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孤島にて

 碧色の絶海に小島が二つ、南北に隣接して浮かぶ。


 南の島には風化した人家の痕跡が辛うじてしのばれる一方、北の島には殺風景な岩場がただあるがままに広がる。


 この孤島に暮らして、どれほどの年月が流れたのか。


 巡る季節の閑寂枯淡かんじゃくこたんのみを慰みとする日々は、島を吹き抜ける海風を依代(よりしろ)としていつしかこの身に染み入り、その暴力的な単調さに俺の意識は漂白されつつあった。


 だが、これで良い。この世界で俺が拘泥こうでいするのは、唯一人。もうそれだけで十分だった。


 入り江を望む緩やかな傾斜。そこには、島の規模に応じて慎ましい数ながらもかつて人の暮らしを内包したであろう、石造家屋の痕跡が散在する。そして、長い年月を経て崩れ落ち、基礎部分を晒しているそれらを見守る傾斜の頂には、奇妙な外観の建築物が忽然と姿を現していた。


 眼下の石造家屋と違って屋根は落ちていない。それどころか、その建物は石造家屋ですらなかった。平屋の基本骨格、屋根、外壁全てが透明度の高い素材で構成され、建物内部の調度が外から見て取れる。


硝子ぎやまん」の一種らしいが、建築材料として求められる強度、耐久性をこの寸法で実現する製法はこの時代にまだ確立されていない。また、その屋内空間で営まれる暮らしに目を留める人間も、この島には最早生き残っていない。


 いずれにせよ、ここが俺の起居する住まいだった。


 水平線近くから放たれた冬の暁光が、島の側面を仄かに照らしていく。やがて、透過性の外壁材で濾過されたそれは、僅かな白濁を帯びて室内の寝台へ柔らかに届いた。淡い微睡みから目覚めた俺は、暖炉でくすぶる木片を炉辺に移す。錫製の器に「蜂蜜酒ミード」を注ぐと、弱火にかける。


 かつて、この孤島には「アルキナティア」と呼ばれる固有種の植物が島中至る所に朱い花をつけていたという。それらは現在、島の南側の斜面だけに群生している姿が見られる。


 この朱い花を好む「瑠璃雀蜂ルリスズメバチ」という碧色の大型昆虫の巣から採集した蜜を水で希釈し、数日から数週間放置すると原始的な発酵飲料、蜂蜜酒ミードとなる。人類最古の酒類といわれ、「不死の飲み物」として神話に謳う文化もあるという。


 やがて、白銀色の錫器の縁で淡琥珀色の液体が細かな気泡を帯びて、植物性の香りが甘やかに室内を漂い始めた。耳に届くのは窓外に吹く海風と、泡立つ蜂蜜酒から聞こえる微かな音。その蒸気は煙突を伝って空に解放されると海風に誘われて舞い上り、やがて雨滴となって再び大地に降り注ぐらしい。


 この法則はそのまま、天土あまつちの間に生きる命にもあまねく通ずるのだろう。万物は流転し、何人なんびとも同じ川に二度入ることは叶わない。


 ならば「受肉」という女神の秘蹟によって編まれたこの肉体もやはり、過去の肉体と同一とは言えないのではないか。異なる肉体に宿りながら、自己同一性を抱いている「俺」は、かつての「俺」と同一だと言えるのだろうか。


 確かに、俺は自身を俺だと認識している。だが、そこに完全な同一性は担保されているのか。あるいは、限定的な同一性しか担保されないとすれば、それでも俺を俺だと認識し得る「魂魄アルマ」とは一体何なのか……



 背後から二本の腕が伸びてきて、俺の上半身をまろやかに束縛する。胸部を這うその冷えた感触、凍えた大理石の様に密な乳白色の肌は一対の白蛇を連想させた。



「起きたのか」


「この香りに誘われて。でも、少し煮立たせ過ぎじゃないかしら」


「考え事をしていた」



 蜂蜜酒から昇る蒸気に、俺の耳元で彼女が鼻を小さく鳴らす。



「次はシナモンを増やしてみるわ」



 そう囁いて背後の木製テーブルに着く彼女。湯気を放つ蜂蜜酒を硝子ぎやまん製の酒器に移すと、その前にことりと置いた。口許を僅かに緩めるのは、彼女が謝意を示す時のお決まりの仕草。


 額の中央で別れた白銀の髪が小さな頭蓋を絹の滑らかさで撫でて、流れ落ちた腰の辺りで密かな輝きを放って滞っている。その髪と同じ白色の眉、まつげが飾るほっそりとした相貌を中央で左右に分かつ、まろやかに芯の通った鼻梁。その残酷なまでに人間離れした左右対称性は、幾層にも上薬を塗り重ねた白磁を思わせる均質な肌と相まって、彼女の躯を時の流れとは無縁の静謐な完全性で秘匿していた。


 ただ、超然とした彼女の佇まいに唯一生命の兆しを見出すとしたら、それは瞳だった。仄かな気怠さを纏った伏し目がちな目蓋の奥にあるのは、蜂蜜酒よりも遙かに濃厚な琥珀色の瞳孔。静まりかえった白膜に覆われた存在において、その部位だけは外界に開かれた関心に薄く揺れていた。


 その瞳に冷えた冬の日差しを湛えて、静かな硬直に身を委ねている彼女。その向かいの席に腰を下ろすと、酒器に触れてその熱さを確かめてから彼女の掌にそっと握らせた。それを両手で包み込んで掲げた彼女は、薄い唇をすぼめてそっと息を吹きかける。猫舌なのだ。


 彼女に付き合って、二人でゆっくりと蜂蜜酒をすする。「ハニーワイン」とも称される蜂蜜酒だが、口内に含んだその風味はむしろ麦芽酒のそれに近い。蜂蜜の濃厚な糖分は発酵の過程で分解され、鼻孔をくすぐる甘い香りとしてその名残を伝える。それに彼女は独自配合のハーブを加えて、後を引かないすっきりとした飲み口に仕上げていた。


 硝子ぎやまんの透過性に包まれ、淡く濁った日差しに満ちた空間。暑くもなく寒くもない室内で調度と呼べる物は、いま使っている木製テーブルと簡素な炉辺、低くゆったりとした二人用の寝台、そして猫足の湯船だけだった。


 彼女と暮らしてどれくらいになるのか、記憶を辿っても霞の向こうにあるか如く指が掛からない。ただ、儚く脆い存在としてこの世にうごめく生命の渦中にあって唯一人、霧中の灯台のごとく彼女だけが無疵の極地に佇む対象なのは間違いなかった。


 テーブルに酒器をことりと置いて、早朝の陽射しに揺れる外海を捉える寛いだ眼差し。その横顔を、柔らかな丸みと素直な直線が描く端正な顎骨を視線でなぞりながら。


 ふと、これはかつて迎えた無数の朝に似て非なる場面だという予感に囚われた。目の前の光景は、記憶に見せかけて記憶ではない。かと言って、予知夢の類かと問われると、その答えもまた否だろう。


 ならばこれは、いまこの瞬間に起こっている「現実」に他ならないのではないか。



「……戻ったのね、ギケイ」



 彼女のその一言は、俺が全てを悟るに十分だった。



「あぁ。これは現実なのかな」


「それは貴方次第じゃないかしら」


「相変わらずだな」


「それはお互い様ね」



 酒器に白い手を伸ばし、一口含んだ蜂蜜酒ミードで言葉に潤いを与える彼女。だが、その仕草すら次の質問に込められた想いを覆い隠すには至らなかった。



「ねぇ、あの女は息災なの?」



 伏し目がちだった双眸の琥珀が煌めきを帯びて、慮外の鋭さで俺を射抜こうとする。昔から、この眼差しが苦手だった。とても。



「あぁ、相変わらず…… あと、『あの女』じゃなくて『天秤の女神』だよ」


「どっちでも良いわ。こうして貴方にもう一度会えるなら」



 蜂蜜酒の残りを一息に煽ると席を立ち、俺に背を向けて室内を横切る彼女。苛立ちを滲ませた足取りが向かうその先には、いつの間にか蒸気を立ち昇らせる猫足の湯船があった。


 彼女のほっそりと張り出した両肩を薄衣が滑り落ちて、均整の取れた艶やかな裸身を露わにした。均一な淡白色を帯びた肌はともすれば硬質に映るが、その皮膚の下にある滑らかな温もりを俺は思い浮かべた。



「なぁ、ミラ」



 俺の呼び掛けに背中を向けたまま立ち止まり、首だけで振り向く彼女。その横顔には慮外に憂いの色が濃い。思わず言葉に詰まった俺が眼差しで問い続けると、ミラの口唇から吐息が鋭く漏れた。



「わかってるわ。いにしえの約定でしょう」



 こんな時、彼女を包む白色が酷薄な印象を深めてしまう相貌にあって、その唇だけは密かに艶やかな量感であり続けていた。その不均整アンバランスは無疵の肢体に残された極微細な人間性の名残にも思えて、過去と変わらぬ無条件の愛着を抱かずにはいられなかった。


「安心して。今度も貴方の最期の相手は私だから……」


 沈黙する俺に彼女が告げた言葉。そこにはり合わされた諦観と愛情が、二人を緊縛する不可逆の殺意として結実していた。

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