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黒瑪瑙

 その夜、ラーズ王子を寝所に訪なったギルモアは、彼にとってすっかり馴染みの感情となった諦観を溜息に溶かし込み、細く吐き出していた。


 扉の外でいくら待てども、室内から応じる声はない。酒と薬物、それに女の爛れた匂いがい交ぜとなって、ギルモアの鼻孔をくすぐる。


 薬物の成分を吸い込まない様に袖で口元を覆い、室内へ踏み入った。わざと大きな足音を立てて部屋を横切ると、夜に向かって窓を大きく開け放つ。


 ベッドの中からくぐもった嬌声が聞こえたかと思うと、シーツを絡みつかせた若い肢体が慌てて去って行く。



「彼女を呼ぶのは今夜が初めてだったのに。お前は相変わらず無粋なヤツだな、ギルモア」


「くれぐれも孕ませないよう、ご留意ください。後処理の手間も馬鹿にならないのですから…… あの娘の名は?」


「さぁ…… そんなの、僕に訊かれても困るな。最近補充された侍女の一人じゃないか?」



 そううそぶくラーズの生白い腕が、濃炭色の筒状の物体を求めて、枕元に伸びる。植物の葉を細長く巻いた外観をしているが、この部屋に充満する胡乱うろんな香ばしさからして、それが単なる煙草でないことは明らかだった。


 わざと深い溜息を吐いて見せながらラーズの手を掴むと、掌に不自然な汗のぬめる感触があった。指間に挟んだ薬物を折り取り、無言で窓外へ投げ捨てるギルモア。大仰な仕草で両腕を掲げて抗議の意を示すラーズに、ボソリと告げる。



「戻られました」



 それ以上を述べずとも、言外に含めたニュアンスだけで誰のことを言っているのかが伝わる。二人はそれ程までに互いに馴れ合い、王宮の腐食にずぶずぶと沈みゆく日々を過ごしてきた。


 肺を蝕んで浸潤してくる、生ぬるく中途半端な快楽。その残り香を浅ましく貪ろうとしていたラーズの双眸が、ままならない不快感に染まっていく。その様子を見て取るギルモアの胸中に、暗い愉悦が密やかに灯った。



「間違いないのか」


「はい。先刻、私が赴いてご本人と言葉を交わしました」


「一人か」


「いえ、我が兄、ダレルも一緒です。あとは生き残りの国境警備隊員が数名に、見慣れぬ風体の男を伴っておられます」


「誰だ、それは」


「わかりません。ただ、行軍中に遭遇した異国人であると報告を受けております」



 ふと、ローガン家に代々伝わるみ名が胸中を掠めたが、わざわざ言及するまでもない些末事と切り捨てた。



「ほとぼりが冷めるまで拘留したら、口止めに小銭でも掴ませて追い払え」


「御意…… フィオナ様に会われますか」


「まさか。馬鹿を言うな」



 それだけを吐き捨てる様に言い放つと、物欲しげな眼差しで室内を探るラーズ。目に付いた酒杯の中身を一息に煽り、背を反らした勢いのまま仰向けの裸体をシーツに深々と沈める。


 女の残り香を怠惰にまとわり付かせる青年の肢体から視線を外し、ギルモアはラーズ王子の寝所を後にした。


 深夜の王宮、柱廊を足早に抜けていく。


 その踵に絡み付く仄暗い焦燥を蹴りつけるかの如く、ローブの裾を夜風に長々となびかせながら。



――――――



 その獣の姿を最初に認めたのは、深夜番の門兵だった。


 王国の建国式典を控え、城下には近隣諸国から要人が集まりつつある。昼夜を問わず厳戒態勢が敷かれる中、現場の番兵達も総出で警備に就いていた。


 城門の上に組まれたやぐら。そこが彼の今夜の持ち場だ。


 数刻前、早番の兵士と見張りを交代した時には、天上高くから城下の街並みを煌々と照らしていた十日夜の月。いまやそれは曇天低く遠慮気味に顔を覗かせるのみで、横殴りの月明かりが至る所に濃密な陰を落としている。


 夜を徹して焚かれる篝火かがりびに浮かび上がる、城壁の外縁部。そして、足下には城門から対岸へ延びる跳ね橋。その麓のさらに向こう側、仄かな闇の中。


 ふと覚えた違和感に門兵が目を凝らすと、そこに闇よりも濃密な何か(、、、、、、、、、)が、いつの間にか低くうずくまっている。


 門兵が向ける視線を本能的に気取ったのか、僅かに身じろぎしたそれが頭部らしき物をゆっくりともたげた。細長く伸び上がった部位に、いくつかの微光が瞬いて見える。門兵がさらに目を凝らす中、それらは不規則に明滅を繰り返しながら、数を増減させていく。



「何だ、あれ。八つ目黒豹(ヤツメクロヒョウ)でも紛れ込んだのか……?」



 八つ目黒豹は大陸北部の森林地帯に生息する夜行性の草食動物で、側頭部から脇腹にかけて四対、合計八つの目を持つ生物だった。広角度の視野で常に周囲を警戒しながら、好物の木の葉を求めて自身の縄張りを巡回する。


 だが、非常に警戒心が強い上に、その個体数も減少傾向にあって、人里に姿を現したという話は聞いたことがない。


 自問する門兵が見つめる中、対岸の闇からおもむろに、それ(、、)がぞろりと踏み出してきた。


 斜めに差す月光にその全容が浮かび上がった瞬間、門兵の全身が怖気に総毛立つ。


 骨の獣。彼が反射的に抱いた印象は、その一言に尽きた。今宵、不可思議な力で土の下から這い出てうごめく、四つ足のむくろ。あるいは、影をまとった骨骸か。


 それがいま、ゆっくりと跳ね橋の麓に足を掛けようとしている。だが、嫌悪に目を見張りながらも、彼は気付いた。


 それがおぞましさの下に、禍々しいばかりの美しさを忍ばせていることに。


 ただの骨骸ではなかった。頭部から始まって脊椎、がっしりとした四本の脚、長さの異なる複数の尾部まで、ありとあらゆる部位が刺々しい外殻に覆われて骨張っている。しかし、黒瑪瑙オニキスの如く鋭い光沢を放つ皮膚の下には、躍動する肉の束が見て取れた。


 よく見れば、体躯自体はさほどの大きさではない。胴体だけならば、成人男性とさほど変わらないだろう。この地方にはもっと大型の獣も生息している。それらの近親を彷彿とさせる造型をしつつも、それぞれが別個の生物の様に揺れる複数の尾が異彩を放っていた。


 暫時、その黒い獣に視線を吸い寄せられていた門兵だったが、やがて我に返って自身の職務に思い当たる。


 そうだ、何であろうと、あんな得体の知れない生物を城門の内側に入れて良いはずがない。物見櫓の梁からぶら下がる警鐘のことが、ふいに彼の意識に浮上した。


 刹那、跳ね橋の中程をゆっくりと歩んでいた獣の頭部で、明滅する瞳孔の一つが門兵をぎょろりと捕捉する。瞬時に麻痺状態に陥った躯の内で、いくら悔やもうとも時は戻らない。


 その夜、城門の警鐘はただ一つの音色を奏でることもなく、月明かりにただ沈黙していた。

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