常設展にあった美術品を思う
とある美術館の常設展へ行って
今では、それほど名の通っていない
地元のひとびとの近現代芸術が
ところせましと並んでいた
その日の目当ては企画展の方で
その企画展では
美しい大自然がたくさん
優しいタッチで描かれていて
その描かれた自然の美を満喫したあとで
おまけ的に常設展へ足を踏み入れたら
なに、このゴミ
そんな辛辣なこころが
浮かんできたことに自分でびっくりした
常設展のその作品群は
こころの叫びとか
苦しみとか悩みとか
つらいものを現出させようとする意図に
満ちているような気がして
近現代芸術が、そんなものだとするなら
なんと狭い視野だろう
そんなことを感じてしまったのだ
あの美しいと思えない作品群に
自分の中で、何がゴミだと思えてしまったのか
家に帰ってからも、ずっとそれを考えていた
常設展の中で、ひとつ私のこころを満足させてくれたものがあって
それは、大きなキャンパスのなかに
右半分が、宗教画で
左半分が、花のような鮮やかな色彩
あれは美しい、と思った
そうだ、と分かった
私の中で、あの作品群には
花が足りない
植物が足りないのだ
もしもあの作品群に
葉やつるや
花々がそっとそばにあるとしたら
きっとこころの叫びのなかにも
美はあるように感じられるのだ
ヨーゼフ・ボイスが
新聞紙やフェルトを使って
身近な素材を、美、足らしめたように
あの作品群が発出されたときから
年月が経っていることを示す
植物と花
私のこころの中で
それらを作品群に添えてみると
がれきと花との対比
その美が