野営
緩やかな起伏の丘陵地帯に、宵闇の薄布が優しく落ちていく。
野営準備を終えた国境警備隊の頭上には、銀粉を散りばめた茫洋たる夜空。兵士達は思い思いの場所に車座になって腰を下ろし、簡素な夕飯を摂っている。今宵、彼らが手にしているのは食事班から配られた干し肉入りスープと「ソーダブレッド」だった。
「ソーダブレッド」とは全粒粉、食塩、バターミルクを主材料として重曹で膨らませたパン類の一種。軽く柔らかい食感が特徴で、アルタイル王国に生まれた者にとっては幼少時から親しんだ家庭の味であり、常温でも数日の保存が可能なことから行軍携行食としても重宝されている。
建国王の霊廟を囲む様にして設営された、いくつかの簡易天幕。国境の要衝である砦や山城を巡回する彼らにとってこうした野営は日常であり、夕飯を早々に胃に納めると当地名産の蒸留酒に舌鼓を打ち始めた。ささやかな宴のさざめきが其処彼処で聞こえる中、隊長であるフィオナの姿はその中央付近の天幕にあった。
四方を囲む篝火が天幕布に映って緩やかに踊る、微風の夜だった。木製の椅子に座した彼女の眼前には、先刻の正体不明の剣士。抵抗する意志は示さなかったが、参謀であるダレルの指示で後ろ手に束縛して地面に引き据えられている。
男は見慣れぬ風貌をしている。身に纏う衣服こそこの地方の民が日常身に着ける簡素な貫頭衣に二股に分かれた下衣であったが、肌は浅黒く、無造作に伸びた髪は鴉羽の直毛。瞳は見る角度によって薄茶から翡翠へとその色を変じる。
近隣に住まうどの民族とも異なるが、それら全ての特徴を備えている様で掴み所がない。二名の兵士によって両肩を抑えられているというのに緊張した様子もなく、静かな眼差しを巡らせてフィオナ達の容姿、服装、テント内の調度品をなぞる剣士。肝が据わっているのか、ただ単に危機感に疎い質なのか。
フィオナの脇に控えたダレルが沈黙を破る。
「さて…… 貴様は何者だ。王墓で何をしていた」
篝火がはぜる音だけが、天幕にちりちりと響く。
「畏れ多くも、王族の御前で無礼は許さぬ。答えよ。それとも、私の言葉が理解出来ないのか」
ダレルの声に微かな苛立ちが滲む。薄く開かれた剣士の唇から、溜息が細く漏れた。
「お前達の言語は理解出来る。だが、無礼はお主の方であろう、老兵。他者を誰何するならば、先に名乗るが騎士の礼儀ではないのか」
意外な流暢さで紡がれた言葉にダレルの唇が歪み、剣士の肩を抑えている二人の兵士が色めき立つ。
「よせ、ダレル。この者は罪人ではない」
「しかし、姫様。王墓が破壊されたことと無関係とも思えませぬ」
「何か事情がありそうだな、異国の剣士よ」
跪いた剣士に向かって、声を掛けるフィオナ。その響きには女性としてはやや低いが、聴く者の意識を惹かずにはいられない澄んだ艶があった。
「我が名はフィオナ・ガーウェン。建国王ガーウェンに連なる者にして、アルタイル国王女である。その方、何処の者か」
「フィオナ…… ガーウェン……」
その言葉に剣士の視線がゆるゆると上がり、二人の眼差しが交錯する。瞳孔の奥に怜悧な圧を感じて、フィオナの眉根が微かに寄せられた。彼女の引き締まった相貌と、その背後に垂れる猛禽を意匠としたアルタイル王国旗を視界に捉えた剣士は、落ち着いた声で一息に応じる。
「我が名はギケイ。何処から来たのか、もはや自分でも思い返せぬ」
来歴を語ろうとしない男を前に、ダレルが唇を大きく歪めた。一歩前に出ようとした彼に向かって、片腕を掲げて制するフィオナ。
「その方、見慣れぬ得物を手にしていたな。ここに持て」
脇に控えた兵士の一人がフィオナの前に膝を付き、先刻の剣を差し出す。視線を剣士に据えたまま、左手に鞘、右手に柄巻を握るフィオナ。刀身を露わにしようと力を込めた彼女が、不審げに眉を顰める。
「……姫様?」
「抜けない」
「そんなはずは……」
「無駄だ。俺以外の求めに、そいつは応えない」
「なぜだ」
「知らぬ」
「選定の神刀。貴様、やはり……」
「ほぉ、心当たりがあるか、老兵。伊達に長生きはしていないらしいな」
二人のやり取りについていけず、ダレルに視線で問うフィオナ。しかし、彼は剣士を油断なく睨みつけたまま、唇を固く引き結んでいる。
「一体、何の話をしている?」
フィオナの口元から飾らない疑問が漏れた刹那、天幕に一人の兵士が駆け込んできた。無礼を咎める参謀ダレルの言葉に慌てて膝を突いた彼が、口早に叫ぶ。
「敵襲です! 我が隊は素性不明の敵軍により包囲されている模様」
「……落ち着け。何を言っている? 此処は我が国の始祖が眠る王墓。国境からは裕に数日の距離にある。こんな場所で敵軍と遭遇するわけがなかろう」
「しかし、参謀殿、哨戒兵が気付いた時には既に遅く……」
言葉を継げずにいる兵士を中心に視線が飛び交う。暫時、天幕内の空間に沈黙が降りた。
「外に出てみよう、ダレル。そうすれば、嫌でもわかろうというもの」
「姫様、私が先に」
「さっきもその呼び方はよせと言ったはずだ、ダレル」
フィオナに向かって黙礼で詫びつつ、出入口に降りた厚布の合間から外の様子を窺うダレル。その背に視界を遮られたフィオナはいま一度、天幕の内部を振り返る。異国の剣士は敵襲の報告など耳に入らなかったかの様に静かに拘束されたまま、床下に敷かれた織物の紋様に視線を落としている。
「奇妙な男だ……」
誰に告げるでもなく呟くと、ダレルに続いて彼女も白銀の夜空の下へ踏み出した。