夢の続き
小さい頃から、たびたび同じ夢を見ていた。
あたしはどこか知らない場所の、真っ白なベッドに横たわっていて。手は、誰かとしっかり繋いでいる……とろとろと揺らぐ意識の中で、安らぎと互いの吐息だけを感じながら、特に何か会話を交わすこともなく、互いの存在を知ろうとすることもなく、ただ二人で静かに眠りに落ちる。
途方もなく、幸せな夢。
『――三久と神流はね、生まれた時からお隣同士だったの。ほら、誕生日も一緒でしょう? 新生児室でね、並んで眠っていたのよ。ふくよかで小さな手をめいっぱい伸ばして、繋いで、幸せそうに仲良く眠っていたの。可愛かった……まるで、双子みたいだった』
これはうちのママが、そして神流のママが、小さな頃から繰り返しあたしたち二人に言って聞かせたこと。いわく、それがきっかけでうちの家族と神流の家族は、深い交流を持つようになったのだという。
それがあたしの深層心理に影響を及ぼしていたのか、それとも――まさか、とは思うのだけど――当時のことを、あたしが覚えているからなのか。あたしは繰り返し、同じ夢を見る。
赤ん坊のあたしが、神流と互いに手を取り合って、すやすやと眠っている……ただそれだけの夢を。
◆◆◆
あたしと神流は、ずっと隣同士だった。……とはいっても、血が繋がった双子の兄弟なんていうわけじゃ、ない。
さっき言ったように、あたしたちは同じ病院で生まれて。同じ町の近所に住んでいて、もちろん幼稚園も、学校も一緒だった。
毎日のようにどちらかがどちらかの家に行って、手を繋いで一緒に学校へ行って。帰りにはどちらかの家で、夜になるまで二人で過ごす。休みの日には、そのまま泊まることもあるほどだった。
他の友達には「あんたたち、ホントにべったりだよね」と呆れられちゃうくらい、あたしたちは毎日のほとんど、可能な限りの時間を一緒に過ごしていた。
それこそ本当に幼い頃は、離れるのが嫌で、お互いにしがみついて泣いては両方の親を困らせていた。けれど今は「いつでも会えるんだから」という確固たる信頼関係があるから、「また明日」と笑顔で別れることができるようになった。
学校でクラスが違っても、所属する部活が違っても、好みが少しずつずれてきても、寂しくなんかない。あたしたちは無条件で繋がってるんだから。
お互いに「遊びに行くね」とか「終わるまで待ってるね」って当たり前のように言えるし、お互いにどういう友達ができて、どういうコミュニティの中で生活してるのかっていうのを、二人で会ったらたくさん話す。
形は変わっても、あたしたちはずっと一緒。お互いが、お互いの半身であり続ける。これまでもそうだったし、これからもきっとそうなんだ。
だから、こうなっちゃったのは、何もあたしたちだけのせいじゃない。
あたしが、神流のことを好きになっちゃったことは……同性であるはずの神流と、友達の一線を超えた関係になっちゃったことは、ある意味必然だったのだ。
◆◆◆
さっき買った切符と、少しのお金が入った財布。読み古した大切な本、そしてミュージックプレイヤー。足がつくといけないから、携帯電話は家のベッドに置きっぱなしにしてきた。
最低限必要なものだけを、と思ったら、結局荷物はこれだけでまとまってしまった。それで不便になったのかというと、そうじゃない。むしろ、いろんなものから解放されたような気がして……あぁ、意外と人間ってあっけないものなんだって、他人事のように思う。
程なくしてやってきた、始発の電車に乗る。利用客の姿はほとんどなく、二人掛けの椅子を一人で悠々と占領しながら化粧をする女性がやけに目立っていた。
あたしは一番後ろの車両の、窓際の席に座った。昇る朝日は眩しくて、目に染みる。
故郷で見られる景色もこれが最後だと思うと、早くこんな田舎町を出ていきたいなんて思っていた、少し前の自分はなんと愚かだったのだろうと感じてしまう。
こんなことなら、もう少し故郷での生活を一日一日大切に、貴重な時間と思いながらしみじみと過ごすべきだった……なんて、もう今更遅いか。
もう、ここに戻ってくることはない。その事実が、思った以上にあたしを打ちのめす。
こんなに、心が痛いなんて思わなかった。
家族や友人たちを差し置いて、やっぱり一番に浮かぶのは、誰よりも愛おしい隣の体温。振り向けばいつも側にあった、見慣れたあの子の顔。
まさに、あの子はあたしにとっての半身だ。あたしの魂の半分はあの子のものだったし、あの子の魂の半分はあたしのものだった。
一人になってしまった今となってはもう、心なんてほとんど空っぽ。あたしが、あたしじゃないみたい。
けれど、耐えなくちゃいけない。
こうすることこそが、何よりあの子のため。そう、決めたんだから。
――本当は今日から、二人で泊まりがけの旅行に行く予定でいた。
だから大きい荷物を用意していたんだけど、それは全部部屋に置いてきちゃった。
午後一の電車で行こうと、提案したのはあたしだ。
あたしが朝弱いことを知っているし、それでも休暇はたっぷりあるからゆっくりできると、神流もすぐに賛成してくれた。
でもあたしは最初から、家族が起きるより早い時間に出る、始発の電車で先に行く予定だった。苦手な早起きを頑張ってでも。
そしてそのまま、帰らないつもりでいた。
「……あたしがいない、駅のホームに着いたとき」
何度も繋ぎ、体温を共にした手。その片割れをじっと見る。
何の変哲もない、細っこくて弱々しそうな、いかにも少女ですとでも言わんばかりの頼りない手のひら。
これじゃまるで、あたし一人じゃ何もできませんと主張しているみたい。
「あなたは、あたしが先に行ってしまったことに気づく」
いつかこの手が、幸せをつかむ日なんてあるんだろうか。あの子への未練を断ち切れないまま、鎖で縛られたように不自由なこの手が。
「この汽車の音は、あなたにどう届くのかしら」
あたしに、幸せを乞う権利なんてあるんだろうか。
「百マイル、離れた先から」
こんな、身勝手なあたしに。
やがてアナウンスが鳴り響き、ゆっくりと電車は走り出した。故郷を、一番見慣れた最寄駅からの景色を、離れ出す。
「……ごめんね、」
ごめんね、神流。
指切りした手を解いて、一人で旅立つあたしを……許して、なんて甘っちょろいことは言わないし、言えないんだけど。
『――ねぇ三久、ここのホテルなんてどう? わたしと三久の好きな、オーシャンビューだよ』
神流の嬉しそうな声を、今でもはっきりと思い出せる。
『昼間は、わたしが海で泳いでさ、三久がバルコニーで絵を描いて……お互いに、好きなことするの。そんでもって夜はおんなじ空間で二人、誰にも邪魔されないでまったりするの。いいと思わない?』
ベッドの枕元に旅先のカタログを開いて、二人で行くならここがいいとか、二人で住むならこういう機能があるといいよねとか……一生叶うはずなどないなんて初めからわかってる、幸せな夢物語をつづった。
それでも、いい。
それでもあたしたちは確かに、幸せだった。
常に隣にお互いの存在さえあれば、どこにだって行くことができた。それくらい、あたしたちは想い合っていた。
あなたの部屋に置いてある、見慣れたシングルベッドの上。
二人して寝っ転がって、手を絡めて何回も口づけを交わしながら、ずっと一緒にいようねって……あたしたち、誓ったよね。
女同士でも、本来許されないような関係でも、それでもあたしたちはずっと一緒だよ、って。
本当に、そう思っていたんだよ。
たとえ籍を入れられなくても、二人並んで堂々とみんなの前で立っていられなくても、あたしたちは確かに、ずっと一緒の人生を歩んでいくんだって。
どんな肩書だってかまわない。あたしの隣はあなたで、あなたの隣はずっとあたし。そう、確かに思っていた。
そう、なるはずだった。
でも、ごめんね。
あたし、あなたとの約束を破ってしまった。
だって、知っていた。
神流は大学を卒業したら、すぐに結婚することになるんだって。
まだ二年くらい先の話だけど、神流の家が今から準備を少しずつ進めているってこと、あたしは知ってる。前に神流の家に行ったとき、神流の両親が話しているのを聞いてしまったから。
相手は神流のお父さんが、恩人と慕っている方の息子さんだって。あたしたちより少し年上で、あたしも会ったことがある。神流にとっては本当のお兄さんみたいな存在なんだよね。
そんな彼となら、結婚してもきっとうまくいくはず。
それに、お金持ちの家だから、嫁いだら玉の輿だよ。お金持ちの家の奥さんとして、何不自由なく暮らせるほうが、あたしなんかと一緒にいるより断然幸せだと思うの。
そうしたら、家族ぐるみの付き合いがあっても所詮一般庶民でしかないんだから、あたしとはもうこれまでみたいに一緒にはいられないじゃない? あんなに何度も誓ったけど、あたしなんかのことなんて、あなたはすぐに忘れちゃうかもね。
もともと、あたしと神流は親も公認の友達同士だけど……もしこのことで口を滑らせるかなんかして、あたしたちの本当の関係が知られちゃったとしたら、絶対に引き裂かれるに決まってるんだ。
きっと、その懸念が現実になる日は遠くない。
いずれ不本意に、あたしと別れさせられることになる。でもあたし、神流の悲しい顔なんて見たくないよ。
だから、そうなる前に。
あたしは、あなたのもとを離れようって。あなたのいる故郷を離れて、どこか知らないところで新しい生活を始めようって、そう思った。
落ち着いたら、家族に手紙を出そう。
元気にやってるって、心配しないでって……神流とのことは、何も言わないつもりだけど。やっぱりそれくらいはしておかないと、ね。
きっと、神流は悲しむだろう。
けれど間もなく、目の前の生活に追われて、あたしのことなんてすぐに忘れちゃうんだ。ずっと隣同士にいたあたしたちだけど、隣に存在がなくなってしまえば、徐々に最初からなかったことになるはず。
だって彼女は、あたしがいなくても、あんなに周りに恵まれてるんだから。
あの子には、何も残してはいない。
あたしの部屋に残っていた二人の思い出も、家を出る前に何もかも捨ててきてしまった。
あるのは、今あたしの手元にあるツーショット写真だけ。
寂しいけど、それでいい。
◆◆◆
あれこれと考えているうちに、いつの間にか眠りについていたらしい。やっぱり今日の慣れない早起きは、あたしの身体に地味に負担をかけていたようだ。
アナウンスが告げる駅はすでに県外のもので、結構遠くに来たんだな、なんてぼんやりと思う。さっきよりお客が増えているのか、話し声がさわさわと聞こえてきた。
なんだか、幸せな過去の夢を、見ていたような気がする。
浮かび上がる意識とともに、感覚も徐々によみがえってくる。
さっきまでは確かになかった、右手を包む体温に、まどろんでいた頭がぱっと覚醒するのを感じた。
慌てて、顔を向けて……隣に座る姿に、目を見開いた。
「な、んで……」
「おはよ、三久」
わたしを置いていこうとするなんて、ひどいね。
そう言って、隣でにっこりと笑っていたのは……あたしが手を放したはずの、誰より愛おしいあの子だった。
「なんで、この電車に」
「最初から乗ってたよ? あんたが気付かなかっただけで」
「午後一って、言った」
「わたしが、あんたの嘘に気づかないとでも思った?」
何年の付き合いよ、と微笑まれて、不覚にも涙が出そうになる。
「大学卒業したら結婚すること、知ってた。旅行から帰ってきたら、婚約の儀式をするって、親に言われてて……だから、そうなる前に、わたしも逃げてきたんだ」
「そんな……」
だとしたら、これまでのあたしの苦労はいったい何だったんだろう。神流がその事実を知る前に、馬鹿な考えを起こす前に、こっちから離れようと思っていたのに。
神流に、人並み以上の幸せを与えてあげなくちゃって――……。
唖然としていると、神流はあたしの不安とか戸惑いとかを一瞬で吹っ飛ばすような、大好きな笑顔で力強く囁いた。
「言ったでしょ。たとえ世間に反対されても、わたしたちは、ずっと一緒にいるんだって」
繋いだ手を握りこまれて、引き寄せられる。
「それが、わたしにとって何よりの幸せなの」
周りの乗客に気づかれないように、さりげなく、一瞬だけ唇を合わせた。
「もう、二度と離れないで」
ふっと、力が抜ける。
――やっぱり、あたしには彼女がいないとダメみたい。
そっと手を繋ぎ直して、二人、寄り添って座る。
互いの手のぬくもりと、穏やかな二つの呼吸。がたごと、ふわふわ、心地よい電車の揺れ。どこか知らない駅の名前を告げる、アナウンスの声は徐々に遠く。
会話は交わさない。ただ、傍に互いの存在さえあればそれでいい。
それだけで、安心できる。
そんな、途方もなく幸せな――……。