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老婆

 赤く拍動する繭から現れた、痩身の女。


 その相貌は頭部から足元までを包む黒衣に隠れて窺えないが、空に浮かぶ月の形に歪んだ背筋、両袖から覗く枯れ枝の様な手は老婆を思わせる。


 誰もが言葉を失って立ち尽くす中、只一人、ギルモアだけがいち早く我に返って声を発した。



「貴様等、人外の類か」



 言葉が向かう先は、この異様な光景を招いた張本人であるギケイ。


 いまだ赤く脈打つ自身の上半身を両腕で抱え込み、その口元が漏らす息は荒く、相貌にも疲労の色が濃く滲む。思えば、息を乱す彼を目にするのはこれが初めてだと、場違いな思いがフィオナの胸中を掠めた。



「……人外ならば、どうだと言うのだ」


「知れたことを。この者共を拘束せよ!」



 中庭に面した窓や柱廊の陰で身を堅くする、王宮の夜警達。たったいま目にしたばかりの光景は、完全に彼らの理解の範疇外。誰一人として動く気配がない事に苛立ったギルモアが言葉を継ごうとした時、冷えた声が中庭に響いた。



「雑兵の寄せ集め如きが、俺を数で押し切れるなどと思い違いをせんことだ。ローガンの小倅こせがれよ」



 自身よりも遙かに若年の風貌をしたギケイに「小倅」呼ばわりされ、表情を強ばらせるギルモア。だが、相手の声が孕む得体の知れない威圧感に、次の句を継ぐことができない。


 遣る方ない矛先は、その傍らに佇む身近な人物に転じた。



「よもやフィオナ様自ら、この様な狼藉者を王宮へお引き入れになるとは。この惨状、如何なさるおつもりか」


「よせ、ギルモア。責任ならば、儂がいくらでも負う。だが、その前に……」



 ダレルの視線が向かう先は、僅かな間に様変わりしてしまった内苑の中央。倒壊した噴水がぶち撒けた水貯まりに、無数の花弁が浮かぶ。それらの中に立つのは、二人の人物。痩身の剣士と、黒衣の老婆。得体の知れなさではいずれも甲乙付け難く、しかもそれぞれ得物を手に携えている。


 痩身の剣士は、言うまでもなくギケイ。ヴェスコニア自治州の州境からこの王都まで、特に抗う素振りも見せず付き従ってきた。「フィオナが行く処ならば、自分も当然に行く」という態度に気を緩めるつもりはなかったが、ムーア公国軍からの急襲を受けての王都帰還という異常な事態にダレル自身も忙殺され、些か気が逸れていたのも事実。


 だが。いま改めて、目の前で繰り広げられた光景を目にした後では、彼という存在の脅威を再評価せずにはいられなかった。万が一、ギケイが王族にその刃を向ける様な状況に陥れば…… この場の誰にも止められない。



 王宮の夜警の中から、ダレルの視線の意味を察した特に勇敢な数名が、前へ進み出ようとする。


 その相貌に浮かぶ決死の覚悟を認めたギケイ。先刻までとは打って変わった気怠げな動作で片手を掲げると、言葉短く呟いた。



黒瑪瑙オニキス、任せる」



 赤い繭から足を踏み出した老婆が、枯れ木と見紛うその細腕に木杖をゆらりと掲げる。


 彼女がその尾部を敷石に軽く打ち付けると、内苑に硬い音が鳴った。音の波が揺れながら広がり、澄み渡っていく。その情景を目にした誰もが、暫時、意識に混濁を覚えた。


 その呪は、獣のそれ(、、)と同じ。

 各々《おのおの》の頭蓋の中で緩やかに溶かされた記憶が、空隙に置換されていく。


 ギルモアも例外ではなかった。



「……そうですな。この内苑の後始末を思うと気が重いですが、いまは責任云々よりも、ラーズ様の言葉をお伝えしましょう」



 違和感に気付いたフィオナとダレルが同時にギケイを振り向くが、彼は素知らぬ顔で背中を向けて、細身の刃を納刀するところだった。


 その背中に、ダレルが話し掛ける。



「アルタイル建国史に貴様の名が見あたらぬ理由は、これか」


「察しが良いな、老兵」


「我がローガン家に伝わる禁書が、貴様の得体の知れぬ行状を刻んでおる。」


「そうか。だが、同じ家に生を受けながら、お主の弟は我が名に拘泥しない。その理由を知っているか」


「……通常、人の意識は、貴様という存在を長く留め置けぬ。だが、極希に特別な資質を有する者が、その例外となり得る」


「ほぉ、そこまで知りながら俺と行動を共にするか。その気概、誉めてやろう」


「卑しき亡霊めが」



 吐き捨てられた言葉に動じる様子も見せず、柳に風と受け流すギケイ。そんな二人のやり取りにフィオナは疑問を呈さず、静かな好奇心を抑えてその先行きを見守っている。そんな彼らの注意を促そうと、ギルモアが微かな咳払いを漏らした。



「兄上、その男との込み入った話は、道中に取って置かれるが良いでしょう」


「……道中、とはどういうことだ、ギルモア。この王都は、建国式典を間もなく迎えようとしているのに」


「恐れ多くも、下命によりフィオナ様には国境警備隊を率いてヴィーゴ砦の状況を調査して頂きます。その結果、敵性勢力が確認された場合にはこれを速やかに排除すべし、とのことです」



 その言葉の意味をそれぞれが胸中で反芻する中、ギケイとのやり取りを切り上げたダレルがギルモアに向き直る。



「そうまでして、フィオナ様を建国式典から遠ざけたいか。それに、王都へ生還を果たした国境警備隊など儂を含めて数名しかおらぬ。死地へ赴けと言うも同然ではないか」


「王都の警護体制を鑑み、現地を知る少数精鋭にて赴いて事態に対処するのが最適と、ラーズ王子がご判断されました。特に兄上の働きにご期待を寄せておいでです」



 実の弟の言い様に絶句するダレル。立ち尽くす二人を見かねたフィオナが、口を開く。一切の動揺を滲ませないその声には、ギルモアに背筋を正させる凛とした響きがあった。



「ギルモア、一つだけ問う」


「なんなりと、フィオナ様」


「なぜだ」


「なぜ、と申されましても。ラーズ王子ご下命の背景は、いま申し上げた通りでございます」


たわけ、そうではない。お前ともあろう者が、今になってなぜ見え透いた悪策を懲りもせず弄するのか、と私は問うている」


「……はて。何のことやら、私にはわかりかねますが」


「それがお前の衷心からの答えだと言うなら、私はいささかならず失望したぞ」



 フィオナの厳しい言葉に口を噤み、地面に視線を落とすギルモア。そのまま沈黙を守る彼を暫時見つめていた彼女だったが、ふと視線を横に振る。


 そこには、まるで部外者かの如く月見を決め込むギケイと、ただぽつねんと地面から生える植物の様に佇む黒衣の老婆。特に後者の微動だにしない棒立ちは、生きているのかすら疑いたくなる程だった。


 思わず歪みそうになる口元を引き締めて「この者達は……」と問うフィオナに、「また暴れられては堪まったものではありません」とギルモアが忌々しげに顔を顰める。それで決まりだった。



 夜明け、フィオナ率いる一行は人知れず王都を離れた。


 馬上、全員が目深に被ったフードの下で目蓋を細め、薄明に白み始めた地平線に向かって手綱を操る。


 フィオナの身の内には疲労とやり切れなさとは別に、沸々と込み上げてくる不可思議な昂揚があった。


 ともすれば、ふとした揺れに場違いな嬌声が誘われそうになるのを懸命に抑え堪えながら、彼女は己の内をじっと見つめていた。

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