敗走
誰かが肩を掴んで、激しく揺さぶっている。耳元で叫ぶ声の遠慮なさに、思わず顔をしかめる。
「参謀…… ローガン参謀!」
覚醒と同時に、意識を失う直前の緊張感がダレルを襲った。愛用の戦斧を求めて伸ばした腕が空を掴む。視線を巡らせると、見覚えのある隊員が自分を見下ろしていた。その顔に浮かぶ安堵の色を不審に思う。
簡易天幕の内部は奇妙に静まり返っている。上半身を起こすと腕に受けた矢傷が痛み、思わず呻き声が漏れた。応急処置を施そうとする隊員を、片手で制する。
「それよりも、外は…… どうなっている」
「状況は未だ確認中ですが、被害は余りにも甚大です。殲滅こそ免れたものの多くの隊員が生死不明…… 組織的な行軍は困難かと」
「殲滅を免れた…… 敵軍はいま何処に?」
「敵軍も相当な被害を被った様子で、散り散りに敗走していきました。あの、ローガン参謀……」
「敗走? どういうことだ。姫様は?」
「この天幕から現れた人物が…… あの御方は一体?」
慌てて身を起こし、ふらつく両脚を叱咤して簡易天幕の外に出る。先刻と変わりなく、天上に月が細く掛かっている。湿り気を帯びた微風が夜半の丘陵を低く撫でて、鼻腔に粘ついた感覚を残す。血臭。それは紛うことなき戦場の匂い。
「何ということだ……」
星明かりに目が慣れるに従って、情景の異常さが浮かび上がってきた。
ダレルが気を失っていた簡易天幕を囲んで死屍累々と拡がる惨状。それらはいずれも頸部を一刀の下に断たれていて、確かめるまでもなく悉く事切れていた。人間の骸に折り重なって、隠密狗までもが絶命している。
「あの黒髪の男がこれをやったと言うのか」
「いえ、違います。もう一人の……」
ダレルが視線を向けると、そこには頬を赤らめた隊員の顔があった。畏怖の背後に奇妙な高揚がちらついている。崇敬。礼讃。この青年はおそらく、そういった感情に囚われつつある。
「まさか。そんはなずはない」
「いえ、ローガン参謀、ここは彼の王が眠る地。あれはまさしく…… 建国王ガーウェンその人でした。群がる敵軍に一歩も引かず、恐れ多くも我らを殲滅からお救いくださったのです」
面倒な事になったと内心で舌打ちする。
「……その人物はいま何処に」
「敗走する敵軍を追って、林の中へと姿を消されました」
隊員とともにほとんどの軍馬が命を落とした中、その人物は数少ない無傷の馬を見つけて駆けていった、と青年が補足する。
「援護は?」
「は?」
「我が部隊から誰か、その者の援護についているのか?」
「いえ、とてもその様な状況ではなかったので……」
「単身だと言うのか」
星空を仰いで、砕けんばかりに顎を食いしばるダレル。だが、彼の胸中を理解し、共感できる者はその場に誰一人として残っていなかった。
――――――
フィオナを背に乗せた隠密狗が疾走する。
さっき目隠しをされて視野が閉ざされているが、どうやら獣道を抜けるつもりらしい。行軍には適さないので通ったことはないが、ムーア公国との国境へ向かう方角だと朧気に認識する。
その名の通りに足音を立てずに駆ける隠密狗に驚嘆の念を抱きながら、フィオナは頭の片隅で現状を自省する。
平時の国境警備隊はフィオナ自身が率いる本隊の約400名、そしてその指揮下にあるいくつかの中隊で構成される。だが、今回の王都帰還にあたっては本隊を三つの中隊に分割し、そのうち二部隊を南方の対帝国防衛線に向かわせていた。
これは昨今の帝国の動向を踏まえての判断だったが、ここ二百年ほど争いのなかったムーア公国に対して警戒が弱まっていたのも事実。普段より手薄なフィオナの警護、見通しの利く丘陵地帯、建国王の墓参を翌日に控えての酒宴、月明かりに乏しい夜……
敵軍は何もかも承知の上で、今宵仕掛けてきたのだ。先刻の強襲でどれ程の隊員が命を落としたのか。フィオナを人質としたムーア公国側がどんな要求をアルタイル王国に突きつけてくるのか。
忸怩たる思いで黙考するフィオナの下で、六足獣がにわかに速度を落とし始めた。すぐ後方で手綱を執る人物が、何か言葉を発する。敵軍の兵がいつの間にか合流して、会話しているらしい。時を置かずして隠密狗が歩調をさらに緩めたかと思うと、やがて完全に停止した。
「フィオナ王女、どうぞこちらへ」
相手の慇懃な物腰が返って腹立たしい。誰とも知れぬ人物に手を取られて隠密狗から降りると、案内されるままに付き従う。前方で木扉が開く音が鳴り、誘導された先で椅子に座る様に促される。
背もたれに後ろ手に縛り付けられ、ようやく目隠しから解放された。安堵の溜息が漏れそうになるのを押し留め、わざと一息に吐き出して苛立ちを示す。だが、相手の兵士は無言のまま木扉から早々に退出していった。
一人残されたフィオナは仕方なく室内を観察する。蝋燭の薄明かりに浮かぶのは質素な民家の内装だった。窓外がまだ暗いことからして、国境を超えてはいないと推測する。どうやらアルタイル王国内の山深い村に連行されたらしい。そうなると、住民の安否が気掛かりだが……
さらに窓外を観察しようと躯をそちらへ傾けると、前庭の向こうに小さな家屋がいくつか映った。幸いな事に両足は束縛されていない。小娘一人、逃がさぬ自信があるということか。膝に力を込めると、思いの外あっけなく椅子が浮いた。滑稽な姿勢の自分を自嘲しつつも、そのまま両足を小刻みに動かして窓際へ移動する。
民家に面して楕円形に広がる空間が見えた。村の広場だろう。そこには予想通り、見張り役と思しき敵兵の姿もある。数は少ないものの、周辺の家屋内にも待機している可能性が高い……
暗澹たる心持ちでフィオナが思わず溜息を漏らした時、入口の木扉に人の気配があった。目深に黒衣を被った人物が、しなやかに入ってくる。
窓際に移動したフィオナに視線を止めつつ、口を開くつもりはないらしい。頭部を覆う黒衣を払いのけてやりたい衝動に駆られるが、椅子に縛り付けられた身ではそれも叶わない。
「この村の住民は何処にいる」
「預かり知りませぬ」
「では、私をどうするつもりだ」
「暫時ご休息いただいた後、此処を離れます」
「答えになっていない!」
苛立ちのままに床板に踵を叩きつけるが、相手は微動だにしない。
「再度問う。ムーア公はご乱心なのか」
「主上のご心中、私如きには量りかねます」
「貴様、名は何という」
「所属部隊の性質上、秘匿事項に該当します」
「何を問うても無駄ということか」
「どうかご容赦の程を」
二人の間の沈黙が重さを増していくだけに思えた時、窓外の景色に小さな変化があった。一人の敵兵が広場に駆け込んできて、何かを叫んでいる。何事かと集まって耳を傾けていた見張り役の一人が、慌てた様子でこちらへ向かってくる。
黒衣の人物が扉を細く開いて、彼を迎える。
「どうした」
「敵襲です。我が隊の約四割が既に倒れ、これ以上の作戦続行は困難とのことです」
「……何を言っている? 王墓で野営中だったアルタイル王国軍は全滅させたはずだ」
「それが…… 斥候班が把握していない、見慣れぬ男が」
兵士がそこまで告げた刹那、窓外に蹄の音が鳴った。続いて広場に駆け込んでくる一頭の軍馬。その背に乗った人物に目を止めたフィオナが息を飲む。
それは建国王が眠る丘で対峙していた二人の片割れ。威風堂々たる巨躯の剣士だった。




