隠密狗
天幕から外へ出る。月の細い夜だった。
国境警備隊員達が杯を交わすさっきまでのさざめきは、いつの間にか静まっている。簡易天幕の合間に設置された篝火だけが静かに揺れていた。
やがて暗闇に眼が慣れるに従って、其処彼処に横たわる幾つもの人影にフィオナは気付く。耳を澄ますと、思い思いの場所で車座になっていた隊員達が身を横たえて呻いているのが微かに聞こえた。
「これは一体……」
息を飲んで立ち尽くす二人。先刻の報告をもたらした兵士が歩み寄り、彼らの耳元に囁く。
「皆、身体の自由が利かない状態です。振る舞われた酒が毒されていたのではないかと」
「馬鹿な。それはつい先日購ったこの地方特産の蒸留酒だぞ。憶測で迂闊な事を言うな」
「ローガン参謀、しかし……」
小声で部下を叱責するダレルの太い腕に、細い指先が触れた。振り向いたダレルの視界に緊張で色を失ったフィオナの横顔が映る。彼女の強ばった眼差しは野営の外側、緩やかに広がる丘陵の暗闇を捉えて動かない。
いや、黒く凝ったその暗闇は、いまやただの暗闇ではなかった。
気配がある。一つや二つではない。視界が映す限りに、低く身を屈めた人の壁があるらしい。確認のしようがないが、先刻の兵士が報告した通りに包囲されている可能性がある。それも一定の統率下にある集団、恐らくは軍組織だろう。
しかし、一体どこの国の……
フィオナの問いに応じるかの様に、暗闇の一部が動いた。二つの灯りが上下に揺れて煌めきながら近付いてくる。篝火が照らす外縁までにじり寄ってきたそれらが一対の瞳だと気付くのに、さほど時間は掛からなかった。
軍用馬に匹敵する体躯に墨黒の剛毛を纏い、その後方では一対の尾が長くしなやかに揺れている。六脚を駆使して無音のままに疾走する中型獣。
「隠密狗……!」
稀少種ながらも野生の個体がアルタイル王国領土にも生息していて、フィオナもこれまで野駆けの際に数頭の群に遭遇したことがある。だが、警戒心と攻撃性が非常に強い性質で、生来飼い慣らせる生物ではない。まして軍用に訓練して使役するなど、極限られた者だけが知り得る技術。
門外不出の秘技を脈々と継承し中隊規模の組織として整備している勢力となると、フィオナにもダレルにも心当たりは一つしかない。
「その方、ムーア公国の者か」
ムーア公国はアルタイル王国の東に国境を接する小国。その縁起を辿ればアルタイル王家との関わりも深く、ここ二百年程は平和条約に基づく友好関係を維持してきている。だが、かつて周辺国間で紛争が絶えなかった時代において「隠密狗」の機動力を活かした隠密部隊の存在は、他国にとって紛れも無い脅威であった。その訓練技術はいまだに国家機密として厳しい管理下に置かれている。
いま、その隠密狗の背でゆらりと身を起こし、二人を凝視する人影があった。目深に黒衣を被った姿からは表情どころか性別さえも窺えなかったが、その沈黙はダレルの問いを雄弁に肯定している。
得られない返答に焦れたダレルが再び口を開こうとした時、低く抑制された声が告げた。
「アルタイル国王女、フィオナ・ガーウェン殿とお見受けする。我らにご同行願いたい」
言葉選びこそ慇懃ではあったが、その響きには有無を言わさぬ厳しさが滲む。だが、それに応じるフィオナにも躊躇はなかった。
「断る、と言ったら何とするのだ」
拒絶は想定済みだったのだろう。フィオナ達の右方、天幕をいくつか隔てた付近で僅かに人が動く気配があった。何かが鈍く切り裂かれ、柔らかな液体が草葉に滴る。微かな音なのに、鼓膜がじとりと濡れる感覚があった。
数秒後、放物線を描いて何かが暗闇から飛来する。見た目にそぐわぬ質量を伴って地面に弾みながら、篝火が照らす視界に転がり込んだそれが何であるのか。認識するよりも先に、断面の黒く濁った鮮赤色にフィオナの肌が総毛立つ。
灯明が照らす頭髪は黒土と血液に濡れていたが、胴体に繋がっていた頃と遜色ない肌艶が使用された得物の鋭利さを物語る。さらに同様の物体の飛来が四つ、五つと続いた。
「貴様!」
「フィオナ王女が首を縦に振ってくださるまで、王墓の土が血で汚れ続ける。どうかお早めのご英断を」
「軍人とはいえ無抵抗の者だぞ! ムーア公はご乱心か!」
「王女一人がご同道くだされば、これ以上の血は流れないと約束しましょう」
色を失って硬直したフィオナは、食いしばった奥歯が鈍く軋るに任せる。
得体の知れぬ痙攣から動こうとしない両脚。軍服の太腿部分を掴んでそれを強引に前方へ引き擦ろうとした瞬間、厚く大きな掌が彼女の二の腕を掴んだ。