二顎兎擬
夕闇時の風が肌刺す山間部を、フィオナはようやく抜けようとしていた。
数日来の悪天候はようやく落ち着きを見せ、小雨に転じつつある。湿った山風に背を押されて獣道からまろび出ると、夕陽の金色に視界が満ちた。堪らず、瞳を細めるフィオナ。
眩しさに慣れると、黄昏時の草原が眼下一面に揺れていた。
洞窟を離れて以降は目に見えぬ追っ手の存在に脅かされながら、極僅かな休息を除いて一日を移動のみに費やしてきた。眼前の光景がもたらす解放感に思わずフラリと草原に踏み出しそうになるフィオナだったが、その出鼻を挫く者があった。
彼女に付かず離れず同行してきたギケイが、いつの間にか傍らに立っている。片腕を掲げてフィオナを制するその静かな横顔には、今朝方、ヴェスコニア人の少年の生殺与奪を巡って演じた小競り合いの名残などまるで見られなかった。
ギケイは山肌から眼下の草原を見下ろしながら、傾斜が緩やかになって草原へと繋がる付近を顎で示した。フィオナがそちらに渋々と視線を向けると、大小の歪な岩が横並びになって自然の庇状になっているのが見て取れた。「遮蔽物に乏しい草原に足を踏み入れる前に、あの岩陰で休息すべきだ」と言いたいのだろう。
王墓で野営中だった国境警備隊が、ムーア公国軍の急襲を受けた夜。思えば、あれからまともな食事や睡眠を取れないまま、そろそろ一週間が過ぎようとしている。ギケイの提案を素直に受け入れるのは業腹だが、フィオナとしても全身に淀む疲労感は否めず、彼が示した岩陰に向かって山肌を下り始める。
相変わらず彼の胸中は知れなかったが、これまで見せてきた言動の背景には旅慣れた者特有の合理性があることに、フィオナは気付いていた。彼女とは相容れないものの、あんな出来事があったにも関わらずいまだに彼の同行を拒まないでいるのは、きっとそのせいに違いない……
思考に意識を取られていたせいか、足下の何でもない地面の凹凸に足を取られそうになり、ヒヤリとする。国境警備隊の行軍中、若い隊員が軽く転倒しただけなのに足首を骨折して動けなくなったのを思い出す。
目の前の草原を突っ切って最寄りの集落までまだ数日を要するが、王権統治下の集落ならば移動手段の馬を工面できるだろう。運が良ければ早馬を調達することも出来るかも知れない。そうすれば、王都までの道程を一気に短縮できる。
こんな状況で負傷するわけにはいかない。
背後を振り向いて片腕を差し出すギケイに視線だけを返して、慎重に傾斜を下っていく。
彼が示した岩陰には遮られた夕日が静かな薄闇となって淀み、地面を冷やしていた。四肢に溜まった疲れを隠して、ゆっくりと腰を下ろす。硬く湿った地面の感触が、山歩きで熱を帯びた下半身に心地良い。
このまま身を横たえて目を閉じてしまいたい衝動を抑えつけて、背後の岩肌に肩を預けるだけに留める。一度伏してしまえばまちがいなく、次に起き上がるのが恐ろしく億劫になる。
年若い彼女をしてその有様だというのに、ギケイは岩陰の端で静かに佇んでいる。たったいま抜けてきた山道と草原の両方を視界に納める姿勢で、周囲の安全を確認しているらしい。
不意に、ここまで数日の行動を共にしながら疲れた様子を全く見せない彼の有り様に疑問が湧いた。いまこの時間の目的はフィオナに休息を取らせることにあって、彼はそれに付き合っているに過ぎないのだろう。
本当に生きているのか、この男は。
そこに間違いなくいるにも関わらず、どこか生身でない様な、希薄で人間味を欠いた印象を受ける。頼まれもしないのに窮地のフィオナを救い出してそのまま護衛を務めながら、地位や名誉を求めているわけでもなさそうだった。どうやら無一文らしいが、それに頓着する様子もない。
そもそも利に聡い者ならば、次期国王たる実兄に疎まれ遠ざけられているフィオナに肩入れしようなどとは端から考えないだろう。だが、それならばなおさら、この男は何のために、どこまで自分に随行するつもりなのか……
口に出したつもりはなかったが、胸中の疑念が無意識に溢れていたらしい。フィオナの視線の先で、ギケイの口元が微かに動いた。
「……なに?」
「今宵は朧月夜になる、と言ったんだ」
「おぼろ…… それは何だ」
ギケイが顎先で上方を示す。
「空全体に靄が薄く掛かっているだろう。やがて月が昇ると、この薄靄に明かりが宿って夜空全体が淡く輝く。それが朧月夜だ。つまり、明るい」
いま、月はまだ地平線の少し上にあって、周辺の靄だけを仄かに照らしている。だが、いずれは高く昇って、ギケイが言う様な空模様をもたらすのだろう。そして、それは逃げる者よりも追う者を利する。ギケイが言わんとするところが、何となく感じられた。
「お前は、空に詳しいんだな」
「そうか」
「あぁ。空ばかり見ている」
「そうかも知れん。空だけは、いつの時代も変わらずそこにあるからな」
そう呟く横顔には何ら感情が窺えず、手を伸ばせば指先で触れられそうな静けさだけが形を成して際だっていた。やはり、フィオナがこれまで見知ってきた人間とは異なる、不思議な人物だった。
目撃者ならば子供を殺めることも辞さない苛烈さ。今日、フィオナはここまでの山道を辿りながら、あの場面をずっと反芻してきた。非道であり、彼女としては断じて認められない。だが、それでも、あの状況で下した彼の判断を単純に「悪」だと断じる権利が果たして自分にあるのか、フィオナは判じ兼ねていた。
ふと、思考がそのまま唇からまろび出ていた。
「私を試しているのか、ギケイ」
彼は、さっきと同じ場所に佇んで周囲を警戒している。その口元が微かに揺るむのを、フィオナは見た気がした。
「さて、どうする」
「知れたことを。このまま草原を突っ切って、王都に向かう」
「そうではない。囲まれつつあるぞ」
「……何を言っている。我々の他に、誰がいると言うのだ」
「追ってくるのが人間だけなら良いのだがな」
ハッとしたフィオナが草原を見渡すのと同時に、程近い茂みからなにかがひょこりと突き出てきた。
それは動物の頭部だった。柔らかそうな毛に覆われ、丸みを帯びて愛嬌のある表情。瞳は扁桃状に切れ長で大きく、深い紅色。その上部に長く伸びた大小二対の耳介をそれぞれバラバラに動かして、二人の様子をしきりに窺っている。
「なんだ。藪兎ではないか」
警戒を緩めて近付こうとするフィオナを、ギケイが制する。
「待て。兎にしては大胆過ぎる。それに、あの模様を見ろ」
「模様?」
訝ったフィオナが再び視線を向ける。首から下は茂みに隠れていて窺えなかったが、ひょっこり突き出た頭部には耳介の根本付近からクリクリと愛らしい瞳を通って口元まで、黒い縦縞が太く走っている。
「これは、旧い友人が言っていたのだが」
二人から向かって右手の茂みから、よく似た頭部がもう一つ、ひょっこりと姿を表す。その仕草自体は愛くるしかったが、正面の頭部よりもやや大型で、そして同じく黒い縦縞が刻まれている。
「自然の造形には必ず意味がある、らしい」
「何が言いたい。手短に話せ」
「あの頭部に走る縦縞模様には、太陽の眩しさを減じる効果があると言われている。そして、その恩恵に浴するのはやはり、動かぬ草木ではなく逃げ回る獲物を狩って、捕食する生物であろう。つまり」
今度は左手の茂みから三つめの頭部が現れ、その思わぬ近さと大きさにフィオナが反射的に一歩飛び退る。彼女が見知った藪兎は成体でもせいぜい人間の子供程の大きさだったが、目の前に現れた頭部から推測するに、茂みに隠れた体躯はフィオナよりも大きい。
「こいつらは二顎兎擬という。群れで狩りをする、中型の肉食獣だ」
ギケイが口早に告げるのと同時に、三頭の兎達が口元を振動させて奇妙な音を立て始めた。歯牙を細かく一定間隔で打ち合わせて繰り返す旋律は威嚇か、仲間達への合図か。
やがてその旋律が次第に緩慢になると、上下の顎が首元まで深く裂けて大きく開かれ、さらに下顎が前方に迫り出して二つに分かれた。喉の奥から伸びてきた黒く細長い舌をしきりに震わせ、涎を垂らし始める。
「相も変わらず、奇体な面構えよ」
いまや兎には似ても似つかない獰猛な相貌。その口元に鋭利な牙がびっしりと並ぶのを認めたフィオナが、前方に身を踊らせて中央の最も小柄と思しき個体に、細身の片刃剣を抜き放つ。
その後方、囮役にまんまと釣られたフィオナの背を、溜息混じりに見遣るギケイ。背後の岩陰から跳躍して襲い掛かってきた二顎兎擬を振り向き様、彼は一刀の下に斬り捨てる。柔らかな腹部を切り裂いた長い傷口から臓物が白く溢れ落ち、その後を追って鮮血がどろりと垂れてきた。
黄昏の寂光が地平線から消えて、長い夜が始まりを告げた。