一つ目梟
アルタイル王国の東端、ムーア公国との国境に聳える峻厳な群峰。
南北に連なるその稜線を横切る幾筋かの峠は軍事上の要衝であり、それぞれに監視、防衛を担う城塞が配されている。それらの中で最も長い歴史を有するのが、ヴィーゴ砦だった。渓谷を見下ろす崖上に築かれた、控えめな規模ながらも堅牢な山砦で、国境警備の要所としてその役割を果たしてきた。
ただ、近年はムーア公国との関係が安定していたこともあって、国境警備隊の隊長であるフィオナですら、地図上でその存在を把握する以上の馴染みはない。非戦闘員も含めて常駐人員はせいぜい五十名といったところ。だが、現地を知るダレルは「城塞としての防衛戦を長らく経験していない上に、建国式典に向けて人員を半減させた状態を狙われたとすると、長期間の籠城戦には耐えないのでは」との見方を示している。
いま、フィオナはそのヴィーゴ砦を見上げる麓の森に身を潜めている。付き従うのは参謀ダレル、異国の剣士ギケイの他に国境警備隊員が数名。その内の一人は斥候としてヴィーゴ砦に差し向けた。王宮の内苑でギケイと一戦交えた不審な老婆の姿がいつの間にか見えないが、いまは彼の采配下で一時的に離れているらしい。
ここまでの道中においても、老婆は幾度か姿を消している。彼らは碌に言葉を交わしている様子もないのに、まるで以前から互いを見知っていて何らかの共通認識の下に動いている様に見受けられる。不審な二人への警戒と、これまでフィオナが縛られてきた行動原理の埒外で自由に振る舞う彼らへの興味がフィオナの胸中でせめぎ合っていた。
樹間から仰ぎ見る崖上には、薄月を湛えた夜空に目標の山砦だけが仄かな光源となって浮かんでいる。絶壁の頂に築かれ、王国史を陰で支えてきた山砦。先人が急峻な崖道に屈せず資材を運び上げ、幾世代にも渡って維持してきたその砦は、偏に民草の平穏を祈念する想いの具現と映った。
フィオナの視線の先、篝火を受けて壁面を琥珀に染めるその静謐な佇まいからは、何ら異変が感じ取れない。ヴィーゴ砦の調査という目下の任務を一時忘れ、その美しさを愛でることをフィオナは自身に許した。それと共に、自身がある種の高揚状態にあることを認める。
国政の中枢で息苦しさに喘ぐ日々。ある日、不意に言い渡された国境警備隊の長という閑職をこなす内に、彼女はこれまで認識していなかった自身の内面を見つめることになった。
王宮を一歩出ると、そこには人々の暮らしがある。これまでは自室のバルコニーから遠くに望むだけだった市井の街並。その唯中に身を置くだけでも心躍るというのに、そのさらに向こうへ、王都から目の届かない地平の果てまで彼女は行ける身分となったのだ。
それまでも、他都市の祭事式典に王族として臨席する為に領土内を移動したことはあった。だが、近衛兵が警備を固める馬車の中からそっと覗き見る景色の味気なさと、自ら駆る愛馬の上で味わう空気の冷たさ、風の香りは比較にならない。
国境付近の城塞や都市、時には小さな農村まで駆け回るその姿を「王族としての自覚を欠く」「兄であるラーズ王子に唯々諾々と従っている」と非難し、離れていく者もいないではなかった。
だが、実際のところはそうではない。
フィオナは、ただ楽しかったのだ。
そんな胸中を感じ取ったのか、彼女の就任当初こそ距離感を計りかねて遠巻きにしていた隊員達とも徐々に打ち解けることができた。また、国土の隅々に知己を有する参謀ダレルと共に各地を巡ることは、民草の実生活への見識を否応無く深めると同時に、地方領主達が中央に何を望んでいるのかを理解する一助ともなった。希に王都へ帰還した折には、フィオナの地に足の着いた助言を求めて謁見を請う文官が後を絶たない。
あるいはこんな日々ならば、いつまでも続いて良いのではないか。彼女がそう思い始めた矢先の惨事だったのだ、国境警備隊がムーア公国軍の夜襲に晒された夜は。
その符丁を偶然と断ずるには、彼女の双眸は既に物事の道理を見過ぎていた。だが……
ふと、程近い枝葉が微細な煌めきに揺れる。
樹間の闇に、一握りの宝玉が青白く散って見えた。しばらく見つめていると、こちらを窺う小型の猛禽の群れが浮かび上がってくる。大粒の単眼を頻りに瞬かせてこちらを凝視するそれらに、フィオナは野生の無垢な好奇心を感じ取った。
「珍しいな。一つ目梟か」
何処から響いたとも知れぬ微かな呟きと共に、長身痩躯の男がフィオナの側に立つ。
「お前の方から口を開くなど、それこそ珍しいではないか。今夜はどういった風の吹き回しだ」
フィオナの皮肉に、口角を歪めて応じるギケイ。その躯から、アルコールの香りが漂う。王都を発って以降、彼が懐に酒精を忍ばせていることにフィオナは気付いていた。無断の飲酒は軍律を乱す行為として処罰対象だが、軍属でもないギケイが拘泥する謂われもない。彼は素知らぬ横顔をフィオナに見せたまま、滑らかに言葉を紡ぐ。
「此奴らは果実を好み、人に害を為さない草食性猛禽だ。あの一つ目のせいで視覚に難がある上に、生来の警戒心が薄く容易に捕らえられる。とっくの昔に絶滅したと聞いていたが……」
「それは他国の話ではないのか。私が小さな頃から、森でよく見掛けるが」
「絶滅の理由は、あの目にある。死してなお輝きを湛える大粒の眼球は、魔術の触媒として珍重される。それを知った山の民が生活の糧とすべく狩り尽くしたのだ」
「死してなお輝きを湛える…… そんな骸が存在し得るのか」
「小娘のお前が想像する以上に、此岸は怪異に満ちているということだろう…… だが、こうして目の前に群れているということは、魔術に携わる者が数を減らしたのか。あるいは……」
最後は独り言となって消え入ったギケイの言葉に耳を傾けながら、フィオナは樹間の闇から視線を外さない。無邪気な眼差しを湛えた頭部を頻りに巡らせる一つ目梟。その仕草の愛らしさに、思わず頬が緩んだ。
好奇心旺盛な生き物らしいが、その凝視は不思議とフィオナにばかり向けられている。青白く澄んだ眼光に胸中まで見透かされる心地がするが、相手が悪意なき野生の猛禽ともなればそれも不快ではない。
暫時、猛禽の注視に身を晒す内に、これまで煩悶してきた問いが唇から零れ落ちた。
「なぜ、私なのだ」
自らの声の木訥とした響きに驚きつつ、側に佇むギケイを振り向く。これまでの幾つもの問いと同じく、今回もはぐらかされるだろうと諦観していたフィオナだが、そこには慮外に静かな眼差しが待っていた。戸惑いを抑えて表情を無くす彼女に、低い声が応じる。
「ようやく真面な問いを発したか。だが、その答えを知って何とする」
「わからない。ただ、尋ねずにはいられないのだ。私が建国王ガーウェンの血に連なる者だからか。しかし、それは兄のラーズとて同じはず。むしろ、私などより兄の方が……」
「ガーウェン直々に頼まれたとはいえ、それは理由の一つに過ぎぬ。お主の魂魄の在り方が抜きん出て美しい、ということもある。だが……」
ギケイの言う魂魄が何を指すのか判然としないが、人の内面に関わる要素と推測された。それを飾り気無く「美しい」と評されて、さらに戸惑いを深めるフィオナ。
そんな彼女に冷ややかな言葉が浴びせられた。
「畢竟、誰でも良かったのだ」




