サイパン島の戦い1
スマホで検索してる間に自宅へ到着していた。
「大叔父さんの最期は何処なのか?」
昔から先祖の事は多少関心があった。大叔父の事を含め僕にはほとんど何も知らされていないのだ。理由は祖父が寡黙な人であり多くを語らなかった事。また父親が三男だったと言う事もあり、長男、次男よりもそれらの事をあまり知らされていない現状があったからだ。
僕は学生時代も歴史の勉強が好きだった事もあり、不謹慎だと感じつつも気になっていた事を調べるきっかけが出来てワクワクしている。とりあえずは気持ちを落ち着かせるためにキッチンでコーヒーを入れて、自室に入りパソコンの電源を付けそれを飲む。
落ち着いたところでネットでサイパン島の戦いを調べはじめた。
昭和19年6月15日早朝。米海の軍艦艇によるサイパン島への艦砲射撃が始まり艦載機による空襲が行われる。数時間後、米海兵第2師団と第4師団が輸送船から上陸用船艇に乗りサイパン島西部のチャランカノア海岸とオレアイ海岸を目指す。いよいよ上陸の時が迫った。
これより半月ほど前、日本海軍の偵察機がサイパン島の遥か東側にあるマーシャル諸島において出撃準備をしているアメリカ軍の動きを捉えていた。しかし大本営は見誤っていた。この年の5月27日より始まったビアク島の戦いがある。サイパン島より南に位置するインドネシアの島で起きた戦いであった。日本陸海軍上層部の大半はビアク島からパラオ方面の侵攻の後、サイパン島を含むマリアナ諸島へと攻め込んでくると予想していた。そのためパラオ方面への戦力増強は進めていたがサイパン島にはそれが遅れていた。そういった事情もあり上陸の前、6月11日にアメリカ軍艦載機1,100機による奇襲攻撃を受けていた。13日には戦艦、巡洋艦による艦砲射撃も加わり日本軍の陣地は半壊し、サイパン基地にある航空機を失い制空権を失っていた。
この上陸に対して日本軍は海岸線とヒナシス丘陵地帯に部隊を配し水際で撃退する作戦であった。激しい抵抗を続け15日だけで1,500名あまり死傷させたが見晴らしのいいサイパン島では米軍の空と海からの砲爆撃を受け、その日の夕方までに2万程の米軍の上陸を許した。