月見酒
墨紺の雲を縫った月明かりが、バルコニーに乱雑なモザイク模様となって落ちている。
謹慎を言い渡されたフィオナは、忸怩たる思いに身を焦がしながら自室で酒杯を煽っていた。その切っ掛けとなった一連の記憶は絶えず体液に溶け込んで全身を巡り、何をするにも四肢の枷となって彼女の動作を緩慢にしている。
国境警備隊を率いて王墓に立ち寄った、あの日。
蒼穹から矢の如く落ちてきた、異国の剣士。そして、その情景に連なる、一連の凄惨な出来事。目蓋に焼き付いて消えないそれらはフィオナの意識に楔となって食い込み、昼夜を問わず次々と浮かび上がっては彼女を苛んでいた。
闇夜に蠢く隠密狗の群、宙を舞って投げ込まれる隊員達の生首、幅広の両刃刀を振るう巨躯の男、寝食を削り雨露を凌ぎながらの山間移動、少年を追い詰めていくギケイの背中、横裂きの喉笛から鮮血を吹き上げて沈んでいくヴェスコニア人の男……
酒杯を乱暴に口元へ運び、蒸留酒で喉を焼く。
この反芻、酒精の力無しにはとても耐えられない。いくら飲んでも酔えないが、かといって酒杯を手放す気にもなれない。
この世を去ってしまった兵士達の顔が過ぎっていく。血糊に滑る二顎兎擬の死骸が積み重なり、少年の口元が邪な笑みに歪む。
畢竟、王都に帰還して以降の彼女は、自室に閉じ籠もって酒臭い溜息ばかり吐いているのだ。謹慎を言い渡したのは、ひょっとすると兄なりの心遣いだったのかも知れない。そんな自嘲的な思い付きが脳裏を掠め、またすぐに消えていく。
眼下には、建国式典を控えた王都の街並みが広がる。
小国なりのこぢんまりとした眺めではあるが、普段よりも格段に数を増した灯火の数がフィオナの意識をより一層責め立てる。
規則正しい打音が、室内に堅く響いた。
自室の扉を警戒の眼差しで見遣るフィオナに、聞き馴染んだ野太い声が届く。
「姫様」
「ダレルか。入れ」
「夜更けに申し訳ありません。失礼いたします」
ダレルに続いて、細面のローブ姿の男がしなやかな身のこなしで入ってくる。平時と変わらぬ落ち着き払ったその物腰に、思わず眉を顰めるフィオナ。
「ギルモア……」
「お加減はいかがですか、フィオナ様」
「宮廷医師が大袈裟に騒ぎ過ぎなのだ。肩の切傷は浅い。案ずるに及ばぬ」
「それは何より重畳…… ところで、その傷、ヴェスコニア人の男との立ち会いで負われたとか」
「そうだ」
「兄上が随行していながら、姫様がなぜその様な事態に陥ってしまったのか…… 文官上がりの私には全く理解が及びませんが」
実弟が横顔越しに投げて寄越す非難がましい眼差しに、言葉を飲み込んで耐えるダレル。
「身内を貶めるのは控えよ。ダレルに咎はない」
「誰が咎を負うべきかは、これから明らかになることでしょう。まずは、お聞かせ頂きたく存じます。フィオナ様がその傷を負われた時の状況について……」
それはフィオナにとって既に幾度となく反芻した記憶だった。淀みなく順を追って諳んじる彼女の語りを、ダレルが時折補足する。最後まで聴き終えたギルモアは暫時の沈黙を挟んでから、おもむろに口を開いた。
「状況から鑑みるに、フィオナ様、兄上および数名の隊員を除き、王墓に立ち寄った国境警備隊員の生存は…… いまや望み薄と覚悟しなくてはなりません」
余りにも甚大な被害に、重い沈黙が降りる。隊長たるフィオナを擁護すべく口を開こうとしたダレルを遮って、ギルモアがさらに言葉を重ねる。
「また、ヴェスコニア族長の嫡流筋をフィオナ様自らその手に掛けられた、という自治州からの訴えが耳に入っておりますが、これも概ね事実に相違ございませんか」
「致し方なかったのだ、ギルモア。それとも、あのまま斬って捨てられるに身を任すべきだった、とお前は言うのか」
「いいえ、断じてその様なことは…… ただ、ヴェスコニア人共に反王権の機運が急激に高まっており、事態が予断を許さないのもまた事実。建国式典を控える今、速やかに事態の収拾を図らねばなりません」
「その話し振り、既に腹案も講じているのであろう。申せ、ギルモア」
「されば、恐れながら申し上げます」
伏し目がちな眼差しを足下の織物に落としたギルモアが、暫時の沈黙を経た後、普段と変わらぬ口調で静かに告げる。
「フィオナ様におかれましては、その王位継承権をご放棄頂きたく存じます」
――――――
天窓から斜めに射し込む、十日夜の月。
地下牢の湿った床に座したギケイは、ささやかな月光浴に興じていた。
夜警に腕を取られて誘われた、この仄暗い空間。仄かに悪臭漂う中を小動物の影が時折過り「客室」と呼ぶには程遠いが、「丁重にもてなせ」というフィオナの言葉を真に受けた侍従によって、場違いに豪勢な酒肴が持ち込まれていた。その不釣り合いなこと、甚だしい。
純銀製の大皿に並ぶのは、幾種類かの酒精の瓶、乾燥させた木の実、塩と香辛料を効かせた干物。あとは舌をぴりりと刺す発酵乳製品らしき物や、強い腐敗臭を放つ原材料不明の加工食品など。潮の香りに縁深いギケイは、その中に海産物の乾物を見出し、目を細める。
一人で月見酒と相成った。
注ぎ足しても次々に空けられる酒瓶に給仕係が呆れ始めた頃、地下牢にふと奇妙な沈黙が降りた。侍従が声高に呼ばわっても、ギケイに対する異例の扱いに不満を漏らしていた周囲の独房の住人達はおろか、牢屋番すら応じる気配がない。
不安を覚えた侍従が地上への螺旋階段に片足を掛けた瞬間、びくりと身を震わせたかと思うと、その姿勢のまま背後へ卒倒した。白く裏返った眼球を痙攣させ、口角に泡を吹いている。
その躯の下から、黒く滲み出す液状の影。
しなやかに頭をもたげたそれは、骨張った体躯にゆっくりと厚みを得ていく。
酒杯を片手にその様子を興味深げに眺めるギケイの前で、背を弓なりにしならせながら四肢を順に突っ張り、伸びをする黒瑪瑙の獣。最後にそれぞれ長さの異なる尾を鞭の様にしならせると、下半身を床に落ち着けた。
その頭部で瞳孔らしき煌めきが大小様々、不規則に明滅してギケイを探る。
「ほぉ。この席の相伴に預かろうと、あの島からわざわざ馳せてきたか」
並の人間ならば、視線を合わせただけでそこに込められた「呪」に意識を飛ばされるところだが、ギケイはあくまで気安い口調のまま、酒杯を片手に弄んでいる。
「遠路遥々、ご苦労な事だ。だがな、これは俺がやっとの思いでありついた酒肴だ。欲しければ、お前の如き使い走りではなく、主自ら出向けと伝えろ。ほれ、駄賃をやる」
いまや刺々しい外殻を纏い終えた四足獣に向かって、一欠片の干し肉が緩い放物線を描く。それが獣の頭部を叩くかに見えた刹那、中空で黒炎に包まれた。そのまま蒸発するかの様に、消失していく肉片。
続いて、ギケイの脇に置かれた純銀製の大皿の上で酒瓶が粉々に砕け散り、黒炎が諸々の酒肴を一瞬の内に燃やし尽くした。
「……面白い。ならば、お前を斬り刻んで、今宵の肴にしてくれるわ」
地下牢の鉄格子が、弾け飛ぶ。
螺旋階段を絡み合いながら駆け上がる、二つの影。
愉しげに唇を歪ませるギケイと、 黒瑪瑙の煌めきを鋭く纏った獣が、月明かり照らす王宮の内苑に身を躍らせた。




