きのこ雑炊
『夫がそちらに伺ってませんか?』
先輩の奥さんから、焦った声で電話があった。
「え? 奥さんを迎えに行ったんじゃないんですか?」
『……はい。迎えに来てくれたんですが、そのあとでちょっと』
よく事情は分からないものの、
「うちには来てませんよ。一緒にラーメンを食べて、別れて、それきりです」
『そうですか…。もし、夫から連絡があったら、教えてください。私が電話しても、つながらなくて…。電源を切っているみたいです』
「俺のところより、先輩のご実家とか、ご兄弟のところとかは?」
『そちらにも電話をしたんですが…。伺ってないみたいです
「あのう、どうかしたんですか?」
詮索してはいけないんだろうけど、さすがに訊いた。奥さんがため息ついた。
『…私が悪いんです』
喧嘩したのかな。じゃあ、あんまり事情を訊くのもよくないかな。
「ええと…、じゃあ、先輩に連絡してみます」
『はい、お願いします』
一旦電話を切って、先輩にメールした。「ラーメンごちそうさまでした」って感じで。しばらく待っても返事がなかったが、このくらいは男同士だとあることなんで、迷いながら、「奥さんから電話がありましたよ」と更にメールした。
三十分くらいあとに、先輩から電話があった。
『すまん、奥さんが電話したのか。迷惑かけたな』
「いえ。迷惑ってほどじゃ。どうしたんですか?」
『あー、お義母さんについに我慢ならなくなってな』
「ああ、ついに、ですか」
『今から考えると、あれくらい流せばよかったんだけどな。妻を放っておいて、外食に行くなんて、とかぐちぐち言われて、それを言い訳に奥さんを実家に呼びつけておいて、迎えに来させて、頭を下げろとか言われたんで、もう我慢ならなくなってな』
…義母さん、メチャクチャだな。
「それは、我慢できなくても仕方ないですよ。毎晩出歩いてるとかならともかく、たまにのことで」
『いつもは俺一人のときに嫌味を言うんだけど、義母も注意を怠ったのか、聞かせてもいいと思ったのか、奥さんが近くにいたんだ。で、奥さんに、どう思うか訊いたら、義母をうかがうように見て、黙って答えなかったので、なんか、もういいや、という気になってだな。俺の妻であることより、お義母さんの娘であることを優先するなら、結婚するのは早かったんだな、と言って、そのまんま帰ってきた。あー、猫はどっちが引き取ることになるかな。義母は猫が嫌いだから、俺が引き取れると思うけど』
「いやいや、そんな先走った話じゃないでしょう」
『うーん、どうかな。正直、このまんま離婚もあるかもって思う。今まで義母が悪いんだと思ってたけど、奥さんが義母の嫌味を知っても、言い返さなかったのがこたえたわ』
ああ、それはショックだ。
「ええと、今どこですか? 家に帰りたくないなら、うちに来ますか? 家飲みしながら話をしませんか?」
『いや、やめとく。奥さんがお前んとこに電話したんだから、またかかってくるだろ。で、お前は嘘が下手だし、大体嘘つかせたくないからな』
「え? 別に、言わないでいいなら言わないですが」
『やー、お前は嘘がホント下手だからな。そんで、めっちゃ嘘つきたくないってのが、あからさまだからなー』
「なんですか。そんなことないですよ」
『いやー、お前の嘘はバレバレだぞ。うわっ!!』
電話の向こうで、叫び声と、がしゃん、という激しい音がした。
「どうしたんですか? 先輩?」
叫び声が続いて、そのあと、怒声がした。こら、逃げるな、こいつ、とか。でも先輩の声じゃない。
「先輩? 先輩?」
知らない、知らない、というやや甲高い声。お前がひいたんだろう、見てたぞという怒鳴り声。救急車、警察呼べ、という声も聞こえる。電話越しで状況がよくわからないのと、先輩が心配でたまらなかった。スマホがつながってるぞ、という声のあと、
『もしもし、このスマホの持ち主の友達か?』
知らない声が電話口に出た。
「はい。どうしたんですか? 先輩は無事ですか?」
『高校生のチャリにひかれた。後ろからだったから、ノーガードで転んで、頭を打ってる。意識はあるけど、もうろうとしてるから、救急車を呼んだ。ながらスマホの高校生も捕まえてあるから、警察が来たら引き渡すよ』
「え? ありがとうございます。俺、すぐ行きますから。どこですか?」
『駅前の、正面口の方の、郵便局に行く途中のコンビニの駐車場。どれくらいで来れるの? 救急車のほうが早いんじゃないか?』
それならうちから大してかからない。
「行きます。ええと、十分か、十五分くらいかも」
『そうか。救急車のほうが早かったら、救急車の人にこのスマホを渡しとくよ』
「ありがとうございます。先輩の家族に連絡するために一度切らせてください」
『おお、そうしてくれ』
俺はアパートを飛び出して、大通りでタクシーを拾った。運転手さんに緊急だからと断って、携帯で奥さんに電話する。
「もしもし、さっき先輩と電話がつながったんですが、話してる最中に、自転車にひかれたそうです。頭を打っているので、周囲の人が救急車を呼んでくれました。俺は今その場所に向かってますけど、救急車のほうが先に着くと思いますので、俺が行く頃は先輩は運ばれているかもしれません。スマホを救急隊の人に渡しておいてくれるそうなので、スマホにかけてみて下さい。奥さんは病院に直接向かうほうがいいかもしれません」
『ええっ! 夫は大丈夫なんですか?』
「意識はあるそうです。でも、もうろうとしてるみたいで、それで救急車を呼んでくれたんだと思います」
『ど、どうしよう…。わたしのせいだわ…。わたしが喧嘩なんかしたから…』
「そういうことは関係ないと思います。奥さんから先輩のスマホにかけてみてください。周囲の人か、救急隊の人が出てくれると思います」
駅近くになって、ライトを回したパトカーが、タクシーを追い越していった。
「俺はもう着きますので、一旦電話を切ります」
『は、はい…』
震える声が気の毒だったが、今は奥さんより先輩が心配だった。コンビニに着くや、運転手さんに千円札を渡して、おつりはいいです!と叫んで車を飛び降りた。
コンビニの駐車場にパトカーはあったが、救急車はなかった。人だかりに近づいて、
「ここで人が自転車にひかれたと聞いたんですが、もう病院に運ばれましたか?」
声をかけた。
「お、あんた、さっき電話してた人かな」
中から、俺よりいくらか年上の、いかにも仕事帰りの作業着姿の男性がこっちを向いた。周囲に同じ格好の同僚らしい人が二人いて、警官と話している。
「先輩のスマホで話をしてくださった方ですか?」
「そうそう。先輩はもう救急車が運んでったよ」
「あ、あ、よかった」
急に足の力が抜けた気がしたが、ふらつかないよう踏ん張った。
「スマホを救急車の人に渡しておいたから、かけてみ。どこの病院に運んだか教えてくれるだろうから」
「ありがとうございます。さっき奥さんに知らせたたので、多分、奥さんが電話してると思います」
「そうか。ひいた高校生のほうは、ほら、あっち」
と、パトカーを指さす。後部座席に警官と一緒に座って、うなだれている制服姿の少年が見えた。
「ひかれた方のお知合いですか?」
警官が俺のところへやってきた。
「はい」
先輩の身元を訊かれて、話している間に、作業着の人が帰ろうとしたので、慌てて電話番号の交換をお願いした。あとで絶対お礼に行かなきゃ。
警官との話を終えて、先輩の搬送先を訊こうと電話したら、病院の人が出て、場所を教えてくれた。奥さんも向かっているところらしい。じゃあ、病院に行こうと駐車場を出ようとしたら、さっき乗ってきたタクシーの運転手さんが立っていて、
「はい、おつりです。電話の内容が聞こえたので、気になってしまって。今度は病院まで行きますか? よければ乗ってください」
小銭を渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
大変なことになったけど、親切な人がいっぱいいる。
病院に着いて、受付の人に訊いたら、先輩は念のために入院することになっていた。頭を打っていて、吐いて、そのままでは心配なので、開いているベッドにとりあえず寝かせて、一晩様子をみるらしい。
先輩のところに行くと、すでに奥さんが来ていて、ベッドわきに座っていた。
「あ、ありがとうございます。連絡してくださって」
俺を見て、立ち上がり、おじぎした。青白い顔で、涙が浮かんでいる。いつものファストファッションじゃなくて、ブラウスと膝丈のスカート姿だった。髪が後頭部でお団子みたいになってて、つやのあるリボンの髪飾りがついている。ザ・若奥様という感じ。なんでこんな服装なのかと考えたが、もしかして、実家に行くときはこういう服装じゃないとダメなのか? と思いついた。
「いえ、たまたま電話してたところで、親切な方が状況を教えて下さったので。先輩の具合はどうですか?」
「今は寝てしまって…。多分、大丈夫だろうとお医者さんが言っているのですが、朝一番に検査をしてもらうことにしました」
「それならよかった…」
無言のまま、奥さんを椅子に促し、俺はベッドの脇に座る。
しばらくして起きた先輩は、吐いたチャーシュー麺のことを何度も残念がった。
「ちくしょー、せっかくの旨いチャーシュー麺がー」
同じことを繰り返すので、頭を打った影響なんだろうなと思った。
「また食べに行きましょう」
「ああ。そうだな。チャーシュー麺が、チャーシュー麺が…」
同じやり取りを何度か繰り返した。
先輩のご両親に連絡しようとしたら、
「そんな大げさなもんじゃないだろう」
と、先輩が言うので、奥さんが着替えを取りに行っている間、俺が先輩についていた。吐いたせいで、服が汚れて、検査着みたいなやつを着てたから。奥さんが帰ってくると、
「明日も仕事でしょう。あ、もう今日ですね…。本当にお世話になりました」
と、言われて、寝に帰った。
何時間か、仮眠みたいな感じだったけど、寝て、目が覚めたら、胃の調子がおかしかった。そりゃ、色々あったし、仕方ないか。携帯を見たら、「落ち着いてますが、それでも念のため、検査はしてもらうことにしました」と先輩の奥さんからメールが来てたので、ほっとした。
食欲はないけど、何も食べずに仕事に行くわけにはいかないから、冷凍してあったごはんと、きのこミックスで雑炊を作った。
一膳分のごはんと、きのこミックスをカレースプーン二杯分くらい、水マグカップ二分の一くらいを鍋に入れ、煮る。解凍されて、二、三分煮てから、卵一個を落として混ぜ、しょうゆコーヒースプーン三分の一くらい入れておしまい。きのこミックスにえのきやしいたけが含まれていると、出汁いらずなので、ラク。甘いのが好きな人はめんつゆで味をつけてもいいし、しょうゆを減らして、その分おかかふりかけで旨みを足してもいい。
ストレスで、今いちな胃にきのこ雑炊を流し込んで、仕事に行った。
「きのこ雑炊」
ごはん 一膳分
きのこミックス コーヒースプーン二杯分くらい
卵 一個
しょうゆ コーヒースプーン三分の一くらい
水 マグカップ二分の一くらい