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森閑にて

 地図に記されない森閑に結ばれた、粗末な山小屋。


 老婆は、ずっとそこで生きてきた。

 樹木の静けさに産声を上げ、木陰を遊び場として育ち、一族に伝わる薬草の知識でひっそりと生活を営み、やがて娘をもうけた。


 その娘も長じて夫を迎え、孫が生まれ、早五年が過ぎようとする頃。裾の平原から雲霞の如く湧き上がった余所者と共に、老婆一家の静謐な暮らしは終わりを告げた。「アルタイル王族」を自称し、一方的従属と忠誠を迫る彼らに対し、村の中心を担う一派は「ヴェスコニア人」という間に合わせの呼称を自らに冠し、不慣れな折衝に当たり始める。


 しかし、記録を残す習わしを持たず、自然との調和の内に縷々として世代を繋いできた彼らが、鉄と血潮で欲する物を購う王国の習わしに抗し得るはずもなかった。やがて始まる搾取、抑圧、暴虐の日々を苗床に叛心が芽吹き、民族意識が醸成されていく。


 その累は村はずれに細々と暮らす老婆一家にまでも及んだ。生来、仲間思いな気質の娘婿が民族運動に身を投じて消息を絶ち、夫婦仲睦まじかった娘も失意の内に病を得た。やがて、病床に彼女を看取った老婆の手元には、娘夫婦の忘れ形見である孫娘だけが残された。いまだ両親の温もりを求め、喪失という理解の及ばぬ概念にただその薄い躯を震わせることしか出来ずにいる少女。


 この幼子だけは、どうか……



 その想いを拠り所に幾つかの季節をやり過ごし、塞ぎ込みがちだった孫娘も時折、躊躇い混じりの微笑を浮かべる様になってきた。その小さな掌を取って山間を共に巡り、遠い昔に母から教わった薬草の知識を語り聞かせる日々。



 ある春の夜。

 二人が息を潜めて暮らす小屋の戸を、叩く者があった。ようよう寝床から這い出た老婆が応じると、そこには数名の若者。そのいずれもが得物を帯び、背の曲がった老婆に胡乱な視線を落としてくる。


 いわく、彼らは「アルタイル王政に抵抗する組織」であると。

 いわく、老婆の娘婿が犯した敵前逃亡の咎で、代替の志願者を親族から募る為に来たと。


 老婆が「代替」という言葉の意味を問うても、若者達は冷たく笑うばかり。その黙秘の内に不遇の末路を気取る婆の背後で、小さな声が上がった。



「おばあちゃん。おきゃくさまなの?」



 欠伸混じりの、いかにも拙い口調。

 その一声で十分だった。若者達の視線に、剣呑な好奇心が宿る。



「こんばんは。小さな志願者さん」



 彼らの一人が腰を屈めて孫娘に視線を合わせ、丸い声で挨拶をする。



「あんた達、まさか……」



 戦慄に声を震わせる老婆には一瞥もくれず、若者達が互いに視線を交わして頷き合う。それで決まりだった。



「よしておくれ。こんな子供に戦うことなど、出来やしない」


「兵士としては無理でも、他に使い道はあるさ」


「……婿むこの代わりなら、この儂が行くよ」


「杖しか持てない婆さんに用は無い。年寄りは年寄りらしく、寝床に伏せってろよ」



 その台詞を吐くや否や、老婆の胸元を蹴りつける若者。枯れた躯が呆気なく後方へ吹き飛び、次の瞬間には小屋の床に為す術もなく横たわっていた。


 胸骨が吸収し損ねた衝撃が、拍動を伝って全身へ拡散されていく。老婆は、四肢を動かすことは愚か、床に張り付いた頬を上げることすら出来なかった。不条理な苦痛に滲む視界で、孫娘を辛うじて捉える。


 若者達の拘束から逃れようと、懸命に身をよじる幼子。その細い喉元から、助けを求めて言葉にならない声が夜気に漏れる。年老いた鼓膜を揺らすその音色に向かって、懸命に腕を伸ばす。だが、届かない。今宵、老婆の腕は余りにも非力だった。


 よしておくれ。その子だけは。

 その子だけはどうか(、、、、、、、、、)……


 刹那、しなやかな木目の感触が掌に滑り込んだ。

 それは老婆の皮膚にあまりにも馴染んだ、乾いた手触り。彼女が母親から渡された、愛用の杖。


 母親は祖母から、祖母は曾祖母から受け継いだと聞かされている。女系の血族に薬草の知識と共に代々継承されてきた、歪に曲がりうねる漆黒の木杖。これまでの生涯において一日足りとも欠くことなく、当然の存在として山小屋の片隅に立て掛けられていた木杖。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()がもたらす感触の確実性、自らの節くれ立った腕との同化の内に、老婆は必然を悟った。



「知らぬ……」



 皺深い唇が絞り出す呟きは、若者達にまだ届かない。

 枯枝の如き痩身に、有らん限りの気力を振り絞る。身を起こそうとすがった木杖が、当代の持ち主の意志に応じてその身をよじり、支えとなった。



「国も、民族も、儂らの知ったことではないわ」



 小屋の暗闇に、老婆の白髪がうねり、逆立つ。

 つい先刻までそこに在った幼子との平穏な日々を背後の闇に残し、決然と戸外へ踏み出した。


 一人の若者が、背筋に触れる異様な気配に振り返り、その頬をひきつらせる。



「よせ、婆さん。その杖をよこしな」



 老婆に差し向けられる、若者の太い腕。

 その上腕骨を包むしなやかな筋繊維の束が指先から波状にのたうち、一瞬収縮した後、唐突にぜて皮膚を破った。熟れただれた石榴ざくろの如く細切れになった内部組織が若者の片腕から垂れ、地面に飛び散る。


 夜半の森閑に、若い悲鳴が木霊した。

 残りの若者が振り返り、戦慄に双眸を見張る。彼らの余りに無防備な躊躇、その反応の遅さは致命的だった。


 圧搾の過程は速やかに周囲へ波及、辺り一帯の樹木を巻き込みながら人体と植物の歪な融合物を瞬時に編み上げていく。阿鼻叫喚は僅か数秒で途絶え、低粘度の液体が樹幹を赤黒く伝って地面を濡らし、毛細血管状の根が自らの滴りに拍動の舌鼓を打つ。


 その異様な光景が終息するまで、長くは掛からなかった。


 森閑が静寂を取り戻すと、老婆がずっと暮らしてきた山小屋の正面に一つの広場が忽然と現れていた。不自然なまでに真円をかたどる不毛の地面。その中央には、一樹の枯木に似た物体が生えている。老婆の四肢よりも細長く圧搾された樹枝は金属質な深紅に輝き、その華奢な枝振りにも拘わらず風に微塵もそよぐ素振りを見せない。


 呆然と立ち尽くす老婆の口元からくぐもった喘ぎが漏れ、それはやがて一帯を脅かす絶叫となって樹間に迸った。



()()()()()()()()()()()()()()()



 疑問、自責、悔恨、怨嗟、哀惜、憤怒……

 あらゆる感情が奔流となって一時に老婆を貫き、脳幹を容赦なく蹂躙する。それでも、絶叫は止まない。人の言葉を成さず、かといって獣のそれでもない咆哮が、しわがれた喉を離れて風にさらわれ、細く捩られた息吹の紙縒こよりとなって山間部を駆け抜け、地平線にそっと触れた。


 刹那、老婆の周囲から一切の音が消えた。風が止み、木々の梢は揺れず、小動物達の気配も一つ残らず失われた。かつてない静寂の内に、樹間から月明かりだけが微かな音を立てて降り注いでいる。


 しゃらり、しゃらりと。

 やがて地面に降り積もった月光の粒子はゆっくりと寄り集まり、縦長の楕円体を形成しながら伸び上がっていく。緩やかに経過する時間を得て、ようやく人の形を得たそれが老婆に語りかけてきた。



「こんばんは。お嬢さん」



 浮き世離れした白妙しろたえに身を包んだ若い女が、仄かな微笑の内に老婆を見下ろしていた。

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