惨劇
振り返ったフィオナの眼前に、焦燥に燃える瞳があった。
血走った双眸に、南方の帝国との国境線を死守してきたかつての「猛将ダレル・ローガン」の面影を見る。髭に埋もれた唇の端が鋭く言葉を紡ぐ。
「それだけはなりませぬ、姫様」
「手を離せ、ダレル。このままでは皆殺しになるぞ」
「王族の命と引き換えならば、それもやむなしかと。姫様だけは何としてでも落ち延びてもらわねばなりませぬ」
「たわけ。逃げきれる状況と思うのか。隊員達を犬死にさせる気はない」
鈍い音を立ててさらにいくつかの頭部が飛来した。勢い余った一つが黒土に塗れながら転び出て、二人の前で静止する。
開いたままの目蓋。不自然な虚脱と弛緩に支配されたその相貌の若さに、フィオナは見覚えがあった。数ヶ月前に配属されたばかりの新兵だ。フィオナの元で国境警備隊の任に着ける栄誉を田舎の両親に手紙で知らせたと語る、青年のはにかんだ笑顔が浮かぶ。
「しかし、姫様……」
「くどいぞ、ダレル。聞け、そこの狗使い! いまそちらへ行く! この無益な殺戮を即刻やめさせよ!」
途端、周囲で蠢いていた気配が沈黙に転じる。
「ご同行願える、ということでよろしいですね?」
視線を僅かに横に振ると、幼少期から見上げてきた髭面が苦渋に歪んでいた。頬骨は脂汗に濡れ、砕けんばかりに食いしばった顎が震えている。
「ダレル、生きろ」
刀傷で半分損なわれた彼の耳殻に別れを囁き、隠密狗に視線を据える。状況を本能的に察しているのか、六足獣は身を低く沈めたまま篝火を双眸に宿して、フィオナの挙措を窺っている。
振り向かない決意が、フィオナの脚に毅然とした活力をもたらした。
着任から一年に満たないとは言え、にわかに勢力を増しつつある南方の帝国の脅威を肌身で感じてきた。そして、国境警備隊の任務において人が命を落とす場面に立ち会うことも二度や三度ではなかった。同胞の血に煙った空気で肺を深く満たし、細くゆっくりと吐きながら最初の一足を進める。
教育係としてのダレルから繰り返し聞かされてきた「王族たる者、常に毅然と振る舞わねばなりませぬ」という言葉が浮かぶ。
出生による役割。国家の君主に連なる者。
理屈ではわかる。だが。
ずっと疑問だった。
数多の命を捧げられる程の価値が自分に本当にあるのだろうか……
時間稼ぎの為にゆったりと歩を進めたつもりだったが、隠密狗までの間にはもう十数歩しか残されていない。その背から静かに降り立った黒衣の人物がフィオナに向かって慇懃に頭を垂れると、背後の闇に控えた者達もそれに倣って礼を執る気配があった。
やはり、ただの野党集団ではない。ムーア公国が擁する正規の隠密部隊という見立てに間違いはないだろう。
「ご無礼お許しを」
隊員達を殺めた事は無礼に当たらないかの如く、黒衣の人物はフィオナだけにそう告げると彼女の躯に手を伸ばす。慣れた所作で要所を探って腰に提げた短刀を奪い去ると、無言でフィオナの両腕を拘束した。それで納得したのか深く頷くと、隠密狗の背に彼女を誘導する。
初めて触れる獣の肌は強い長毛に覆われ、その直下で幾筋もの筋繊維が太くしなやかに躍動するのが感じられた。すぐ後ろに跨がった黒衣の人物がフィオナ越しに手綱を執ると、六脚の獣は無音のままに踵を返して暗闇の奥へと二人を誘う。
ほとんど揺れもないまま周囲が背後に流れ始める。その気配に気を取られたフィオナは気付かなかった。黒衣の人物が去り際、配下に向けて示した手符牒に……
――――――
フィオナを乗せた隠密狗の後姿が闇に飲まれていく。ダレルはそれを睨んだまま、苦々しく口を開く。
「この様な暴挙、許されると思うか」
後に残った副官らしき人物に言葉を投げつけるが、応じたのはやはり沈黙だけだった。
「兵を引け。先刻の言葉どおり……」
ダレルの言葉を遮って、それは飛来した。
頸部を切断された肉塊が、眼前の隊員達の骸にいま一つ加わる。反射的に身を翻したダレルの上腕を、暗闇から放たれた矢尻が抉った。鮮烈な鈍痛から「目撃者は残さない」という敵軍の明確な意志が伝わってくる。
事此処に至れば抗議の言葉など最早無為と判断した。背後に飛来するさらなる肉塊と矢の気配を振り切って、一散に駆ける。自分でも情けない程に呼吸が動揺に乱れている。
「我ながら耄碌したものだな……」
戦場を棲み家としたかつての自分が、胸中で自嘲する。もはや、ここまでか。こんな場所が自分の死地か。猛将と囃し立てられ、驕った挙げ句に地位を追われた。気が付けば、ようやく物心着いたばかりの小娘の子守役に押し込められ、忸怩たる思いで職責をこなす日々……
だが、その小娘が紛れも無い貴石であると気付くのに左程の時は必要なかった。そうだ、姫様。惚けている場合ではない。拘束されたフィオナ王女を追わねば。
天幕に飛び込み、愛用の戦斧を探す。幸いにも得物の置き場所を失念する程には、まだ耄碌していないらしい。灯りの届かない暗闇を探って戦斧の柄を掴んだダレルは、しかし何かに躓いて倒れ込んだ。矢に穿たれた上腕を地面にしたたかに打ち付け、思わず呻き声が漏れる。
天幕を囲んでいた篝火は一基を残して、火を落としていた。敵の隠密部隊が今夜の襲撃を用意周到に計画したことが窺える。仄かにしか届かない灯りの中、自分が躓いたのが人の躯であることを辛うじて見て取った。その身を包む装備の感触から、自軍の兵士だと判断する。生死の程は知れない。思考がそこに至って、背筋に冷たい物が走る。
あの男は……どこにいる?
反射的に視線を巡らそうとした刹那、こめかみに何者かの手が添えられて頭蓋が衝撃に包まれる。激しい焦りとは裏腹に、頬に触れる敷物の柔らかな感触にダレルの意識は吸い込まれていった。




