生まれる連携プレーは、簡単には崩せない」
「一朝一夕で身につけた連帯感じゃない。共に釜の飯を食っても中々こうはならないぜ」
「なるほど」
三郎は頷くと、相手チームの事を見た。ピッチャーは落ち着いたピッチングを続けていて綺麗に打者を打ち取っていく。この相手に隙はないように思われた。
「しかしな」
常島は身を乗り出すとそして言った。
「あいつらの強さが団結力の高さにあるのなら、あいつらの弱点もおそらく団結力の高さにある。お互いがお互いを信頼していればいるほど、一度ミスが起こった時、焦りが生まれる。連携は崩れ、ほころびが生まれる。そこを攻めるぞ」
常島のその言葉通り、光中高校は、辛抱強く相手がミスをするのを待った。一球でも多くファールを打ち、長期戦に持ち込む。そうする事で、消耗戦にして相手がミスをするのを待つ。そうして相手が崩れるのを待った。かっこの良い戦法ではないが、泥臭い野球をする光中が、唯一団結力の高い玉縄から点を取るための手段だった。そうして九回の表、光中の攻撃。バッターは三番ライト棚山だった。普段弱気な棚山が闘気をみなぎらせながらバッターボックスにつくとピッチャーを睨んだ。しかし、相手は動揺する気配もなく、投球を始める。ストライク。外角高めのストレートは速度こそないが、丁寧に端をついたピッチングには手が出ない。簡単には打たせてもらえないという事だ。棚山は、ピッチャーを見つめ、次ぐ球が来るのを待った。カーブだ。二球目は、カーブが来る。今までの三打席で、ピッチャーと対峙してきて、このピッチャーの得意球がカーブであることを棚山は見抜いていた。九回の表、〇対〇。一点の失点も許されない状況で、体には疲労が溜まっている。相手ピッチャーがこんな時頼りたいのは何か。得意球だ。だからきっとカーブが来る。棚山はそうして狙いを定め、それが来ることを待った。そして、それは来た。三球目、ピッチャーの投げた球は、打者の手前で右下方向へと曲がり、まさにこれを狙っていた打者は、それを打ち返した。球はライナー性の強いあたりで、一度バウンドしながら二塁ベースの付近に飛んでいった。しかし球の軌道の先には二塁手が待ち構えていて、普通にいけば、二ゴロでアウトになるはずだった。玉縄のセカンドが手を伸ばしグラブでそれを受けようとしたそのとき、球が弾かれてあらぬ方向へと飛んでいった。捕球ミスだ。二塁手は慌てて球を追うが、一塁には間に合わない。光中が一塁へと進出した。ミスをしないことを売りにしているチームがミスをした。流れが変わった。一打出れば点が入るかもしれない。光中の誰もが気負いたった。ノーアウトランナー一塁、一気に攻め上げるチャンスに、四番平山三振。五番常島三ゴロ。六番三郎キャッチャーフライ。一気に三つアウトを取られると、あえなくチェンジとなった。そうして、相手チームはミスが発生しても平常心を保ったまま、九回も無得点に抑える。
「くそ、どうなってるんだ。あいつら、崩れないぞ」
三郎が言った。
「強いな」
常島が言った。
「自信のある分野でミスをして、流れが変わり、逆境の中攻められても怯まない。冷静を保っている。中々出来ることじゃない」
九回の表も無得点に終った光中は、その裏をなんとか〇点に抑え、九回終わって〇対〇。試合は延長戦に突入した。
セーフティーバントで出塁し、盗塁で数を稼ぎ、犠牲フライで点を狙う。そういった光中の戦法に、相手チームの玉縄は冷静に対処した。しかし、一〇回をまわったあたりから、相手にも疲れは見え始めていて、勢いが衰えているのが感じられた。どちらのチームも力を振り絞りながら、なんとか一点を狙いあくせくした。巨漢の平山が走り、肩の弱い三郎が投げ、ピッチャーの藤田が打った。自分に与えられた役割を超えて、ただ全力で事に当たる。もはや作戦や戦法などというものはなく、ただひたすらに這いつくばった。それが幸いしたのかもしれない。一三回に光中が一点を取り試合終了。玉縄に勝った。試合を終えた後の両校の握手では、そこには対戦相手という垣根を越えた友情が生まれていた。勝者は残り、敗者は去る。そういった単純な決まりごとに、複雑な人間関係が垣間見えた。こうして玉縄高校の団結力に打ち勝った光中は、甲子園予選三回戦へと駒を進めた。
一回、二回と勝ち進んでいき、三回戦の相手は、河崎高校といって打者の強い高校だった。皆、背が高く、体格もよく、それでいて投手力も持ち合わせている。ピッチャーは三振を積み重ねていくタイプで、ど真ん中の直球勝負が多かった。三郎たちはこのチームに前半こそ一対〇とリードを許し、抑えられていたものの、後半になって相手に疲れが見え始めてくると、そこを攻めた。九〇分から一二〇分の試合の長さは、ピッチャーにとってつらいものがある。しかもトーナメント方式の連戦での甲子園予選だった。お互い消耗の激しい中を戦ってきたので、どうしても疲れが出てくるのだ。勢いのよかった前半の猛攻は、後半で失速、河崎高校は弾みを無くし、対して後半に強い光中のメンバーたちは、ここで攻勢に出た。動きの鈍くなったピッチャーから二塁打、犠打、一塁打と立て続けに猛攻を加え、二点を奪取。一挙に逆転して試合に勝った。勝因をあげるとするなら、それは集中力の違いだろう。連戦が続く甲子園予選で、前半だけでなく後半も体力を維持するためには、高い集中力が必要とされる。光中の選手たちはこの集中力を持って勝ち進んだ。三回戦はこのようにして無事に終わり、そして三郎ははっとした。四回戦の相手が、冬峰高校なのだ。三郎のいる光中と違い、甲子園出場常連校である冬峰との対戦は、間違いなく重要な試合になる。県内から精鋭が集まってくる冬峰の中で、ミツヒデはどうしているだろう。すると、試合を終えたばかりの光中の前に、次の試合で対戦する冬峰高校がやってきた。部員は百人はいるだろうか、大勢の人だかりが光中の前を通っていく。そうして、その中にミツヒデの姿があった。中学であんなに仲が良かったのに、会うのは三年ぶりだろうか。三郎は浮足立って前に進み出るとミツヒデの肩を叩き、そして言った。
「よう、ミツヒデ」
三郎の声に振り返ったミツヒデは、しばらく三郎の顔を見ていたが、やがて思い至ったのだろうか、声をあげた。
「三郎」
ミツヒデが言った。高校の三年間で、ミツヒデの背は伸びていて、体格もよくなり、近くで見ると見上げるような形になった。三郎は昔のような気軽さでミツヒデに話しかけた。
「久しぶり。相変わらずボールが恋人かい?」
三郎がミツヒデの事をからかった。しかし、ミツヒデはこれに答えず、沈黙を守ったままである。
「照子もいるんだ。あいつ高校でもマネージャーやってんの。似合わねーよな」
「ふーん」
ミツヒデは言葉少な気だった。
「なんだよ、つれないな」
三郎が言った。ミツヒデは答えなかった。
「なあ、ミツヒデ。冬峰だったら、お前、どうせベンチなんだろ」
「いや、ピッチャーをやってるよ」
ミツヒデは答えた。そうして振り返ると、肩慣らしをするべく、グラウンドへと出て行ってしまった。
「行っちゃった」
その後姿を見送りながら、三郎がぽつりと言った。冬峰高校の人だかりは、やがてグラウンドへと続く道を行くと、そのあとに何も残さずに、消えていった。
三郎は、三回戦を終えた帰り道に、照子に言った。
「なあ、照子。ミツヒデってあんなだったっけ」
「さあ、もっと明るかったような気がするけど」
「冬峰でしごかれてるんだな、きっと」
「そうね」
二人はそう言うと黙って歩いた。地区大会の球場から光中高校まで二時間はかかる。帰り道の途中、会話のなくなった二人の間に沈黙が垂れ込める。
「なあ、照子」
歩いていた三郎は立ち止り、照子の顔を見つめ、そして言った。
「照子は次の試合、おれとミツヒデどっちを応援する?」
三郎はそう言うと照子の反応を待った。
「そんなこと言われても分からないよ」
照子は困惑気味に言葉を継いだ。
「三郎は友達だし、部活の仲間だし、ミツヒデ君とも仲良かったし」
照子は続けた。
「覚えてる?小学校最後の日、三人で夕焼けの中帰ったこと」
「うん、覚えてるよ」
高校生になった三郎が、当時を思い出して言った。
「三郎はあの頃から、ちっとも変わらないね」
「そうかな」
「あの日も、こんな夕焼けだった。沈んでいく夕日がきれいだった」
照子はそう言うと、今まさに沈んでいこうとしている夕日を見つめた。夕日は、半分ほどが建物の影に隠れていて、それはとてもきれいだった。
「三郎にも勝ってもらいたいし、ミツヒデ君にも勝ってもらいたい。どっちかが負けるなんて、そんなのいや」
照子はそう言うと、俯いてしまった。
三郎はこれを聞くと黙り込んだ。次のミツヒデとの対戦は避けられない。相手チームのピッチャーはかつての友、ミツヒデだ。そこにはどうしても情が芽生えてしまう。それにどのように対処するか。三郎は、ただ、黙って照子の隣にいることしか出来なかった。
一回戦の陽気な死神との戦いが、才能との勝負であったのなら、二回戦の玉縄との戦いは、団結力との戦いだった。そして、三回戦が集中力や努力との戦いであったなら、冬峰との四回戦は背負っているものとの戦いと言えた。相手校は、甲子園出場常連校であり、この地区大会など突破するのが当たり前という気構えだ。三郎たち光中は、ミツヒデたち冬峰に挑むという形であり、そして挑むという形になっている時点で、すでに優劣が決まっている。そこでどれだけの勝負ができるか、球場に入ってきた冬峰の面々は、みな何かただならぬものを内包していた。対戦相手の光中にとってそれほど恐ろしいことはなかった。試合前の挨拶で、先攻は光中、後攻は冬峰に決まった。三郎はこの日ベンチで、スタメンからは外れていた。
「よろしく」
試合前に三郎がかつての友ミツヒデに挨拶した。
「ああ、よろしく」
ミツヒデが言った。二人の間に一瞬だけ、かつての思い出がよみがえる。はしゃぎまわった中学校の思い出、共に汗水たらした部活の練習。雪の日に一緒に帰った寒かったあの日。
「どちらかが、負けるんだな」
三郎が言った。
「どちらかの野球が終わるんだ」
ミツヒデが言った。
「おれは勝つ」
三郎が言った。
「負けるわけにはいかない」
ミツヒデが言った。二人はそのようにして対峙した。ミツヒデが振り返る。その背中は、もはや中学時代の面影を残していなかった。
「悔いは残したくないからな」
三郎が言った。
「そうだな」
ミツヒデが答えた。お互いがお互いの事を一瞥すると、二人は別れて去っていった。
一回の表、ピッチャーマウンドにつきながら、ミツヒデは、悔いは残さないという言葉を反芻した。悔いなんて初めから残らない。それは、心に迷いのある人の言葉だ。懸命に練習を続けてきたミツヒデに、迷いなどというものはなかった。
ベンチに戻りながら、三郎は思った。何をどれだけやっても悔いが残る。満足というものに達する事がない。だから、いつも悔いが残る。懸命に練習を続けてきた三郎に、完成などというものはなかった。
そうして二人は、球場の端と端に分かれて行った。光中と冬峰、両者は相対して、甲子園予選四回戦が始まった。
「気合入れてけえ」
一回の表、光中ベンチから声援が飛ぶ。そして、それは声援というより怒号に近い。アルプススタンドには、高校の生徒たちが応援に駆け付けてくれている。二〇〇人は居るだろうか、皆がたった一人、バッターボックスに立つ加藤に思いを託す。バッターとベンチにいる面々、応援席の人たち。このときだけは、全員が同じことを感じていた。加藤は、打席に立つと、ピッチャーを見つめた。ピッチャーは、帽子を目深にかぶり、ボールを手で弄んでいたが、やがて構えると一呼吸置き、第一球目を投げた。ストライク!気持ちいいまでの直球だった。心地よいまでの直球を、ど真ん中に投げてきた。打者の加藤までその潔さに感じ入った。アルプススタンドの冬峰高校の生徒が声をあげた。それと同時に、光中高校の生徒が叫んだ。皆が言葉にならない声をあげる。思いは、言葉を通り越して、叫びという音になった。満開の雄叫びが球場に響き渡る。誰もが欲し、追い求めて渇望した。歓声に満ちた球場の中で、加藤がバットをフルスイングした。球は、三塁方向へと転がっていき、三塁手がこれを捕球すると、丁寧に一塁へと送球した。アウト!塁審が勢いよく声をあげる。加藤が、その前を全力疾走で駆け抜けた。一回の表からアウト一つ取るのに観客は熱狂した。そうして次の二番本川、三番棚山が打ち取られ、一回の表は〇点でチェンジ。攻守交代が行われた。冬峰の選手は皆体が大きく、ひとりひとりがどのチームでもキャプテンを務められる強さを持っていた。そして、甘い球を見逃さずに一発を放つ選球眼も持ち合わせていた。光中のピッチャー藤田は、一番目の打者を打ち取ると、大きく声をあげた。それに答えて観客が声援をあげる。未だ一回の裏だというのに、観客も選手たちも、皆が熱狂のただなかにいた。ピッチャー藤田は、初回から手を抜くという事をせず、全力投球で事に当たった。相手の強さゆえに、そうする事が必要であったと同時に、それを求めてもいた。一回の裏、冬峰の選手を四人で抑えた藤田は、ベンチへと帰っていった。両者顔見せが済んだというところで、二回の表が始まる。
「冬峰のピッチャー冷静だな」
光中のベンチで常島が言った。熱狂に包まれた球場の中で、誰よりも冷静なのが冬峰のピッチャー、ミツヒデだった。
「空気に飲まれず、冷静に自分の野球をしている」
「速さもある」
「コントロールもある」
「ありゃあ、崩すのは大変だぞ」
光中のベンチを飛び交うミツヒデの話を、三郎、平山、照子は黙って聞いていた。ミツヒデを称賛する声を聞くと嬉しい気持ちもあった。そしてそれを差し置いて、勝ってやるという気概もあった。ミツヒデのピッチングは安定していて特に目立ったところはなかった。外角低めを攻めたあとは、内角高めを投げ、ストレートの後にはチェンジアップを投げた。それはセオリー通りの投球だった。しかし、それでいて着実に打者を打ち取っていく。そこには、理論を越えた力強さが感じられた。中学の頃のミツヒデからは想像できない投球だった。
三回を終わって二対〇、冬峰が二点を取り、光中は点を取れなかった。試合は序盤から激しい展開を見せ、歓声は途切れることがなかった。四番ファーストの平山がミツヒデに相対した。平山は、マウンド上のミツヒデを見つめた。平山は精神を集中させると、ミツヒデを睨んだ。その瞳には友人関係に影響されない勝負の世界にいる者の気概があった。普段穏やかな平山が光中で四番を打つ理由はここにある。誰が相手でも物怖じせずに勝負に挑み、成果を上げる底力があった。緊迫した舞台上で、ある一定の成果をまんべんなく残すことのできる平山は、それだけで四番を務める器量を持ち合わせていた。平山にとってミツヒデはもはやミツヒデではなく、ただの冬峰のピッチャーだった。第一球目は内角高めから外に逃げていくシュート、平山は冷静にこれを見送った。二球目は内角中くらいから下に逃げていくカーブ。平山はこれをボールと思い見送ったが、ぎりぎり一杯でストライクとなった。カウントワンエンドワン。緊迫感がみなぎる。前二球は共に変化球。次の球は、ストレートが来る気がした。そして冬峰のピッチャーが投げた球は、真ん中から外角ぎりぎりまで曲がっていく変化の大きいカーブで、平山はこれに手を出した。ぼてぼてのボールがピッチャーマウンドの方へと転がっていき、冬峰のピッチャーはこれを拾うと一塁へと送球した。さすがに甲子園出場常連校であるだけに簡単には点が奪えない。この回三番棚山、四番平山、五番常島のクリーンナップ打線が冬峰のピッチャーによって丁寧に打ち取られた。
三郎はベンチからミツヒデの事を見つめていた。会っていなかった三年の間に、ミツヒデはどう過ごしていたのだろうか。冬峰のピッチャーに上り詰めたのだから、大変な努力をしたに違いない。そのピッチングは目を見張るものがあった。三郎は両腿に肘をついて、静かにマウンドを見つめていた。試合に出れないもどかしさに心荒みながら大歓声に包まれる球場を見つめた。ミツヒデは回を重ねても疲れることなく冷静なピッチングを続けていた。三郎は、そのミツヒデの投げる球の一球一球を括目した。光中のバッターがヒットを放つ。歓声が沸き起こる。ミツヒデは帽子を取り、汗をぬぐうと、もう一度マウンドを見つめた。焦りはない。むしろ適度な緊張感が闘争心を掻き立て、気持ちの良いピッチングを可能にした。ベンチにいる三郎の目には、ミツヒデが大きく見えた。冷静さをまとったミツヒデの姿は、三年前と違い大人びていた。光中の面々が打ち取られ攻守交代、ベンチから守備につくナインを見送りながら、このとき三郎はミツヒデとの思い出に浸っていた。
「ワンナウト、ワンアウトとっていこう」
光中の選手たちが声をあげる。四回は冬峰の必死の猛攻があり、光中は守りに徹し、しかしふたつ点を落とす。冬峰の四番と五番に一本ずつホームランを打たれたのだ。藤田の速球主体のピッチングは、その球の速さにこそ存在感があったが、打者が一巡したあたりから冬峰のバッターたちはすぐにそれに順応し、合わせてくるようになった。しかし、光中も負けてはいない。一人ひとりがヒットを打ち、ミツヒデの冷静なピッチングに慣れてくると、二人目が送りバントで塁を稼ぐ。三人目が一発を狙い二塁打を放ち、走者がホームへと帰ってきて一点を獲得した。アルプススタンドの光中側の応援席が沸き立つ。二塁打を放った本川が小さくガッツポーズをする。ベンチが帰ってきた走者を出迎える。頭を叩いて喜びをあらわに、次ぐ打者に期待を抱く。四回の表、ワンアウトランナー二塁、三番の棚山は自分の仕事を分かっていた。次につなげる。ヒットを打って二塁三塁、もしくは走者生還の特大打。これしかない。棚山が気を引き締めると、冬峰のピッチャーが球を投げた。普通に投げている感じの球でもかなりの球速があった。ストライク。内角いっぱいのストレートだ。ストライクツー。今度はシュートボール。手が出ない。そうしてバットで間合いを測りながら、棚山は三球目を待った。三球目は外角一杯のチェンジアップで、棚山はそれをフルスイング。三塁線に抜けるライナー性のあたりになった。三塁手は素早くそれを追ったが、間一髪届かずにレフトへと抜け、ヒットになった。棚山は三塁を回り、全速力でホームへと走るが、レフトからも球がかえってくる。球が先かランナーが先か。際どいところで棚山がスライディングをする。球より一瞬先にホームに足が届き、点が入った。球場は歓声に包まれ、高校生たちの声援があたり一帯に鳴り響く。ベンチにいた三郎が声をあげた。点が入ったことで、がぜん勢いづいた光中は、五回、六回と得点まであと一歩というところまで攻撃する。それを防ぐ冬峰の守備は連携が取れていて、特出した点はないが、平均的にレベルが高く、完成度の高さをうかがわせた。そうして、六回、七回が過ぎていき、八回終わって七対二。光中が負けている。甲子園出場校の強さは伊達ではなかった。一人一人の総合的な能力が高く、ミスが少なく、すべてにおいて高水準を保っている。一発を狙える力強さを持っていながら繊細で技術的なバッティングもこなす。その強さは本物だった。光中の面々は、みな口と表情には表さないが、たぶんどこかで負けを意識している。伝統校の底力の高さと、次々に生まれる魅力的なプレーに、光中の面々のほうが、圧倒された。冬峰の選手が冷静に一人ずつ光中の選手を打ち取っていく中で、監督がベンチにいる三郎に声をかけた。
「出るか、三郎」
監督がそれだけのことを言った。
「出ます」
八回の表、三郎にたった一度だけ代打として打順が回ってきた。冬峰高校のピッチャーはミツヒデ。六年間の野球部人生の中で、二人が対決するのは初めてだった。三郎は、バッターボックスに入るとミツヒデの事を見つめた。帽子の影になって表情は見えなかったが、体格ががっしりしていて、あのころのミツヒデの面影はなかった。野球場には観客の声援が響き渡る。二人は対峙したままどちらとも動かなかった。ミツヒデにとって三郎は、控えの代打でしかなく、脅威たり得ない存在だったはずだ。しかし、二人の間に立ち込める沈黙は、ただならぬ気配を帯びていた。光中のベンチでは、照子がミツヒデと三郎どちらを応援したらいいのか悩んでいた。三郎に勝って欲しい。三郎の懸命な努力を見てきた照子は、三郎の事を思った。でもミツヒデにも勝って欲しい。ミツヒデは、小さい頃から仲が良かった。今日、この試合でどちらかの野球人生が終わる。照子は、散々悩んだ挙句、思い至って、ベンチから立ち上がると、声の限りに叫んだ。
「ミツヒデ、三郎、どっちも負けんな!」
マウンドに立つミツヒデ、バッターボックスに入る三郎。両者のたった一度だけの対決が始まった。
一球目は、まっすぐのストレートだった。ミツヒデは真っすぐのストレートを外角低めに投げてきた。三郎のようなバッターに対してはセオリー通りの投球と言えた。三郎は、ただ、それを見送る。そうして次の球に集中した。次の球はボール。外角から外に逃げていくカーブだった。三郎は冷静にそれを見送る。カウントワンエンドワン。緊迫感がみなぎる。今まで聞こえていた外野の声援が聞こえなくなり、意識は次の球に集中する。三球目はボール球だったが、三郎はこれを引っ張って一塁方向へのファールにする。マウンド上でボールを手にするミツヒデは、冷静だった。かつてのチームメイトに、ミツヒデは遠慮のない剛速球をぶつけてきた。遠くの方で、監督が指示を出している声が聞こえる。大勢の人たちの声援が聞こえている。しかし、今はそんなことどうだっていい。手の中にあるバットの重さ、バッターだけに許された勝負のときのじりじりとした緊迫感。手にしたバットの触り心地とそこにある確かな感触を確かめ、ピッチャーに意識を集中した。今ならどんな球でも打てる気がした。そのことが、自分の感覚で納得できた。四球目は、内角低めを狙ったスライダーだった。三郎はそれを思いきり打ち返した。球はセンター方向へと勢い良く飛んでいった。球は高くあがって、空に吸い込まれそうになりながら、球場の上を飛んでいき、どこまでもどこまでも伸びていく。雲一つない大空に吸い込まれていく白球は、上昇を続けた。重力から解放されてどこまでも飛んでいきそうだった球は、しかしセンターが手前に移動しながらフライの落ちて来る位置の確認に入った。そうして移動することをやめると、ミットをかかげ、捕球する体勢に入った。三郎は今までの出来事を思い返した。昼休みの照子とのトスバッティング。暗くなっても続けた素振り。グラウンドで走り込み、冬休み返上で練習した投げ込みは手がかじかんで大変だった。
三郎はそのような今までの思い出に浸りながら、ただ懸命に走った。三郎の打った球は、どこまでも上に上がっていく事をやめて、少しずつ落下をはじめた。果てしなく昇っていくかに見えた球が、センターのグローブの中へと吸い込まれていく。三郎は一塁へと走った。そうして、三郎が一塁を蹴って二塁へと向かう道半ばで、センターが球を捕球。アウトになった。
三郎の野球人生が終わった。打てると思った会心の一撃は、どん詰まりのセンターフライだった。自分の全力で挑んだ結果がアウトに終わった。しかし、それはすがすがしいものだった。三郎は一塁から一度だけ振り返って、ミツヒデの事を見た。ミツヒデもマウンドから三郎の事を見つめていた。三郎は、それを確認すると、ベンチへと歩いて行った。球場の歓声が心地いい。自分は今、確かに何か偉大なものに満たされている。心地よい爽快感と喪失感。三郎は一歩一歩歩いて行く。ベンチに帰ってくると、椅子に座った。帽子を目深にかぶる。三郎は中腰になると、ほかの選手と共に次ぐバッターを応援した。試合は続いていた。球場は歓声に満たされていた。三郎にとって人生の中での大切な時間が、今このときを流れていた。ピッチャーが球を投げ、バッターが打ち返し、ランナーが走った。皆が懸命になっているグラウンドのベンチの片隅で、三郎は、ひたすら応援した。
冬峰と光中の試合は、九対二で冬峰が快勝した。その後、冬峰は下馬評通りに順当に勝ち進んでいき、甲子園への出場を決めた。甲子園出場が決まった時点で、一度ミツヒデのインタビューが新聞に載った。三郎はそれをタイトルだけ読んで一瞥すると、机の上に置いて、家を出た。
高校へと通う道の途中で、三郎は考えた。大学に行こうか、就職しようか。いずれにせよ、甲子園は終わった。光中高校野球部第四十五期生の甲子園地区予選大会で、ひとりの男が打席に立ち、目立ちもせずに消えていった。そういった事が確かにあった。誰の記憶に残ることもなく、しかしひとりの高校生の全力をかけた一打席があった。
「三郎、遅刻するわよ」
三郎の後からかけてきた照子が三郎を追い越しながら言った。走る照子の背中を追いかけながら、三郎は歩いて行った。暑い日が続く。空を見上げれば、雲一つない快晴だった。甲子園予選は終わってしまったけれど、夏はまだ始まったばかりだ。
参考文献
小山台高校 野球班の記録 藤井利香 日刊スポーツ出版社
野球ピッチング基本のテクニック 正村公弘 メイツ出版