王都
深夜の夜警詰所に、怒声が木霊する。
ただでさえ手狭な空間に耳を聾さんばかりにダレルの声が野太く反響して、石壁をビリビリと揺すぶっていた。
「何度言えば気が済むのだ。火急の用だというのが、わからんのか!」
「ローガン参謀、それは王宮にも伝わっております。しかし……」
「うんざりだ。押し通る!」
「どうかご自重ください! この場に留まり頂く様、ラーズ王子から命を受けております。背けば貴方を罪に問わなくてはならなくなります」
ダレルがありったけの苛立ちを込めて、拳を机に叩きつける。
ヴェスコニア地方を横断してようやく王都に辿り着いたフィオナ、ダレル、国境警備隊の生き残り数名にギケイを加えた一行。
夜半、迷路状に広がる王都の街路を駆け登ってきた彼らは、王宮に至る大路の脇で、夜警詰所に足留めされていた。他の国境警備隊員も殺気立つ中、ギケイだけは石壁に背を預けて腕を組み、黙考に耽っている。
「年甲斐無い取り乱し様、感心いたしませぬ。兄上」
その場全員の視線が、夜警詰所の入口に集中する。先刻まで誰もいなかったその場所には、細面の男が立っていた。踝までのローブにゆったりと身を包み、一同を静かに見据える佇まいは、いかにも怜悧な文官然としている。
「遅いぞ、ギルモア! 一体なにがどうなっている!」
手負いの猛獣が如きダレルの気勢を顔色一つ変えずに受け流すのは、アルタイル王国の宰相を務めるギルモア・ローガン。武人の道を選んだ兄ダレル・ローガンとは対照的に、幼少期より学問に才を示した彼は生涯のほとんどを王国の内政に携わって過ごしてきた。
賢王の名高き現国王の影に、宰相ギルモアの名が常に寄り添ってきたことは国民周知の事実。そして、病床に伏した国王が継承者への譲位を思案していると噂される昨今、ギルモアの姿はラーズ王子と共に見られる機会が増えつつあった。
兄であるダレルに片手を掲げて自制を促しつつ、いまだに疲労の色濃いフィオナに視線を落とすギルモア。普段から伏し目がちなその眉根が、僅かに寄せられる。長年に渡って内政の中枢で清濁併せ呑んできた彼が、表情に乏しい相貌の背後にどんな思索を秘めているのか。窺い知る者はその場にいない。
「まず、フィオナ様におかれましては窮地からのご帰還、衷心よりお慶び申し上げます」
ギルモアの薄い唇が紡ぐありきたりな口上も、その平坦なトーン相まってやはり真意をはからせない。フィオナへの言葉を遮るわけにもいかず、顎骨を軋らせて怒声を飲み込むダレル。
「ギルモア、夜更けにご苦労。既に聞き及んでいようが、事態は一刻を争う。今すぐ兄上と話したい。その上で、軍議を開く」
「フィオナ様。恐れながら、ご意向に添うことは難しいかと存じます」
「……何を言っている? いまこうしている間にも、敵軍が我が王土内に跳梁しているかも知れんのだぞ」
「状況は把握しております。その上で、今夜のところはラーズ王子のお言葉に従って頂きます」
ギケイを除く全員の注視を一身に集めてから、淡々と告げるギルモア。
「フィオナ様と兄上は、自室にてご謹慎。国境警備隊員はそれぞれの兵舎にて待機。そして、そこの男には然るべき処遇を用意しております」
ダレルの拳が再び机を叩き、無精髭まみれの太い顎からもはや言葉の体を成さない怒声が放たれる。それに続いて、他の者からも抗議の声が上がった。無理もない。隣国の隠密部隊から突然の襲撃を受け、辛くも繋いだ命で寝食すら惜しんで危機を告げに戻ったのだ。その状況に対する扱いがこれでは、納得できるはずがなかった。
鼓膜を刺す騒ぎに顔を顰めながら壁を離れたギケイが、入口へおもむろに足を向ける。
「待て。そこの男、何処へ行く」
「この茶番にもそろそろ飽きた。フィオナ、酒肴を用意させろ」
「貴様! 姫様に何という口の利き方だ!」
目の前で混迷を深めていく事態に戸惑っていた夜警が、我に返った様に壁面に立て掛けた刺又に手を伸ばそうとする。今度はダレル達、国境警備隊の面々が動揺する番だった。
「ならぬ! その男に武器を向けるな!」
「兄上、何をそんなに慌てておられるのです」
「わからんのか、ギルモア! この男は……」
「報告は受けております。しかし、伝承は所詮、伝承に過ぎません。年月という幻想の尾鰭に塗れたその実体は、白日の下に晒せば往々にして陳腐な物です」
「お前はその目で見ていないから、そんな呑気な事が言えるのだ」
無言で睨み合うダレルとギルモア。剣呑な静寂を破ったのは、フィオナの緩やかな溜息だった。
「お前達はなぜ、顔を合わせる度にそう啀み合うのだ…… いずれにせよ、二人ともいまは控えよ。その者が誰であろうと、私の命を救った事実に変わりはない。その働きをもって、いまの発言を不問とする。私の客人として、丁重にもてなせ」
「俺はどんな場所でも構わん。酒さえ飲めればな」
「貴様、フィオナ様の有り難いお心遣いがわからんのか!」
再び緊張を帯び始めたその場の空気を、フィオナが片手を掲げて鎮める。
「酒肴も運ばせよう。だが、ギケイ、以降は軽率な言動を控えよ。それから」
夜警詰所に集った一同の顔を順に辿ったフィオナの瞳が、一人の男に据えられる。
「ギルモア。兄上の心中は推し量れないが、予断を許さない事態だ。可及的速やかに、然るべき人員を現地に派遣、生存者を救助しなくてはならない。そう進言してくれるな?」
抑制されたトーンに、部下の国境警備隊員を慮る焦りが滲む。流石のギルモアも、これには厳かに頭を垂れて応じた。
「参りましょう、姫様」
フィオナを促して、戸外へ足を向けるダレル。
その両脇に付こうとした夜警に「無用だ。我らは罪人ではない」と小声で告げる。途端に手持ち無沙汰となった彼らは、静かに佇むギケイに目を付けた。「地下牢へ」というギルモアの冷たい囁きを受けて、彼の両腕を取る。室内に残った数名の国境警備隊員が一瞬、ぎょっとした表情を浮かべるが、当のギケイ本人はそれを意に介する素振りも見せず、促されるままに歩き始めた。
その背中を見送りながら、ギルモアは内心で首を捻る。
ギケイ……
幼少期から、その名を繰り返し聞かされてきた。両親の口伝で、あるいは、ローガン家の嫡流のみに代々継承されてきた禁書で。にも関わらず、得体の知れない不可思議な逸話も相まって、それがどの様な人物だったのか、どうしても思い起こせない。
現に、ギケイ本人だというあの男を前にしても、特筆すべき印象は何も残らなかった。黒髪の見慣れぬ風貌をしている。そう、あそこまで漆黒の髪はこの地方には見られない。だが、それだけだった。彼の相貌を思い描こうとしても、ギルモアの脳裏には早くも靄がかかった様に曖昧な面影しか浮かんでこない……
だが、所詮は黴の生えた禁書。そこに書かれた人物の伝承など、今は捨て置いて支障ないだろう。それよりも、当面の懸念はフィオナ王女の生還だった。それはギルモアが想定していた中で、事態が好ましくない方向に向かいつつあることを意味している。
「さて、忙しくなる……」
無人の夜警詰所から戸外に踏み出したギルモアの足下を、夜露が濡らす。だが、足早に王宮を目指す彼の意識は既に、今夜中に打つべき手に向けられている。
王宮の長い側廊を辿って夜露に濡れた足が乾く頃、先刻の男の姿もギルモアの脳裏から逃げ水の如く掻き消えていた。




