大根とイカくんの煮物
平日休みで、昼食後に、夜に食べる分の大根の煮物を作った。大根は煮えるのにも味が染みるのにも時間がかかるから昼のうちに煮ておけば、夜には美味しくなる。
一本の上半分を無限大根にしたあとの、しっぽ側の半分を、四、五センチの輪切りにしてから、繊維に沿って縦に七、八ミリ厚さ、幅は大根の三分の一くらいに切る。鍋に水コップ半分くらい、塩昆布五、六本くらい、日本酒をカレースプーン二杯分くらい入れて、中火にする。キッチンペーパーにところどころ穴をあけて、落し蓋の代わりにのせる。煮汁が沸騰したら、弱火にして、二十分ほど煮る。大根に火が通ったら、イカくん30gくらいをキッチンばさみで半分の長さに切って、加え、しょうゆをカレースプーン二分の一杯ほど入れて、火を止める。塩昆布とイカくんに塩気があるので、しょうゆは控えめだ。そのまま夜まで放置。できれば鍋をバスタオルでくるんで、新聞でくるんで、段ボール箱に入れて、保温しながら一時間ほど放置すると、味がよくしみる。
イカくんを使うのはイカ大根の超ズボラバージョンだ。冷凍イカを使うズボラバージョンでもいいが、イカくんと塩昆布を使うと、出汁がいらない。ただもう、大根を切って、煮るだけ。多分、家族持ちがこんなものを食卓に出したら文句を言われるが、作るのも食べるのも俺なので、許される。
料理のあと、サイクリングがてら、いつもの生活圏からちょっとはずれたショッピングセンターに行った。こじんまりしたショッピングセンターで、一階はスーパー、クリーニング店など、二階は大きな100円ショップが入ってる。
100円ショップで、耳かき用の綿棒とか、オーブンシートとか、細々したものをかごに入れて、レジに並んだら、読書友達が使い捨てマスクの支払いをしているところだった。
「こんにちは。風邪でもひきましたか?」
「あ! こんなところで会うんですね。こんにちは。これは、息子が熱を出して」
「え? 大変ですね」
確かに子供用のマスクで、それだけだったので、シールを貼ってもらって、彼女はかばんに入れた。
「はい。でも、もう下がったんです。一応、マスクはさせておこうと思って、息子が寝てる間に買いにきました」
「お子さんがいらっしゃると忙しいですね。先輩の代理で、お礼にコーヒーか食事をおごっておいてくれって言われたんですが、なかなかそうはいきませんね」
「あ、子猫の飼い主探しのことですか? いえ、本当に大したことはしてませんから、お気遣いなく」
「先輩は義理堅い人なんです。あと、子猫の飼い主探しは大変なので、本当に感謝してるんですよ」
「そうなんですか? そんなことを気にしなくていいのに」
「いや、私があなたにおごった分を、先輩が私におごることになっているので」
彼女がはじけるように笑った。俺の支払いが終わって、エスカレーターを並んで降りながら、
「子供がいると、外食にはなかなか行けないんです。うーんと、あー、うちで何か飲みますか。すぐそこですから」
「え? 息子さんは大丈夫ですか?」
「もう熱は下がって、寝てますから」
「ええと、じゃあ、スーパーでコーヒーとお茶菓子でも買いましょうか?」
家に行ってもいいのかな? 迷いつつ、提案してみた。
「息子はまだ二歳で、大人用のお菓子は味が濃いので、食べさせてないんです。私が食べていると欲しがるので、私も食べないんです」
「お母さんて大変なんですねえ。あー、何か飲み物を買ってきます」
ショッピングセンターの出入り口で待ってもらって、大急ぎで買い物をした。ドリップオンタイプのコーヒーと何種類か味の違うティーバッグ、あと、果物なら大丈夫かと思って、バナナとりんごを。バナナやりんごは嫌いな人があまりいないと思って。
彼女のアパートはホントにすぐ近くて、これなら子供が寝てる間に買い物に出るのもわかるような距離だった。築三、四十年の古い木造で、女の人なのに一階に住んでいるのは、子供が階段を上り下りしなくていいからだろうか。金属製の外階段で、子供には危ないのかもしれない。
でも、ふと思ったが、ここから彼女のパート先の大型ドラッグストアは結構遠い。もっと近くにドラッグストアが数件ある。雨の日なんかは通勤が大変だろうに、時給が違うのかな。それとも保育所が通勤途中にあるのかもしれない。
「狭いところですが、どうぞ」
息子さんを起こさないよう、小さな声で招き入れてくれる。
玄関を開けるとすぐ板間の小さな台所で、その奥の和室に通された。こたつテーブルと、カラーボックスに載った小さなテレビがあるくらい、家具が少ないおかげで、六畳間でもあまり狭くは感じない。もう一部屋あるようだが、ふすまが閉まっていて、そこに息子さんが寝てるんだろうと思った。
以前、妹と二人で住んでいたアパートがこんな感じだったから、なんだか懐かしい気持ちになった。
「これ、どうぞ」
スーパーの袋をそのまま渡すと、
「え? 全部うちに買ってくださったんですか?」
中を見てびっくりしている。
「…バナナとりんごも?」
「果物だったら、お子さんでも食べられますか?」
「…はい。ありがとうございます」
彼女がやかんに水を入れ、火にかけた。ガスコンロだ。ああいうのも、なんか懐かしい。台所との境は、模様入りのすりガラスが入った戸だ。
「前に住んでたアパートに似てます」
「え? そうですか? 古いでしょう。でも、こういうところは、小さな子供と一緒でも断られないので」
抑えた声で会話する。
「あ、そうか。お子さんが小さいと、断られることがあるんですね」
「新しいアパートだと、シングルが多いから、子供の声や足音は嫌われるんです。ファミリー用のアパートは大きすぎますし」
一階なのは足音を気にしてるのもあるのかな。
「今日はお休みだったんですか?」
「いいえ。息子が熱を出したので、保育所から迎えに来るよう言われて、早退しました。でも家に連れ帰って、少し寝たら、すぐに熱が下がったんです。ちょっと熱が出ただけで、迎えに来るよう言われるんですが、こういうことが多いので、保育所で様子を見てくれるといいんですが」
「小さい子って大変ですね」
マグカップ二つにドリップオンコーヒーをのせ、お湯を注ぐと、いい香りが部屋に広がった。彼女が嬉しそうな顔になった。近くで見ると、こめかみに白髪が何本かあるのに気づいた。
「レギュラーコーヒーは久しぶりです。妊娠してから、カフェに行くこともなくて」
「私も普段は缶コーヒーかインスタントですが、奮発しました」
「あとで先輩におごってもらってくださいね」
「男同士だと、多分、ラーメンです」
香りを逃したくないかのように、マグカップを両手で抱えて、顔をくっつけるようにして、微笑みながらコーヒーを飲んでいる彼女を見て、よかったと思った。しつこく、お礼、お礼と言った上、図々しくアパートに上がり込んで、実はちょっと気が引けていたんだ。先輩から言われたお礼じゃなければ、多分とっくに引き下がっていたから。
「…ママー」
ふすまが開いて、小さな男の子が顔を出した。俺に気づいて、目がまんまるになり、固まった。
二歳と聞いたが、子供が身近にいないせいで、俺には年相応なのかわからない。頭が大きいせいで、体がすごく細く見える。パジャマのサイズが合ってなくて、袖が折り返してあるから余計にそう見えるのかもしれない。彼女とはあまり似てないから、父親似なのかな。とりあえずあいさつしてみた。
「こんにちは」
「……」
固まったままだ。
「こんにちは、でしょう」
彼女が促すが、男の子は俺をじーっと見つめたままだ。
「ええと…」
「パパ? パパ?」
「えっ?」
「違うわよ。パパじゃないわ。ごめんなさい、この子、父親の記憶がなくて、それらしい年齢の男の人には誰でも、パパって言ってしまって」
彼女が息子に近づき、おでこを触って熱を確かめた。
「お熱もう下がったわね。ちゃんと、こんにちはを言って」
「イヤ!」
困り顔で、彼女が俺に謝った。
「二歳って、なんにでもイヤって言う時期で…。失礼ですみません」
「いいえ」
そういうものなのか。子育てって大変だなあ。
「喉乾いた? 牛乳飲む?」
「イヤ!」
小さな手で、マグカップをさす。
「それなーに? ちょーだい」
「これはコーヒー。苦いからやめておきなさい」
「ちょーだい! ちょーだい!」
「ほんとに苦いのよ」
「ちょーだい! ちょーだい!」
足踏みしながら強請るので、ため息ついて、彼女がスプーンで少しだけコーヒーをすくい、飲ませた。
「…にがーい! これ、キライ! イヤ!」
「苦いって言ったでしょ。牛乳になさい」
「イヤ!」
足踏みアゲイン。
……子育てって、戦いだ。そして、一階に住むのは正しい。子供の体重でも、足踏みをすればそれなりに下に響く。
「じゃ、お水」
「イヤ!」
バナナをあげれば、と思ったが、よその家のしつけに口を出すのはよくないので、黙っていた。二歳児がこんなに頑固に、イヤ、イヤ、と言い続けるのだと初めて知った。
「牛乳かお水か、お母さんのコーヒーしかありません」
「イヤ!」
彼女はため息ついて、リモコンでテレビをつけた。男の子の視線が画面に向かって、静かになった。立ったまんま画面を凝視する。
「イヤって言わないのはテレビだけなんです」
顔をしかめて彼女が言う。
何かのドラマの再放送をやっているみたいで、あれが二歳児に面白いのかはわからないが、とりあえず黙って見ている。
「パートに行っている方がずっとラクです」
実感がこもった声に、ついうなずいてしまった。なんか、クレーマー処理を思い出してしまって。仕事なら勤務時間が終わればそれまでだけど、母親は毎日毎日この、イヤ! 攻撃にさらされているんだから、本当に大変だ。笑える本リストが欲しくなるのも無理はない。
「幼児相手に理詰めは通用しないのはわかっているんですが、理屈が通じないのがこんなにつらいとは思ってませんでした」
ミステリー小説の構成にこだわる彼女だから、余計にそうだろうな。
「このくらいの年齢の子って、みんな、イヤって言うんですか?」
「そうみたいです。もちろん程度の差はあるそうですが」
画面を凝視していた男の子が、なぜか俺の隣りに座り込み、袖をつかんだ。俺のことは見てなくて、あくまで見ているのはテレビなんだが。
「…?」
「あ、ダメよ、よその人にそんなことをして」
男の子はテレビを見ているせいか、声に出してイヤとは言わなかったが、首を振る。
「いいですよ。別に、袖を持つくらい」
祖父母宅で暮らし始めたころ、小さな妹がよく俺の服をつかんでいたのを思い出した。なんだかここは、たくさんの昔を思い出す場所だなあと思った。
「でも…」
「本当にかまいませんよ」
「すみません」
「いいえ」
男の子は静かに座っていたし、袖を持たれていない方の手でコーヒーを飲んだ。カラーボックスの横に置いてあるキルトのバッグを見やり、
「今はどんな本を読んでいるんですか?」
彼女に訊いた。
大人は大人で会話をしているうちに、男の子が腕に寄りかかる感触があった。
「…寝ちゃいました」
熱を出してたんだから、疲れたのかな。
「あ」
彼女が慌てて立ち上がり、そっと抱き上げて隣の部屋に運んだ。
彼女が戻ってくるのを待って、俺も立ち上がり、
「長居してしまいました。わたしはこれで」
声をひそめた。
「うちの子が本当にすみませんでした」
「いいえ。いきなりお邪魔したのはこちらですから」
音をたてないように、玄関を出ようとすると、
「コーヒーと果物をありがとうございました」
彼女がお辞儀をしたので、こちらも返した。
「失礼します」
「今日はたくさん笑いました。どうもありがとうございました」
彼女が微笑んだ。その顔は、普段よりずっと若く、俺より年下に見えた。
「大根とイカくんの煮物」
大根(しっぽ側) 半分
水 コップ半分くらい
塩昆布 五、六本くらい
日本酒 カレースプーン二杯分くらい
イカくん 30gくらい
しょうゆ カレースプーン二分の一杯くらい