内苑
人影失せた王宮の夜が
深更へと沈んでいく
地平線から横殴りの月光
内苑に幾重にも浮かぶ樹影
その影から影へと
影よりも濃密に跳梁する
黒瑪瑙の四足獣
その頭部には不整の明滅
命ある者を瞬時に惑乱するその煌めきを
呪を込めた眼力で相殺するギケイ
地下牢から地上へ至る階段を背に
僅かに腰を落として佇むその腰には
いつしか現出した選定の神刀
しなやかに黒くうねる
幾条もの獣の尾
その先端に撫でられた敷石が
赤く線状に抉れて
耳障りに軋る
樹影から刺突の尾を放つ獣
それに応じるギケイは
紙一重の見切りで躯を翻しながら
間合いを詰めていく
幾条目かの尾が
軌道上の庭木を薙ぎ倒した
中空に撒き散らされた花弁が
月光を宿して視界を白銀に煙らせる刹那
ギケイの姿が淡く滲んで消えた
獣の斜め後方に
その痩躯が像を結ぶや否や
抜き打ちの一閃を放つ
本能的に飛び退る獣
切断された尾の先端が
十日夜の月に舞う
獣の顎が
苦悶の叫びを闇空に放つ
胴を離れた尾が地面にのたうち
鎖状の呪に変じてギケイの足首に絡みつく
「やはり、ミラの残影の一つか」
見下ろして呟くギケイ
その上腕に赤く浮かび上がる
呪刻紋
翳した掌の先で足首の呪が
緩み、解け、綻びていった……
――――――
物音を聞きつけた夜警や王宮の使用人が、物陰から内苑を窺う。
そこでは、一人の剣士と一匹の獣が争っていた。
傍目にも獣の方が敏捷性に優れ、手数も多い。その爪や尾は、内苑の花木や石壁の触れた部分を赤く白熱させ、まるでチーズを断つが如く、硬さを無視して薙ぎ切る。
だが、余裕を見せるのはむしろ剣士の方だった。
四足の爪、顎に加えて複数の尾を駆使する獣に対し、手にした細身の一刀と体捌きのみで拮抗していく。徐々に押されて内苑の一隅に追い詰められた獣が、苛立ちを乗せた尾を黒く閃かせ、庭木を薙ぎ払った。
中空に舞う無数の花弁に、視界が白銀に煙った刹那。
剣士の姿が淡く滲んだかと思うと、次の瞬間に獣の背後に現れた。据え物を試し斬りするかの如く無造作な太刀筋が、獣の尾の先端を捉える。子供の腕程の尾が地面にのた打ったかと思うと、それは緋色に緩んで剣士の脚に絡み付いた。
剣士が翳した掌にそれが吸い込まれて、消えたかに映った瞬間。手負いの獣が激昂の咆哮を放ち、出鱈目に暴れ始めた。
内苑の花木が、噴水が、石塔が次々と薙ぎ倒され、地面に音を立てて転がる。
「姫様、これは……」
「間違えても内苑に踏み入るなよ、ダレル」
駆けつけたフィオナ、ダレルの眼前で、縦横無尽に暴れ回る一人と一匹。つい先刻までの動きが緩慢に感じられる程に、尋常ならざる躰の切れを見せるギケイ。背後で柱廊が断たれて崩れ、石壁が砕け散るのも斟酌せず、猛り狂う獣の一挙一投足の悉くを細身の一刀のみでいなして凌ぐ。
その離れ業に舌を巻きながらも、彼の相貌が喜悦に歪んでいるのを認めたフィオナが、声高に叫ぶ。
「ギケイ! 遊んでないで、早々にこの場を収めよ!」
その言葉に足を止めたギケイが、フィオナを横目に見遣る。恨めしそうに結ばれた口元には、渋々ながらも承知の意が見て取れた。
そして、獣はその一瞬を見逃さない。耳元まで裂けた顎をさらに押し広げ、ギケイを丸飲みしようと彼の側面から迫る。
「愚か者、余所見するな!」
息を飲むフィオナの眼前で交錯するギケイと黒瑪瑙の獣。肉を裂く鈍い音が中庭に響いた。
刀を振り抜いた姿勢で残心を取るギケイ。
その背後、着地した獣から、その巨大な下顎だけが地面にぼとりと落ちた。夥しい量の体液を垂れ流しながら振り向く獣に、返す刀でギケイが追い打ちを掛ける。
瞬く間に四肢と尾を根本から断たれ、頭部と胴体だけ残された獣が、自ら垂れ流した血溜まりに蛭子が如くのた打つ。胴体を離れた部位が急速に腐敗してぐずりと液化し、内苑に濃密な異臭が漂う。
そんな状態に至ってもこの世の条理を外れた存在は死ぬことすら叶わぬらしく、青い息を吐きながらギケイを睨め上げている。
その場に居合わせた誰もが息を詰めて見守る中、獣の頭部の煌めきだけが暫時、苦しげに明滅を続けていた。
「こんな夜更けに何の騒ぎですか、兄上」
ローブの裾を乱して駆けてきたギルモアが、その異様な光景に思わず歩みを止める。目を見張る彼の前で、血溜まりに足を踏み入れたギケイが獣の側に膝をつき、その額と思しき部位に掌をそっと押し当てた。
「黒く美しい獣よ、汝の失われた躯を贖おう」
そう呟きながら触れるギケイの所作は緩やかで、先刻までとは打って変わって獣に対する慈しみすら漂わせる。
「そして、我に汝が罪を、汝に我が呪の一端を刻み、名を与える…… 黒瑪瑙」
ギケイの上半身に幾何学紋様が赤く浮かび、その指先が鎖状に変じて解れていく。と同時に、黒い獣の頭部がどくりと波打ったかと思うと、こちらも上顎の端からゆるゆると解け始める。
探り合いながらゆるゆると絡まっていくギケイと黒い獣の鎖。それらは先端が一度噛み合うと急速に互いを貪り、その結合を深める。頭部に続いて頸部、そして胴体が鎖状に赤く変じ、ギケイの両腕へと集束して流れ込む。
やがて獣の大半を取り込んだ彼の全身が紋様に赤く染まり、不気味に脈打ち始めた。苦しげに喘ぎながら、天を仰ぐギケイ。その喉奥から一筋の細糸が噴き出し、地面へ弧を描いた。
赤く吐き出されたそれは徐々に編み重なり、拍動する糸束となって堆積していく。細長く楕円球状に形を成していく様子にフィオナが蝶類の繭を連想した瞬間、それに亀裂が走った。
縦に長く伸びた亀裂を中心に左右へ裂けて、解けていく糸束の繭。
相似の巨大な花弁が散るかの如く分かれた繭の内には、痩身の小柄な女が静かに佇んでいた。




