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雨幕

 洞窟の入口から差し込む白光の冷たさに、フィオナ・ガーウェンは夜明けを知った。


 焚き火の側で、きしむ躯に顔をしかめつつ頭をもたげる。僅かにくすぶるばかりとなった熾火おきびに手をかざしても、そこに温もりはもう残っていない。


 国軍の新兵訓練で身一つのまま野戦地で朝を迎えたことは幾度もあったが、国境警備隊の長に着任して以降は天幕内に据えられた簡易寝台を使うのが常だった。現状に不満はない。ただ、一軍属でありたいという彼女自身の意志はやはり置き去りのまま、どうしようもなく特別待遇されてきた事実が心にまた一つ綻びとなって残る……


 自身の些末な感傷に見切りをつけて、洞窟の外の景色に視線を向ける。その眼差しには少なからぬ期待が込められていたのだが、彼女の目に映るのは昨日来から変わらぬ白く煙った樹林だった。


 鼓膜を打つ背景音もやはりそのまま、大粒の雨が黒灰色の岩屑土がんせつどを飽くことなく叩いている。この様子では、乾いた薪の追加調達などまず望めない。胸中に滞留する洞窟の湿った空気。それが深い溜息として漏れ出ようとした刹那、フィオナは思わず息を詰める。


 焚き火を挟んで向かい側には、男の姿があった。「ギケイ」という名の出自知れぬその人物は洞窟の壁に背を預け、片膝を抱えた姿勢で腰を下ろしている。


 洞窟の入口へ傾けられた静かな相貌。いまは目蓋を落として躯を休めている様子だが、昨夜も洞窟を通り掛かる野生動物に薄目で反応していたことから意識は手放していないらしい。弛緩なく四肢を寛げてうずくまった姿に、フィオナは黒くとぐろを巻いた蛇を連想する。


 隣国のムーア公国軍と思しき部隊によって急襲を受けた、フィオナ率いる国境警備隊。隊長である彼女が捕縛された山村に目の前の人物が単騎で駆け付け、敵部隊を圧倒してから既に四日が経過していた。いや、正確を期するなら、軍馬を駆って山村に現れたのは目の前の人物ではなく巨躯の男(、、、、)だったのだが……


 敗走した国境警備隊のその後の消息はいまだ知れないが、不運は重なるのか土地がまた良くなかった。


 敵軍はもちろん承知の上でのことだろうが、件の山村はアルタイル王国領土内にありながら、王権による統治に抵抗する自治州内に位置していた。そこは建国王ガーウェンがこの地に王政を敷く遙か以前より、山岳地帯に身を潜めて暮らす遊牧民の地。


「ヴェスコニア人」と自らを称する彼らは独自の文化、宗教、歴史と民族性を数千年に渡って維持しながら今日まで王国による統治に根強い抵抗を示している。つい昨年も若者主導による過激な民族運動が小規模の武力蜂起にまで発展、アルタイル国軍が出動して鎮圧した経緯はフィオナの記憶にも新しい。その結果、暗澹たる状況下にありながら近隣の村落に助力を請うことも出来ず、得体の知れない男と二人、慣れない土地での逃走を余儀なくされている。


 ムーア公国の隠密部隊が潰走、無人状態の山村を速やかに脱したまでは良かったものの、鋭い岩石片が並ぶ山岳地帯の急傾斜に難渋していた二人を猛烈な雷雨が襲った。彼らと同じく雨滴に濡れそぼった山犬を追う内に、雨風を凌げる程度の洞穴を見つけたのはまさに僥倖と言えよう。


 だが、洞窟の中から望む景色は今朝もなお雨幕に白く煙ったまま、視界も極一面を切り取るだけで近辺の地勢を探ることすら叶わない。とにかく、何もかもが不鮮明だった。


 そして、不鮮明と言えば「ギケイ」と称するこの異国の剣士。


 いまのところフィオナを害する素振りはなく、それどころか頼まれもしない護衛まで務めるつもりらしい。だが、その姿勢に意欲が感じられるかといえば疑問符が浮かぶ。むしろどこか流れに身を委ねて諦観している感も否めない。


 ただ、僅かな機会ながら垣間見た剣技の冴えは尋常ではなく、行動原理が窺い知れないという点ではムーア公国軍以上に油断できなかった。いや、それだけではない。王墓で対峙していた巨躯の剣士についてフィオナがいくら問うても、この男は口を閉ざすばかり……


 目の前の男に倣って洞窟の壁に背を預け、両膝を立てて座り込む。冷えた手の平を後頭部に添えると、編み込んだ髪に籠もった僅かな温もりすら儚く消えた。


 ……あの一夜で一体何人の兵を失ったのだ、私は。部隊の構成人員は脳裏に刻まれている。だが、彼らを思い起こすことをこれまで忌避してきた。それはなんという惰弱か。だが、幼少期から彼女の側に仕え、国境警備隊でも参謀を務めたダレル・ローガンですら、その生死が知れない。


 その心細さが自責と後悔を伴って喉元を狭窄させ、嘔吐を誘う。ここ数日というもの、移動中に採取した僅かな木の実と雨水で凌いできたせいか、こみ上げる吐瀉物も僅かな量だった。それを辛うじて嚥下する代償として、口許から吐息が漏れるのを許す。



「……が、欲しいな」



 焚き火跡の向こう側から響いた掠れ声に、フィオナが顔を上げる。そこには洞窟の薄明の中、鈍く光る男の視線があった。



「何だと?」


「酒が欲しい、と言ったのだ」


「呑気な事を…… 手近の集落に立ち寄ればありつけるだろうが、この地にあってそれは叶わぬ願いだ」


「そこに蜂蜜酒ミードはあるか」


「蜂蜜酒……? 民がそれぞれの家庭で仕込むというアレか。ここは寒冷な山岳地帯だ。採れたとしても蜂蜜は僅かな量だろう。麓に下ればあるいは……」


「もういい」



 彼女の言葉を遮ったかと思うと唐突に目蓋を閉ざし、再び黙り込む剣士。兄に疎まれて国家の中枢を追われた身とはいえ、フィオナは紛うことなく王族の一人。当然ながら、こういった扱いを受けることには馴染みがない。


 数日来の鬱屈した思いが、生来静穏な気質の彼女をして口火を切らせた。



「良かろう、ギケイとやら。無聊ぶりょうの慰みに、仕切り直そうではないか」



 対する男の端整なかんばせは微動だにしない。関心がないということか。それでも声調を努めて抑えながらフィオナは言葉を継ぐ。



「まず、あの夜、最初の問いを思い出せ。その方、王墓で何をしていたのだ」



 これまで通り、彼女の言葉は黙殺される。苛立ちに震えるフィオナの指先が、僅かに残った薪の一本に伸びた。木片を握り締めた五指はすぐに変色して、暗がりに白く浮かび上がる。



「やはり答えぬか。余程後ろ暗い事情があると見える。では、もう一つの問いだ」



 次第に低く冷たさを帯びていくフィオナの声。だが、男はやはり眉一つ動かさないままに沈黙している。



「お前、一体何者だ」



 雨滴が地面を打つ音だけが、洞窟内の空気を微かに震わせる。樹皮のささくれが掌に食い込むのも意に介さず、握り締めた薪を頭上に振りかぶるフィオナ。苛立ちに任せた腕が振り下ろされようとした刹那、渋々といった調子でギケイが小声を返す。



「……その問いには既に答えた。我が名がギケイであるという以外、過去の記憶はない」


「その様な世迷い言、よもや通用すると思っているのか」



 双眸を憤りに揺らし、細い鼻梁を朱色に染めるフィオナ。片手に握り込んだ薪をギケイの鼻先に突きつける。



「この状況と無関係とは言わさぬ。知っている事を全て話せ!」


「……黙れ」


「これが黙っていられるか。お前の目的は何だ。何が欲しくて私と行動を共にしている?」


「その口を閉じろと言っているのだ、フィオナ!」



 初めて呼ばれた自分の名に虚を突かれ、身を堅くする彼女。対する男は洞窟の入り口に向かって中腰になり、薄茶色の瞳を細めている。


 彼が唇の端で「誰か来る」と告げた刹那、雨幕の向こうに人影が浮かび上がった。

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