足音
黒灰色の地面近く、泥混じりの滴が無数に跳ねている。
それらが奏でる絶え間ない雨音に、微かな足取りが確かに聞こえた。慎重な歩調。自分達の存在が相手に知れていると、即座に判断するフィオナ。視界の隅にギケイを探ると、彼はいつの間にか入口から死角となる窪みに身を寄せて黒い影に溶けている。その素早さに内心で舌を巻く。
相手はムーア公国軍の斥候だろうか。
平時であれば、隠密狗を擁する部隊が二人の足跡を辿ることは容易だろう。しかし、フィオナとギケイはヴェスコニア自治州を横断しながら、アルタイル王都、つまり王国領土の中央を目指している。
いかに王国の統治に抵抗している土地柄とはいえ、他国軍が大手を振って活動出来る領域ではない。まして、ここ数日来の悪天候は、隠密狗が足跡や匂いを辿ることを困難にしたはず……
黙考するフィオナの視界で、白い雨幕に溶けていた人影が徐々に露わになる。
雨除けの薄黄色の上衣を羽織った小柄の体躯。薄い両肩は黒く濡れそぼち、額に張り付いた髪の下で小さな瞳が好奇と警戒に見開かれている。携えた短杖を慣れた仕草で支えとしながら一歩一歩こちらに距離を詰めてくる、その足下には朝陽を湛えた雨滴が無垢に輝いていた。
「子供……」
フィオナの呟きが耳に届いたのか、洞窟の入口付近でピタリと足を止めた少年がこちらを覗き込む。所々に継ぎ布の当たった質素な服装に素朴な生活が窺えた。近隣に住まう牧童といったところか。戸惑いながらも背後を振り返らない様子から、同行人はいないと推し量る。
「おねえさん…… だれ?」
数秒間の沈黙を経て、声変わり前の声が洞窟内に高く響いた。辿々しい発音。ヴェスコニア人独自の言語ではなく、アルタイル王国を始め大陸全土で用いられる公用語だった。フィオナの容姿と服装から、同郷人ではないと判断したのだろう。利発な少年だ。
「僕、隣村に行くところなんだ。雨宿りしようと思って……」
「私はフィオナ。理由あって旅をしている」
僅かに緊張を解いたフィオナが少年を洞窟内に招き、小さな足が薄闇を踏んだ瞬間、死角から躍り出た影が彼を捕らえて地面に引き倒した。微かな悲鳴を上げようとした喉元すら掌で圧迫され、少年は驚きに相貌を引き攣らせる。
「待て!」
膝下に少年を押さえ込んで刀の柄巻に手を添えたギケイに、フィオナが咄嗟の声を放つ。その響きには命じる行為に躊躇を持たない、誰しもが身を強ばらせる鋭さがあった。が、肝心の相手は少年に油断ない視線を落としたまま、唇の端で溜息を細く漏らすのみ。
言葉を継ぐフィオナの声が、怒気に震える。
「何をする気だ」
「案ずるな、いきなり殺めはしない」
「相手は子供だぞ!」
対峙する二人の下方から押し殺した嗚咽が漏れて、全身を強ばらせた少年が下腹部を黒く濡らす。湿った臭いが立ち昇ってきた。二人の間にフィオナが肩を割り込ませると、渋々といった様子でギケイが身を引く。だが、その四肢に油断はない。
「忘れるな。その程度の芝居、刺客ならば造作もなくやってのける」
「お前は黙っていろ。この少年と話がしたい」
幼い手を取って少年を立ち上がらせ、焚き火の側に座らせると自ら火を熾しに掛かるフィオナ。その背を鋭く見詰めていたギケイも、諦めの溜息を吐きながらその場に腰を下ろした。
優しく話し掛けるフィオナに対して、身を震わせる少年。だが、暫くすると焚き火の温もりに緊張が和らいできたのか徐々に口を開き始めた。彼によると、住まいはこの洞窟から程近く、共に暮らす祖父の常備薬を処方してもらう為、隣村へ向かう途中だという。
「嘘じゃないよ。薬を受け取った帰りだったらそれを見せられたのに」と必死に訴える少年に「その必要はない。君の命は私が保証する」と告げるフィオナ。彼女の背後では、ギケイが洞窟の薄闇に紛れて沈んでいた。そのシルエットに向かって、唇の端で問いを投げる。
「どうする気だ」
「知れたことを」
「ならぬ」
「ヴェスコニア人、と言ったか。その少年もそうなのだろう」
半身を振り向けて、ギケイに対峙するフィオナの瞳が逡巡に揺れる。背後に伸ばした腕は無意識に少年を庇おうとしていた。
「それがどうしたと言うのだ」
「この地の民は王制に抵抗している、と語ったのはお主ではないか」
「……」
「その少年、村に着けば、間違いなく大人に話す」
「民族運動に関わる者の耳に届くとは限らぬ」
「その通りだ。従って、測定不能なリスクは……排除する」
「よせ!」
フィオナが一喝した刹那、背後で大きな物音がした。洞窟の外へ駆け出そうとした少年が、薪木に蹴躓いて焚き火を崩したらしい。降りかかる火の粉を払うことも忘れて何とか立ち上がろうと焦る少年に向かって、摺り足で瞬時に距離を詰めるギケイ。その抜刀間際の体側に形振り構わず細身を力一杯ぶつけ、フィオナが縋り付いた。
「離せ、フィオナ」
「ここは我が国の領土。狼藉は許さん」
「俺は誰の許しも求めていない」
洞窟の外、雨中に躍り出る少年。背後を振り返ると、さっきの男が暗闇から走り出てきた。腰を低く落とした不思議な姿勢で、地面を滑るみたいに迫ってくる。前を向き直った少年が両脚に力を込めようとした瞬間、その細い背に向かってギケイが回し蹴りを放った。
衝撃。そう、あの黒い姿を見た瞬間から僕は知っていた。逃げきれるはずはないと。浮遊。躯が空を横切って景色がゆっくり流れていくけれど、この間延びした感じはきっと錯覚だろう。地面。数日来の雨に洗われた岩屑土は至る所に鋭利な小岩を露わにしている。これから自身に起こる事を想像する。どう考えても痛そうだ。普段なら怯えに直結するはずなのに、今はなぜか他人事みたいに感じられる。
でも、僕の思考などお構いなしに、接地の瞬間はやってきた。
まずは肩。一度では勢いを殺しきれずに、また躯が跳ね上がる。上下感覚の喪失に戸惑った次の瞬間、背中に強い衝撃があって胸の中の空気を全部吐き出してしまった。そこからはもう何がなんだかわからないまま、色んな種類の痛みに塗れながら地面を滑って、そして、止まった。
途中、服が裂ける音が聞こえた。数日前、母親に繕ってもらったばかりなのに。四肢が訴える痛みの鮮やかさに呻き声が漏れる。さっきぶつけた肩は反応しないけれど、本能が警鐘を鳴らしている。反対側の腕はなんとか動いてくれたそうだ
泥塗れの躯を震える片腕で支え起こそうとする少年の背後。無表情に見下ろすギケイの指先が刀の柄巻に伸びる刹那、フィオナが再び割って入った。至近距離で対峙する二人。
「これが最後だ。どけ」
「子供に手は出させない」
フィオナは左掌底で刀の柄頭を抑え込んで抜刀を封じると同時に、眼前の横面に向けて右肘を放つ。背を反らせて難なく躱したギケイの口から、感心の呟きが漏れる。
「ほぉ。多少は心得があるのか」
「私のやっている事が軍人の真似事か、その身で試してみるが良い」
鼻が触れ合いそうな距離で睨み合う二人を、早朝の冷雨が薄っすらと包んでいく。
初手はやはりフィオナだった。微動だにせず自分を見下ろすギケイの頬を雨が伝い落ち、やがて顎先から滴る一粒の雫となって離れた瞬間。上背でやや勝る相手に至近距離から渾身の膝蹴りを放つ。
フィオナ専属の教育係として着任したばかりのダレル・ローガンが、戸惑いつつも日課に組み込んだのが「護身術」だった。当時は容赦ない軍式稽古に閉口したが、いまならばそれが王宮におけるフィオナの微妙な立場を慮ってのことだったと理解できる。
初手をギケイの不思議な身のこなしにいなされても、間髪入れずに次の動作に転じるフィオナ。ここ数日の鬱屈した感情も相まって、矢継ぎ早に拳脚を繰り出していく。合数を重ねるに従って、次第に広がる二人の距離。それこそは今のフィオナが望む唯一つの結果だった。
相対するギケイはいつしか、静かな眼差しでフィオナの技量を測ることに傾注している。そのことにフィオナが気付くと同時に、彼は両腕をだらりと垂らして呟く。
「……時間の無駄だな。すぐにここを離れる」
視線を巡らせる。洞窟から伸びる細道の先、雨煙の向こうに走り去る少年の背を小さく見た気がした。
降り続く白幕に阻まれて、その足音はもうフィオナの耳に届かない。