ネギのしょうゆ漬け
昼休みに携帯をチェックしたら、「検査の結果、何も異常はありませんでした。家に戻ってきました。本当にお世話になりました。それと、高校生と親御さんが病院に謝罪にみえられました」と奥さんからメールが来ていた。電話をかけて詳しく訊きたかったけれど、奥さんは一晩中、ほとんど寝てないはずだし、先輩も疲れているに違いない。「安心しました。よかったですね。ゆっくり休んでください」とメールを返した。俄然、食欲が出てきたが、胃に負担をかけるのはよくないだろうと、お昼はきつねうどんにした。
仕事のあと、ホカ弁を片手に、あくびを連発しながら帰宅すると、先輩から電話がかかってきた。
『ものすごく世話になって、本当に申し訳ない。ありがとう。チャーシュー麺百杯おごっても足らん』
いつもの先輩の口調に戻っていて、ほっとした。
「いいえ。どこも異常がなくてよかったですね。頭を打ったと聞いたので、心配しました」
『あとから影響が出る場合があるらしくて、しばらくは一人にならないように、周囲に様子を見ててもらうようにって言われた。でも後頭部をぶつけたんじゃないだけましなんだそうだ。頭蓋骨って前のほうが硬いんだってさ』
「へえ。そうなんですか」
『後ろからどん、だったから、俺はまるで状況がわかってないんだ。警察の人とも話をしたんだけど、ながらスマホの高校生がひき逃げしようとして、コンビニ前にいた人たちが捕まえてくれたって』
「はい。そのうちのお一人と電話番号を交換したので、後日お礼に伺おうと思ってます」
『そりゃもちろん、俺が行くよ。お前は巻き込まれて、迷惑かけられたほうなんだから』
少し話して、お互い疲れているだろうからと電話を切った。ともかく、先輩が元通り元気でよかった。安心して、ホカ弁を食べて、シャワーを浴びて、眠りに落ちた。
胃の調子が今いちなんで、消化の良いうどんを食べる機会が増えるだろうと、薬味用にネギを買ってきた。刻みネギはそのまま冷凍できるが、冷凍室がネギ臭くなる。アイスとか一緒に入れてたら最悪。なので、しょうゆ漬けにすることにした。
ネギは二ミリほどの厚さに輪切り、かつお節と一緒にジッパーつきの袋に入れる。日本酒を鍋で沸かして、アルコールを飛ばし、ネギにかけながらいれる。しょうゆも入れる。日本酒としょうゆの量はあくまで目安で、ネギがひたひたになればいい。甘いのが好きな場合は砂糖をちょっと加える。ネギが完全にしょうゆにつかるよう、空気をなるべく抜いて、ジッパーを締め、冷めたら冷凍室へ。しょうゆ入りの薬味として使える。ちなみに、日本酒はレンチンでアルコールを飛ばしてもいい。沸騰したあと、しばらくおいて、アルコール臭がしなくなれば大丈夫。
一晩おいたほうが味がしみて美味しいが、とりあえずその場で一部使うことにした。
ゆでうどんを買ったので、マグカップ一杯半分くらいの湯を沸かし、鍋に投入、うどんをいれ、蓋をし、大きな泡がぶっくぶく立つまで加熱してから、乾燥ワカメを入れて、軽く混ぜ、ざるで湯切りして、あらかじめ卵を割り入れたどんぶりに入れて、しょうゆ漬けのネギを加える。味つけはそれだけ。釜玉うどんの出来上がり。
切ったばかりのネギは香りがきつすぎて、匂いという感じなので、パセリ油入りの口臭対策カプセルを飲んでおく。生ネギはどっちかというと直後から臭いが、加熱ネギ、加熱タマネギは翌日が臭い。仕事でお客さんと会ったときにまずい。
十日ほどして、先輩から飲みに誘われた。体調が気になったが、飲みすぎなければ大丈夫と医者に言われたそうで、元々無茶飲みする人ではないし、行くことにした。
「よお。この間はほんとに世話になったな」
居酒屋に入ると、先輩はもうカウンターにいて、俺に手を挙げた。
「その後具合はどうですか?」
「大丈夫大丈夫。一か月くらいは注意しろ、長時間一人になるなとは言われたが、特に何もない」
ビールを頼んで、先輩の隣りに座った。
「高校生を捕まえておいてくれた人たちのとこに、お礼に行ってきたよ」
「ほんと、いい人たちでしたね」
「うん。お前に状況を話してくれたおかげで、色々助かったし。あと、高校生の親とは示談になりそう」
俺のビールが来たところで、乾杯して、つまみをあれこれ頼んだ。
しばらく先輩がつまんでいた枝豆をわけてもらって、無言だったが、
「あのな」
先輩が口を開く。
「奥さんと、義理の両親も一緒に話をしたんだ」
こんなとこで話していいのかな。でも周囲はそれぞれグループでわいわいやっていて、他のグループのことなんて気にしていない。
「奥さんは、義母といると、自分が人間じゃなくて、人形みたいな気がするそうだ。義母の前に出ると、何も言えなくなる、何も主張できなくなる。電話だとまだいいんだが、目の前でじっと見つめられると、正座で叱られていた子供の気持ちに戻ってしまうそうだ。だから義母が俺に嫌味を言っているのを聞かされても、何も言えなかった、ごめんなさい、だそうだ」
漬け物盛り合わせと揚げ出し豆腐が来て、ちょっと話が止まった。
「でも、俺と喧嘩して、俺がさっさと帰ってしまって、追いかけようとしたら義母に止められて、もめてるところに義父が帰ってきたんだって。義母を義父に任せて家に帰ってきたら、俺はいないし、車は置いてあるし、おろおろしてるところに事故に遭ったって電話が来たそうだ」
それは嫌なタイミングだったろうな。
「俺がいなくなるかも、って思ったら、義母の言いなりになっていられないって決心したらしい」
「よかったですね」
「うん。で、義父、義母と会って、義父は義母が俺に嫌味を言ったのを謝って、義母にも謝らせたんだけど、でも、わたしは間違ったことは言ってないわよ、と義母が言い出した」
「うわあ」
「娘をちっとも大事にしてないし、子供はできないし。昼間仕事に行っている間中、妻を一人きりにしてるじゃないか、で、その上、夜には飲みに出るだの、外食に行くだの、身勝手だ。そのくせ、自分が帰ってきたときは、夜食や風呂が用意されて当然と思ってる、本当に勝手だ。仕事が終わったらすぐに帰ってくるものだ。妻は一人で心細い思いをしてるんだ、云々」
「えーっと、それって」
「うん。隣りで聞いてた義父の顔色が変わってた。実際、以前は仕事仕事で義父は家を空けがちだったみたいだ。それと、義父の両親は今は高級老人施設にいるけどさ、昔は同居で、かなり嫁いびりがあったらしい。当時は嫁をしつけるという理由で」
「大体、そう言うんですよね。嫁いびりって」
子供に対してそういう場合もあるし。祖父母の家にいたとき、何回そう言われたか。しつけって、高校生のバイト代を取り上げることなのか、小学生の女の子に家事を何もかも押しつけることなのか。
焼き鳥盛り合わせが来た。
「でさ、奥さんが、義母は一人じゃなかった、自分がいたじゃないか、って言ったわけ。そしたら、娘は自分の味方に育てた、もっと味方が欲しかったけど、娘一人しか産めなかった。男の子を、後継ぎを産まなかったって、舅と姑にさんざん嫌味を言われて、耐え忍んだのに、婿が来て、最初は舅も姑も気に入らない様子だったけど、しばらくしたら、いい婿だ、これで我が家は安泰だって言いだした。なんなの、って思ったって。婿が来て、それで済むなら、なんで自分は何十年も責められなきゃならなかったの、って義母が言った」
「あー…」
義母さんも可哀想ではある。でも。
「娘は婿と住むって、うちを出てって、自分の味方は誰もいない。自分は何十年も耐えたんだから、婿も少しは耐えろってさ。何か言われたって、自分が舅や姑に言われたことの、何百分の一にもなりゃしないのに、我慢が足りない、どこがいい婿なんだ、あんたが婿に来て、自分の生活は余計に悪くなった、娘と別れて、娘を自分に返してちょうだい、だって」
ため息つく。
「でも、奥さんが言い返したんだ。干渉するのをやめてほしいって。義母はブチ切れてさ。俺といるせいで、悪い影響をうけた。前はあんなに素直ないい子だったのに。世間知らずで男を見る目がない、自分がちゃんとした婿を探してあげるから、こんな男とは離婚しなさい、だってさ」
「ええ? なんてことを言うんですか」
「それで奥さんが怒った。俺に離婚されたら、義母を一生恨む、実家には帰らない、再婚なんてしない、子供なんて産まない。きっぱり言ってくれたんで、すっきりした」
「よかったですね」
あの天然の、ふんわりした奥さんが。見直した。
「二度と、実家には帰らない、義母とは暮せない、実家を出て、ようやく手足を伸ばせた、あぐらをかけた、自分で服を選んで、ジーンズをはけた、縞模様の靴下をはけた、オムライスを食べられた、猫を飼えた。…って奥さんが色々あげるのを聞いてたら、こっちが泣きそうになったよ。母親は自分を母親なしには生きていけないように育てた、自分は何もできなかった、結婚したとき、家事が何もできなかったのに、夫が支えてくれた。全部俺のおかげなんだって」
「それは泣きそうになりますよ」
ソックスの柄まで干渉されてたのか。
「娘のためを思って、大事に大事にしてきたのに、裏切るのか、なんてことを言うんだって、義母は怒ったけど、奥さんがさらに言い返した。大事になんかしてない、都合のいい人形にしてただけ。自分が子供を産まないのは、母親のせいだ、母親の干渉がある限り、産めない。自分の子供も人形にされてしまう。自分がされたみたいになるなんて、絶対嫌だって。義母が金切り声を上げ始めて、義父が目を真っ赤にしてて、止めた。そりゃ、娘がそんなことになってたなんて、父親なら辛い。まあ、そもそも義父がちゃんと嫁いびりから義母を守らなかったのが悪いんだけど。俺たちに同居させなかったのは、反省したからなんだろうな」
もっと早くに反省して、対策すればよかったのに、とはつぶやく。
「俺は会社をやめて、家を出てくつもりで、奥さんがついてくるっていうから、猫が飼えるアパートを探そうって事前に決めてたんだ。でもそう言ったら、義父が、義母には干渉させないからって約束してくれて、とりあえず今の生活のまま、義母とあっちの実家の電話は着信拒否の設定になった。義母は猫が嫌いだから、うちには滅多に来なかったんだけど、もし来たら、義父に電話してくれって」
覚悟があったから、できた話し合いだったんだなあ。仕事とあの立派な家を捨ててもいいという先輩は思い切りがよすぎる。
「義母が半狂乱になったけど、いいから帰りなさい、と義父が言ってくれて、二人で帰ってきた。以後、オムライスとグラタンを日替わりで、どっちかが飽きるまで食べることになってる」
冗談めかして、深刻さを和らげたかったのか、先輩がにやって笑う。
「嫁いびりされた義母は可哀想な人だが、だからって俺が大人しく婿いびりされてやる理由なんてないしな」
「そりゃそうです」
「でも、お母さんにひどいことを言ったかなあと、奥さんがへこんでた。まあ、長年母親に支配されてきたんだから仕方ないわ。義母のことは義父に任せておくのがいいけど、奥さんも気になるだろうし」
奥さんは反抗期がなかったっぽいもんなあ。俺の親とか祖父母みたいに、わかりやすく憎ませてくれない親族というのは、かえって厄介なんだろうな。
うなずきながら、ビールを飲む。先輩が追加を頼んでくれた。焼き鳥も追加。
「ま、そんなこんなで、うちはなんとかなりそうだ。で、お前はシングルマザーの友達とその後どうよ?」
「友達です。何もないですよ」
そのあとは、猫の話とか、雑談で飲んだ。
「ネギのしょうゆ漬け」
ネギ 一本
かつお節 1、2グラム
醤油 カレースプーン4、5杯
日本酒 カレースプーン 2、3杯
砂糖(お好みで) コーヒースプーン三分の一くらい