表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/29

繊月

 馬上、巨躯の男は幅広の両刃刀を右手にダラリと下げたまま、もう片方の何も握っていない腕を差し出す。白銀に煌めく頭上の夜空へと。


 フィオナが捕らわれている民家の窓から、敵の残存兵力が広場を徐々に囲みつつあるのが見て取れる。あの男にも伝わっているはずだ、この不穏な緊張感の高まりが。その中心にあって、男の仕草は余りにも剛胆に映る。


 不思議に超然としたその佇まいは、フィオナにもう一人の男を連想させた。先刻、王墓に設営した簡易天幕の中でただ静かに膝を突いて視線を落としていた異国の剣士……



「見るがいい。あの月を何と呼ぶか、誰か知っているか」



 武骨な巨躯に似合わず、静かでよく通る声だった。夜空から視線を外して広場をゆっくりと見渡す男。だが、応じる者はない。



「俺の故郷ではこの月を『繊月せんげつ』と呼ぶ。その名の通り繊維の様に細く、有るか無きか如き月だ」



 誰に向けられたとも知れない男の言葉に、彼を囲む気配はただ沈黙をもって応じる。



「そこで一つ提案がある。今宵、月の儚さに免じて退く気はないか」



 ようやく、微かなさざめきが敵軍に広がった。笑っているのだ。静かな嘲笑が浸透するにつれて、周囲の暗闇が揺れる。


 不意に一条の線が広場の中心に向かって飛来し、男が跨がる軍馬の肩口に突き立った。驚いてのけぞる馬の背から、意外な身軽さで地面に降り立つ男。そのまま倒れ込んだ軍馬は時を置かず白目を向き、口端から泡を吹き始めた。毒矢に類する暗器なのだろう。


 天に召されつつある馬には一瞥もくれず、剣先を地面に下げたまま無造作に佇む巨躯の男。その姿に油断なく視線を向けたまま、隠密狗ステルスハウンド使いの敵兵がフィオナに問いかける。



「……何者ですか、あの男は」


「さて、それが奇妙な話なのだが。私にも心当たりがないのだ」


「先刻の場所は貴国の始祖、ガーウェン王が眠る地に相違ないですね?」



 その横顔は平静を装いきれず、緊張にひきつっている。



「いかにも」


「貴国とは縁浅からぬ関係。我らの耳にも彼の人の伝承は馴染んでおります。あの御仁はまるで……」



 言葉を探る男が沈黙した刹那、包囲網から進み出た一人の敵兵が巨躯の男に対峙して…… 横凪ぎの一刀で無造作にその首を飛ばされた。残心を取る男の背後から間髪入れずに襲いかかる影が二つ。だが、その重々しい外観とは裏腹の鋭敏さで振るわれる両刃刀によって、数秒と保たずに地面へ倒れ伏す。



「ありえぬ……」



 敵兵の呟きがフィオナの耳に辛うじて届いた瞬間、巨躯の男が首を巡らせてこちらを向いた。捕らわれている民家の窓越しに二人の視線が交錯する刹那、彼女は見た。顎髭に埋もれた男の唇が得体の知れない微笑に歪むのを。


 前のめりに駆け出した巨躯の男が、包囲網を切り崩しに掛かる。瞬く間に広場は乱戦の様相を呈した。同士討ちを恐れて飛び道具を使えずにいる敵軍をあざ笑うかの様に、星明かりに鈍く軌跡を残す両刃刀。間合いも何もなく、その刃は触れた者に絹で撫でられたが如き感触だけを残して両断していく。フィオナが捕らわれている民家を目指して、骸の細道がゆっくりと伸び始めた。


 民家の入口に立っていた隠密狗使いの男が、膝を震わせながら室内へと後ずさってくる。窓際で椅子に縛り付けられたままのフィオナの背後に彼が回ると同時に、入口の木扉が蹴破られて弾け飛んだ。太い首を窮屈そうに屈めて、室内へゆるりと入ってくる巨躯の男。背後の広場に立てる者は残っていない。動ける敵兵は広場から距離を置き、暗闇で息を潜めて状況を窺っている。


 両刃刀の剣先を下方へ向けて床に垂直に立て、握り柄に両手を添えて直立の姿勢を取る巨躯の男。それだけで、室内を尋常ならざる威厳が圧する。



「この部隊を率いるのはお主か」



 フィオナの背後で男が頷く気配があった。と同時に、彼女の喉元に硬く冷えた金属が押し当てられる。その鋭利な感触に躯を硬直させるフィオナと視線を交わしながら、巨躯の男が溜息を漏らす。いましがた人を斬り伏せたばかりだというのにその双眸は静かに弛緩していて、その事実が彼女に不可解な身震いもたらす。



「幾星霜経ようとも、むことなく殺し合う。お主等は何故、そうも死に急ぐのだ」


「……我が部下を血祭りにあげたのは御身であろう」


しかり。だが今宵、天秤の加護は我にある。痛み分けとせよ。その女を置いて去るが良い」



 背後からフィオナの髪を掴む五指がこわばり、彼女の日に焼けた首筋に一条の血液が滲む。だが、眼前の巨躯の男は動じる素振りも見せず、鼻を鳴らして言葉短く告げる。



「追いはせぬ」


「二言はないか」


「我が言葉を疑うか、痴れ者が」



 喉元の硬い感触が不意に緩んだ。黒衣を纏った敵兵が、壁に背を押し付けながら慎重に移動していく。巨躯の男はその言葉通り、椅子に拘束されたフィオナに顔を向けたまま剛胆にも目蓋を下ろして身じろぎ一つ示さない。隠密狗使いが木扉からスルリと戸外へ身を滑らせると、民家の周囲を取り囲んでいた微かな気配もさざ波の様に引いていった。


 室内に残された二人の間を沈黙が行き交う。フィオナの浅い息遣いだけが室内の空気を揺らす。やがて、胸郭から喉元へこみ上げる圧に屈したフィオナが、一息に嘔吐した。噴き出したそれが窓際の床、そして彼女自身の貫頭衣チュニックの前を汚す。横隔膜が引き攣って、止めどなく咽せる。巨躯の男はその背後に回りながら、静かに呟く。



「その程度の覚悟で一軍を率いるのか。迷惑極まりないな」



 椅子の背に縛り付けられていた手首の拘束が、徐々に緩んでいく。



「王族の姫君が、この様な前線で軍人の真似事。なぜだ?」



 両膝に掌を置いて立ち上がろうとするフィオナ。だが、自らの四肢にその意志を拒まれ、椅子から転げ落ちた。自らの吐瀉物の上に肩から倒れ込み、髪と頬が生温い不快にまみれた。再びこみ上げる嘔吐感を飲み下し、背後の男に反論の言葉を投げ付ける。



「これは断じて真似事などではない。私は自らの天分をわきまえ、この任に就いている」


「今宵、幾多の若者が命を落とした。全てお主のせいだ」


「……あの者達には、相応の弔いをもって応じる」


たわけ。自軍だけの話をしているのではない。敵軍にも死者がおびただしい。結果、今宵の天秤は自身の重さを大きく減じることとなった」


「それはお前が片っ端から叩き斬ったせいであろうが!」


「では、あのまま虜囚りょしゅうの身に甘んじるを良しとするか」


「私はどうすべきだったと言うのだ!」



 吐瀉物に濡れた顔を床から引き剥がし、灰色の瞳にありったけの怒りを込めて背後を振り返るフィオナ。だが、そこに立つのは巨躯の男ではなく、痩身の異国の剣士だった。つい先刻、簡易天幕で静かに膝を突いていた姿が彼女の脳裏に浮かぶ。



「な…… お前は一体……?」


「説明する気はない。立て。ここを離れるぞ」



 震える膝を叱咤して、男に続いて戸外へ出る。乾いた夜気が濡れた半身に冷たい。草葉から立ち昇る虫達のさえずりが、その夜のフィオナの意識に初めて届いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ