2
アブラカタブラジャー
電車から吐き出させられると、夜の寒さが身にしみた。吐く息は白くなり、膝は勝手に震えだしている。たまらずポケットに手を入れると何かが入っていて、取り出してみると人間の眼球を形取ったプラスチックのおもちゃだった(なんだこれ)手のひらを少し振り、おもちゃの眼球をコロコロと転がすとコツンと音を立ててぶつかった(趣味が悪いな)永島は、それをポケットに入れ、改札を出て、すぐ横のコンビニでチキンを買い、駐輪場に向かった。駐輪場までの間に、いくつかの街灯がチカチカと点滅を繰り返している(消えればいいのに)線路を挟んで向こう側で車が走っている。(あと少しだ。この角を曲がれば駐輪場が見える)曲がり角の街灯を過ぎようとすると目の前に女が現れた。黄色のダッフルコートの下に白いセーターを着た小柄な女は、さらさらと流れる長い髪を持っていた。しかし永島の目を引いたのは、そんな物ではない(目がない…)女の目は黒い穴であった。永島は女の横を走り抜けようと、地面を蹴ったが、手を掴まれた。別れ話の途中のカップルのようだ。女は目が見えているのだ。手を振り払おうとしたが、既に女と溶接された鉄のようにビクともしなかった。(死にたくない)永島は自分が思ったことに対し心で笑いながらも、今すぐ逃げ出したいと何度も繰り返し足に力を入れた。
「なんで逃げようとするの」
永島は本能的に女の顔を見れない。声を出そうとしても喉に蓋をされたかのように、うまく言葉が出てこない。
「ねぇ、私の目知らない?」
永島は心当たりがあったが、恐怖に支配され、まともに考えられない。未だに声は出ない。
「ねぇ、聞いているんだけど」
焦れば焦るほど沼にはまっていく。それは、これまでの少ない人生から学んだことだが、永島は女の声を聞いていない。むしろ保身のために聞こうとすらしていなかった。
「ねぇ、本当は持っているんでしょう」
しびれを切らした女が遂に片方の手で永島の頬に触れ、顔を自分の方へと向けさせた。至近距離で顔を見た永島は吐き気を催し、目が合った場所に吸い込まれていくような錯覚を起こした。継ぎ目すらない、ブラックホールのような穴に。
「ねぇ、お願いよ」
女はそれだけ言って少し微笑んだが目のない笑顔ほど恐ろしい物がないと永島は理解した。まるで小学生が作る紙粘土で出来た不完成の母の顏である。その現実ではない事を端的に表した顔のおかげで永島は勝機を取り戻した。
「ああ、ああ、あるよ、あるよ。何故か俺のポケットに入ってたんだ」
そういって眼球のおもちゃを取り出し、女に渡してやった。女は大変喜び、数秒間だけ穴で永島を見つめた後、それを自分の穴に入れると、乾いたおもちゃが潤いを持ち、彼女の身体の一部へと変貌した。
「ありがとう。私、いじめられっ子だから、いつも悪戯されちゃうの」
よくよく見ると女は可愛らしい女だった。そこらのアイドルよりも愛嬌があり、唇の間から見えた歯は白く輝いている。
「そうですか。それでは」
永島は変な達成感を感じながらも、奇妙な体験を終わらすべく駐輪場へと向かった。しかし女がそれを止めた。
「ねぇ、何かお礼がしたいわ」
「いいですよ。そんなこと」
「あなたも気付いてるでしょうが、私は世界の住人ではありません。だから、面白い体験ができるかもしれませんよ」
少し考えたのち永島は、お礼を受け取る気になっていた。(確かに刺激が足りない)遠くでカンカンカンとカウントが聞こえる。(自殺する勇気がないのなら、だれかに世界を変えてもらうしかない)電車が地響きを轟かせながら走り抜ける。
「ちなみに内容って教えてくれます?」
口から出たのは冒険に憧れる子供のような好奇心溢れるものだった。
ママ・・・抱っこ・・・