卵かけごはん オイスターソースかけ
春が来た。
三月中旬に妹はリフォームされた猫飼い専用アパートに引っ越した。
下旬に隣り部屋の学生が退去したあと、リフォームにかかったので、同じ時期にアパートを退去した俺は、部屋に入れるまで妹のところに居候になった。元先輩宅に居候を誘われたが、さすがに遠慮がある。ワンルームに兄妹で同居ってなんなんだ、とは思うがやむをえない。俺の部屋にあったソファを持ち込んで俺はそこで寝る、妹はロフトで寝る、のなんとなく住み分け状態でしのいだ。
そして妹は、白猫のシオたんを引き取った。元先輩夫婦がアパートに移ってから他の猫が遊んでくれなくて、落ち着きがなくなっていたので、妹が存分に遊んでやることにしたそうだ。猫のいる生活は楽しい。ロフトの手すりまで、横板が十センチごとについた板が壁際に立てかけて固定されていて、これが「猫のぼい」というものらしい。床近くの六十センチ分ほどは、爪とぎができるよう荒縄が巻かれている板がつけてある。工務店に猫好きな人がいて、ノリノリで作ってくれたそうだ。もう片方の壁には十センチ幅の板が階段状についていて、猫ならそれをのぼってロフトにあがれる。三本足でも活発なシオたんは、部屋の中を回遊して遊んでるから、一匹でも運動不足にならないだろう。
俺が隣り部屋に入ってからは、シオたんは妹の夜勤のたびに預かることになった。若い猫なので、幸いすぐに慣れてくれた。俺のところにまだ猫はいなくて、元先輩の奥さんが猫を拾ったときに子猫をもらう約束をしているが、元々多頭飼いのシオたんなら心配ない。
読書友達から、仕事が決まったことを知らせるメールが来て、その後、図書館通いが再開、読書ができるようになったそうだ。以前のように、本の感想をメールしあった。
久しぶりに同級生で集まった。俺は休みを変わってもらって出席した。去年結婚した同級生の、離婚報告会だと聞いたから。子供が生まれたことや離婚、ある程度の事情は、ごはん友達から話があったので知っていた。
「離婚した」
彼は静かな口調で言った。個室になっている居酒屋で、薄い壁越し別のグループの華やいだ声とは対照的だ。
「みんなに祝福してもらったのに、こんな結果になって申し訳ない」
深々と頭を下げるので、みんなで止めた。
「離婚が決定的になったのは、男の子が生まれたからだ」
結婚した時点ですでに、なんだかなーという感じだったのだが、彼は努力すると言っていたし、実際努力したんだと思う。
「胎児の性別は多分女の子だと言われていたんだが、女の子だというのは確定しないらしい。検査をしているときの胎児の向きのせいで、うまく映らないこともあるとかで。だいぶんあとになってから、男の子だとわかった。それで、元妻が泣き喚いた。女の子しか欲しくなかったんだ。なだめたんだが、数日泣き暮したあと、元妻は実家に行ったきり、アパートに帰ってこなくなった。いや、実家に帰って、アパートに来なくなったというべきなのか。ともかく別居になった」
元々実家べったりだった奥さんが、完全に結婚生活を放棄してしまったのか。
「『男なんかいらない、産みたくない、女の子しか欲しくない』って言っているのを繰り返し録音できてる。『可愛い服が着せられない、男の子は乱暴で汚い』だそうだ。病院でも言っていて、ナースにたしなめられていた。実際、産んでから世話をしようとしなかった。退院のときに赤ん坊はうちの実家に連れ帰ったが、『そっちで引き取って、すぐに女の子を作りたいから』とまで言われた」
子持ちの同級生が顔をしかめた。
「元妻がまったく家事をしない、家計費も負担しないので、離婚は考えたりしたが、子供のことがあった。父親が赤ん坊の親権を取るのはよほどのことがない限り無理だと知っていた。が、男の子はいらないというのを聞いて、ならば、親権を取れるかもしれないと思った。退院後も元妻は実家に帰ったので、弁護士に、離婚前提の別居を通告してもらった。両親と祖母に子育ての協力をしてもらうために、俺は実家にいる。文句を言われたが、弁護士を通してくれと返した」
やっぱ弁護士を入れるのが一番か、とつぶやいたやつは、まだ独身なんだが。何かトラブルを抱えているのだろうか。さすがに今は誰も突っ込まなかった。
「性格の不一致が離婚申し立ての理由だが、元妻と元義母には色々と資料を出した。元妻が家事をしないことや、家計費を一度も入れていないことは記録をつけてあった。やめてほしいと言ったのにもかかわらず、元義母が留守中のうちに出入りしているのは、映像で残しておいた」
隠しカメラか、と言われて、彼はうなずいた。
「元義母がうちに洗濯物を持ち込んで、洗っている映像が撮れてた。ウィークディのほぼすべて。光熱費が二人暮らしにしては高すぎると思って、台所や洗面所にカメラを設置しておいたんだ。俺が実家にいたころ、一軒家で、両親と俺の三人分よりはるかに高かったんだ。料理をうちでして、半分を持ち帰っていたのはわかっていたが、洗濯もしてたとは。元義母は風呂もうちで入ってたよ」
ええ、風呂もか? とあきれた声が上がる。
「光熱費が俺もちなので、好き放題に使っていたようだ。追及すると、二軒分まとめてやったほうが節約になると言い訳していたが、俺に黙ってやっていた上に、費用が折半じゃないところが、語るに落ちてる。非常識だし、常習性があるのが悪質だ。元義母の行為を元妻が肯定しているので、離婚の申し立てに有利に使わせてもらった。それと、二次会で元妻の友人が全員欠席だったことは知っているだろうが、弁護士がそのうちの何人かに連絡をとって、元妻の学生時代の話を色々と聞いたそうだ。詳細は言えないが、元妻の人となりを示すものとして、元友人の話は資料にまとめた。気になったものはなんでも、人でも、手に入れて、興味を失うとポイ捨てするのを繰り返していたらしい」
彼は言葉を選んでいるが、それってものすごくヒドイことをしたんじゃ。
「離婚に応じなければ、調停を申し立てるし、その際には、元妻の家事育児放棄や元義母の過干渉の証拠、元妻の学生時代の問題行動が、調停員に開示されるということだ。向こうが有責になるので、未払いの家計費と慰謝料を請求することになる。結婚一年に満たないので、額は大したことはないが、どちらが有責か公に記録を残すために取る。調停が不成立なら、裁判になる。別居が長引けば、どちらにしろ離婚は認められるから、こちらとしては長期戦でもかまわない、ただ、再構築は決してないので期待しないように、と弁護士に伝えてもらった」
仕事ができる人間は、いざ離婚となったら、きっちり資料を集めて、粛々と進めるんだな。
「俺の離婚の意思は硬かったが、正直、元妻が養育費目当てで息子を引き取ると言い出したら難しくなると思っていた。実際、離婚は渋っていたし、再構築のために息子を育ててもいいと言ったこともあった。俺に対する不満は何十分でも述べられたようで、録音データがすごかった。主に金と、元妻を甘やかさないことだった。ただ、元妻が大学時代の友人に訴えられて、慰謝料を請求されたので、二か所で同時にもめている余裕がなくなって、俺との離婚には同意した。慰謝料を払わなくてすむのが大きかったようだ。まあ、俺に対して興味を失っていたというのもあると思う。親権を俺に渡せば養育費は求めないことと、離婚の経緯を記した書類を作った」
やっぱ弁護士か、というつぶやきはさっきより小さかったが、やはり誰も突っ込まない。
「大学の同級生は、元妻とのトラブルで、うつ状態になったそうだ。最近ようやく訴えられるほど回復したとかで、結構な額を請求しているようだ。元妻が、この慰謝料を俺に払ってほしいと言い出したときには、つくづく結婚は間違っていたと思ったよ。弁護士があきれながら断ってくれた。もしかしたら女の子が生まれていたら、離婚せずに頑張ったかもしれないと思っていたんだが、この件で吹っ切れた」
彼は笑みのような顔になった。
「実は、元義父が希望して転勤したそうだ。島流しとか職場であだ名がついている、人気のない任地だが、そこなら元義母は絶対についてこない、とふんでのことらしい。大学の進学時に家を出て以来、元義父としか連絡を取っていない、元義兄が賛成してサポートしてくれてる。元義母は女の子だけを可愛がって、元義兄は子供のころにずいぶん辛い思いをしたようだ。俺の件が片づいたので、元義父も離婚を申し出るそうだ」
俺の祖父母の女の子差別はひどかったが、女の子だけを大事にする親もひどい。
「結局、元義母や元妻は、自分しか可愛くない人種なのだと思う。元義母が元妻だけを可愛がったのや、元妻が女の子だけを欲しがったのも、肥大した自己愛だろうな」
大変だったろうな。離婚は結婚より二倍も、三倍も大変だって聞くし。
「それと、退職した」
えっ! と声が重なった。彼がどれだけ仕事に打ち込んでいたか、みんな知ってる。
「胎児が男だとわかって、妻が不安定になったという理由で、予定日あたりに有休を一週間申請していた。消化していない有休がたまっていたんだ。あらかじめ、休んでいるあいだの仕事の引継ぎをしておいた。妻が育児を拒否し、赤ん坊をうちの実家で引き取って、俺が面倒をみなくてはならなくなったので、有休の延長を頼んだが、断られたので退職願を出した。引き留められたが、両親はフルタイムで働いているし、祖母は高齢だから一人では無理だし、赤ん坊の面倒をみるのは俺しかいないのだから、退職するしかない。乳児の保育は二か月からしか受けつけてもらえない。元妻が養育費目当てで赤ん坊を引き取ると言い出したときに、無職の男から金は取れないという牽制にも使った。退職は元々考えていて、再就職先のあてはある。デキ婚で出世が頭打ちになったのだから、他社に移ってもいいと思っていたら、幸いにも転職の話をいただいた。予定より早く退職になったが、子育てのためならやむをえない。引継ぎのために一時的に出社して、あとは退職まで有休を消化した。先の一週間で、俺なしの仕事は経験してもらったから、このまま頑張ってもらえると思う」
口元は笑っているんだが、目が違っていた。
赤ん坊の世話があるから、と一次会だけで彼は帰った。他のメンバーは飲みに行った。飲まないとやってられない。弁護士にこだわっていた同級生が肴にされた。事情を聞いたらヤバかった。
ついに! 子猫が来た!
子猫だ、子猫だ!
元先輩の奥さんが猫を拾うのは年中行事みたいなものだが、今回ばかりは自分に関係があるので特別な感じだ。拾われた直後から元先輩宅に見に行って、奥さんおすすめの、キジトラのメスをもらうことにした。
猫を拾った直後に、奥さんの妊娠がわかって、元先輩ともにっこにこだった。
そして、待ちに待った引き取りの日に、俺だけでなく、妹までテンションが上がって、勤務を代わってもらってまで、立ち合うことにして、転居と同時に買った軽四で送り迎えを申し出てくれた。のだが、行きはともかく、帰りは妹が子猫に夢中で、俺が運転させられた。
子猫を飼い始めたことをメールしたら、読書友達もごはん友達も、さらに元同僚も奥さんづれで見にきたいと返信が来た。子猫の吸引力すごい。
休みの朝、夜勤明けの妹がシオたんを迎えにきて、一緒に卵かけご飯を食べた。
「お兄ちゃん、発見! 発見!」
妹が持ってきたのは、オイスターソースだ。
「かけてみて! すごくおいしくなる!」
溶いた卵、昆布だしに、しょうゆとオイスターソースを半々にして加え、よく混ぜた。
「! うまいな!」
「でしょう! 今まで煮物か炒め物にしか使わなかったけど、オイスターソース、卵かけご飯にいける!」
さわやかな朝、膝に猫、おいしいごはん。
最高だー!
おわり
「卵かけごはん オイスターソースかけ」
白いご飯(炊きたて) しゃもじ二、三杯くらい
卵 二個
こんぶだし 耳かき二杯分くらい
しょうゆ 一、二たらし
オイスターソース 一、二たらし




