花の屋敷
「うわ、すっご……」
休日にサイクリングと興じて走り出し、気がつけば裏道に迷い込んでいたところで見つけた、それは花の屋敷だった。
塀の向こうから白か薄いピンクのような花が見えていたのだが、その前を走り抜けようとした時、おもわず急ブレーキをかけていた。
門から屋敷へと続く道の両脇には花壇があり、色とりどりの花が植えられている。屋敷の周りの植え込みにもたくさんの花が咲き乱れており、深呼吸すると花の香りが一杯に広がっていた。
「手入れ大変だろーなぁ……」
などと現実的なことを呟きながら、格子越しにその花畑を見る。綺麗なのだが、実家の母親が家の中も外もガーデニングで植物園状態にしていることを思い出して苦笑いしてしまう。
大きな屋敷の窓には全てカーテンが引かれ、その中までうかがうことはできない。古びた屋敷であまり生活感は見られないのだが、目の前の花畑があることで空き家ではないのだろうと想像がつく。いったいどんなご隠居が住んでいるのだろうかと勝手に住人像を思い描きながら、少し身を乗り出すようにして中を覗き込んだ。
「あっ」
人がいた。思わず声を上げてしまったが、中の人は気付いていないようだ。
華やかな花に囲まれて立っていたのは、黒いワンピースを着た女の人だった。艶のある黒髪を結い上げ、手にはホースを持っている。ちょうどそこからサアッと水が溢れ出してきた。太陽の光を浴びて、そこに虹が出来上がる。その光景をぼんやりと見つめてしまったのは、花や虹の美しさからだけではないだろう。
花に水をやるその人は、当初の住人像とはかけ離れていた。まだ二十歳ほどの若い女性で、スラリとした美人だった。それはけして、周囲の花が効果を与えているからではない。しかしその女性は、水をまきながら門のところからは見えない方へと入っていってしまった。
「……さすがに不審者、か……?」
自分の行動をはたと顧みて、そそくさと自転車のところに戻る。このまま中を覗いているわけにもいかないのだから。
それにしても思わぬ良い光景を見られたものだとほくそえむ。綺麗な花壇をひろげるこの屋敷はもちろんのこと、その中にいたあの女性はまるで花の精のように感じられた。遠目に見たせいで美化されているのかもしれないが、それでもこれは眼福というやつだ。
「何か御用?」
突然の呼びかけにビクリと身を竦めてしまった。振り返ると、先ほどまで花に囲まれていた花の精が格子の向こうに立っていた。やはり年は若く、美人だった。
「えっ、いや。……通りかかって、花、綺麗だなと思って」
花を出して誤魔化しながら笑うと、その女性はにこりと笑った。その笑顔だけで今日一日、最高の日になりそうな予感を引き起こしてくれる。
「なら、中で見ていく?」
予想外の申し出に眼を見張る。そんな反応には全く気付いていないかのように、その人は嬉しそうに格子門を開けた。
「どうぞ。最近暖かくなって、綺麗に咲いているから」
さぁと招かれ、再び自転車に鍵をかけてしまった。
誘われるまま、おずおずと中に足を踏み入れる。格子門をくぐると、まるで別世界に迷い込んだかのような光景だった。外から見ていたときよりも香ってくる、花壇や植え込みからの甘い香り。おもわず、ため息をついていた。その横を、嬉しそうに腕を広げた女性がすり抜けていく。
「花とか植物って、声をかけたりすると元気になるのよ。きっと、いろんな人に見てもらって、綺麗だねって言ってもらえると、もっと綺麗に咲いてくれるわ」
「……ホントに、綺麗だな……」
花も、君も。
自分で言いかけて赤面し、背を向ける。その先にも花々が咲き誇っていた。その背に向けて、また彼女の弾んだ声がする。
「いつまでも、こんな風に綺麗に咲いていて欲しいの。……昔は、いつまで見ていられるのかなって、不安だったけど」
一息ついて振り返る。彼女は花の前にしゃがみこんでいた。
「今は、いつまで咲いていてくれるのかなって、思う」
その言い回しに僅かに眉をひそめてしまう。どういうことだろうと思いながら彼女に近づいてみる。あたりの草花は、まるで語りかけてくるように、さわさわと風に揺れていた。
「ちゃんと手入れしていれば、また来年も、ずっと先も咲いてくれるんじゃない?」
適当な答えだったかなと思いながらもそう言うと、彼女は顔を上げて笑顔を見せた。
「そう思う? ……あっ、向こう、まだお水あげてなかった」
立ち上がり、隅に置いたままになっていたホースを見て言った。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったかな。……長居しても悪いし、もう行くよ」
これを機にしておかなければズルズルと居座ってしまいそうだったから。しかし彼女は少し残念そうに首をかしげた。
「そう? 遠慮しなくていいのに」
「いや……また今度。そうだ、疲れたときにでも寄せてもらっていいかな。……何ていうか、元気が出そうだから」
引きとめようとしてくれる彼女の申し出を丁重に断り、その屋敷を後にすることにした。
本当に、花の精のようだった。彼女は、またいつでも訪ねて来てねと、手を振ってくれた。自転車をこぎながら、あの花畑と彼女のことを思い出して、つい笑みが漏れてしまう。
「綺麗だったなぁ……」
やっぱりまた、行ってみようかな。そう思いながら、ペダルを踏み込んだ。
春。
そうだ、この季節だった。
確か、このあたりだった。
あれから結局、一度も訪ねることなく、年月が経ってしまった。
忙しい仕事の合間に、思わぬ休みがとれたから。
ふと思い出して、半ば気まぐれのように、あの屋敷を目指した。
あの人も、もういい年なんだろうな。
結婚でもして、あそこにはいないかもしれない。
あの花壇の花は、まだ綺麗に咲いているのかな。
彼女が、望んでいたように……。
「……うわ……」
ホッとした。あの花畑は、まだそこにあった。あの時と同じ、花の甘い香りを漂わせながら、花達は咲き誇り、風に乗って踊っていた。
サァッと水をまく音がする。もしかしてと思って、格子門から中を覗き込んだ。そこには、一人の若い女性の姿があった。記憶の中に残っていた、あの人にそっくりな女性が。
見間違いだろうか。まさか娘だったりしないだろうかなどと思いながら、屋敷に背を向けて深呼吸する。近くで、砂を踏む音がした。
「何か御用?」
あの時と同じ調子で声がした。振り返ると、記憶の中の彼女が、そこにいた。言葉がつまり、ありきたりで適当な返事しかできない。
「い、いえ……。……綺麗な、庭ですね」
それでも彼女はにこりと笑顔を見せた。花の精というのは間違っていなかったのだろうかと、ふと思う。
「良かったら、見ていかれます?」
あの時と酷似した展開に愕然としながらも、やはりそれを断ることはできなかった。
開かれた格子門をくぐり、まるで時が止まっていたかのようなその花畑と彼女をみて、呟いていた。
「……やっぱり……綺麗だ……」
彼女はまた、にこりと笑顔を見せてくれた。
「……変わってないでしょう?」
ハッとして眼を丸くする様子を見て、彼女はくすくすと笑う。不思議な感覚にとらわれながら、甘い香りと彼女の笑顔に、つられるように笑っていた。