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「えっと、さっきの話なんだけど……、私、まだ返事、してないのよね」
「ああ、まだしてないんだ。早くしたほうがいいんじゃないの?」
こっちがちょっとした決心をして口にしたにもかかわらず、水樹は普通に世間話のノリで返してきた。
今日雨降りそうだから、傘持ってったほうがいいんじゃないのとかそういうレベル。
今ので確信した。
こいつ、完全に他人事だ。無関心。
結局、自分をからかって、楽しんでるだけだ。ここ最近の水樹の一連の言動を振り返ってみても、そう考えれば納得がいく。
それに対して舞い上がったり、深読みしたり、ただのひとり相撲。自分という存在が、とても滑稽に思えてきた。
伊織はそれきり、水樹に言葉を返すことなく歩き続ける。
というか、胸の奥になにかが詰まったように苦しくなってしまい、押し黙ることしかできなかった。
伊織はその変化を悟られたくなかったが、それはたぶんもう無理だ。なんのリアクションも返さずに、こうやって黙ってしまった。
どう考えても不自然でしかない。だけど、それでも水樹は何も言ってくれない。一歩先を、バス乗り場に向かってどんどん進んでいく。
とうとう、お互い無言のまま停留所まで来てしまった。こうして立ち止まってしまうと、今度こそ本気で気まずい。
こうなったらさっきのは無理やりなかったことにして、なにか適当な話題を……。
と頭を悩ませていると、
「断るんだから、さっさとしたほうがいいでしょ」
「え?」
ぽろっと、水樹のほうから一言。
一瞬なんのことかわからなかったが、すぐにさっきの話の続きだと気づく。
「えっと、それって……?」
「いやだって、断る以外に選択肢ないじゃん」
「あ、いや……それは、わからない、かもしれない……じゃない?」
「いやないよ」
きっぱり言い切られた。
なぜ水樹にそう決めつけられなけらばならないのか。
だがそのあまりの断定口調には、きっとそうなのだと思い込ませるような力があった。
伊織はとっさにうなづきかけたが、すぐ我に返って反抗の意思を示す。
……まただ、またこうやってからかう気だ。
「なんであんたにそんなん言われなきゃなんないのよ、私が誰と付き合おうが私の自由でしょ?」
「いや無理無理。ないない、そんな自由ないから」
「は、はあ?」
間の抜けた声を出してしまう。
こいつ頭おかしいんじゃないのか。
なにがヤバイって、いかにも冗談を言っているという顔ではなく真顔なことだ。
「ふ、ふざけるんじゃないわよ! またそうやって……!」
「いやいやふざけてるのは伊織のほうじゃないの?」
「は、はああ!? 人が悩んでるって言うのに、なんで……」
「だから悩むことなんてないじゃん。あと、ちょっと静かにね」
水樹はすました顔で人差し指を口元に当てる。
いつの間にか大きな声を出していたのに気づき、恥ずかしくなって体をちぢこめた。
周りから見られている気配を感じる。
やば、もし知り合いがいたら……、と視線をめぐらせるが、ほとんどの人はすぐに関心を失ったようだ。
もうこちらを見てはいない。
ただ、その中で一人だけ、思いっきり目が合ってしまった人物がいる。
相手もどうするか一瞬迷ったようだが、すぐににこっと笑顔を浮かべてこちらに近づいてきた。
「おいすー。お二人さん、また会っちゃったね」
その相手とは、水樹のクラスメイトの二宮弥生だった。
伊織の今会いたくない人物トップ3に入る。
「朝から仲がよろしいようで。二人、ケッコー目立ってたよ。声かけるか迷うぐらいに」
最悪だ。
このアホがわけのわからないことを言うから、こっちもついムキになってしまった。
「二宮さんおはよう。なんかさっきから伊織がうるさくて……」
いやあんたのせいでしょ、とまたヒートアップしそうになるのをこらえる。
話題をぶり返すと、水樹が余計なことまで口走りそうだ。今のコイツの口からはなにが飛び出すかわからない。
「牧野さんておとなしそうな感じなのにね~」
「伊織は僕みたいな弱者にはとことん強いからね」
水樹の分際で私をイジるとか……後で覚えておきなさいよ。
伊織は「あはは、やだそんなことないって~」と愛想笑いをしながら、密かにぎりっとこぶしを握りしめる。
「あ、そーいえば、この前はどうも。ごめんね、突然邪魔しちゃって」
「いえいえ」
「やーなんか、いろいろビックリだったね。かわいい妹さんはいるし、櫻井君はいきなり帰っちゃうし、かわいい妹さんはいるし」
「そうそう、かわいい妹がね」
「……イヤミで二回言ったんだけど。妹さんが二人もいるっていうのに黙ってるなんて」
「あれ? 今度はかわいい、が抜けてるよ」
「わぁ~うぜぇー」
和気あいあいと二人でしゃべりだした。
特に話を振られることもなく、かといって無理やりその間に入っていくこともできず、放置される。
なんかイライラする……。人の目の前でいちゃつきやがって。
だが、つい先ほど、私が誰と付き合ったって勝手でしょう、とたんかを切っておいてそれはない。
そう主張するなら、向こうだって好きにする権利があるわけだから。
「……あれ? なんかさ、水樹くん今日ヘンじゃない? なんか普通……でもないけどヘン」
「普通なのにヘンってひどいね。まあ僕のことはどうでもいいとして、どうかな、二宮さん的には雫と泉、どっちのほうが可愛いと思う?」
また聞いてるよこいつ。
仕方なく伊織は携帯を気にするフリをするが、つい聞き耳を立ててしまう。
「んーどうかなー、でも泉ちゃん? のほうはあんまりよく見てなかったからなぁ。雫ちゃんは……そうそう、部屋に雫ちゃんが来た後、水樹くんが怪しげな行動をしてたのが気になるなぁ」
「いや僕がエロ本をブン投げたことはどうでもいいんだよ」
「ぶっ、え、なになに? あのときエロ本ブン投げたの? きゃははは」
「あの状況でエロ本を渡して僕を困らせようとするところが可愛いよね」
「なにそれ意味わかんないんだけど、それすごい上級者じゃない?」
二宮のけらけらと笑う声がさらに伊織のイライラを募らせる。
知らない話で盛り上がっている、というのもそうだが、伊織も同じ話題を振られたはずなのにこの落差はなんだろう。
でもそれはろくに返事もせず無視していた自分が悪いのだが……いや違う、なんで自分がそんな、水樹に気を使って盛り上げなければならないのだ。
結局ほったらかしにされたまま、バスが来てしまった。
ポジション的に、いつの間にか伊織が一番乗車口に近いところに並んでいて、先に乗り込むことになる。
後ろのほうに並んでいたので、すでに座席は埋まってしまい、三人とも座ることはできなさそうだ。
前のほうに詰めていくが、後ろから生徒がどんどん乗ってくるため伊織一人だけ、二人とは微妙に離れたところに流されてしまった。
ちらり、と水樹に視線を送るが、向こうはこちらを気にかける様子はない。
それよりも二宮とのおしゃべりに夢中になっているようだ。
ならもういいと、こちらも水樹たちのほうは意識して見ないようにした。
バスに揺られながら、うとうとしてしまう。
そういえば、学校に行きたくない理由の一つに寝不足、というのもあった。
こんな状況だから、昨日はなかなか寝付けなかったのだ。
まともに眠ったのは正味三時間もないのではないだろうか。
閉じようとする瞼と戦っているうちに、バスが到着する。
伊織は水樹たちがいるであろう後方を振り返ることなく、さっさとバスを降りた。
そのまま周りの流れに乗って、早足で校舎まで歩いていく。
待って合流したところで、いないも同然の扱いになるのだし、別に構わないだろう。
どの道、二人に混ざったとしてもなにを話したらいいのかよくわからないし。
教室まで向かう間にも、再びけだるさが襲ってくる。
水樹と二人で家を出たときには、まったくそんなことはなかったのに。
――はあ、なんで来ちゃったんだろう。やっぱり、今日は休んだほうが……。
そんな考えが頭をよぎるが、もはや引き返すこともかなわない。
やっとたどり着いた教室では、周りに最低限のあいさつだけして、浮かない顔で席に着く。
ため息をつきながらカバンの荷物を整理して、忘れないうちに電源を切ろうと携帯を取り出した。
すると、メールが来ているのに気づく。
差出人は、長瀬水樹。
受信時間を見ると、ほんの五分前に送られてきたもののようだ。
文面には、
『授業中は寝ないようにね。がんばろう』
とだけあった。




