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――え、なんで?
伊織は思わず画面を二度見、いや三度見して固まった。
しばらく頭が混乱していたが、続けて鳴らされるチャイムの音にせかされるように、そのまま玄関に向かってドアを開ける。
「おはよう」
伊織を出迎え、涼しい顔で挨拶をしてきたのは、水樹だった。
インターホン越しでなにかの間違いではと思ったが、そうではないらしい。
こうして水樹のほうから家を訪ねてくるなんて、一体いつぶりだろうか。それこそ小学生までさかのぼらなければならないのでは。
だというのに、水樹は特に気取った様子もなく全くの自然体。
逆に伊織のほうが、セールスマンに応対するときのような警戒した態度になってしまう。
「……な、なに?」
「なにって、迎えに来たんだけど。そっちこそなにその格好、まだ着替えてないの?」
うかつにもパジャマのまま出てきてしまった。
かたや向こうはすでに制服に着替え、登校する準備は万端だ。
しまった、見られた。玄関に出る前に着替えておけば……いや違う、そういうことではなくてその前に、なんだっけ。
いろいろと、まだ思考が追いついていない。
まず水樹がここにいること自体まだ信じられないし、なによりもこれがあの、いつもおどおどしている彼なのだろうか。
すでにこの段階で、口ぶりや表情がまるで別人のような雰囲気をかもし出している。
伊織は早くも水樹のペースに飲まれつつあった。いつもは自分が主導権を握っているのに。
いきなりの水樹の行動に驚きはあるが、なんだかんだいって内心は……うれしくないと言ったら嘘になる。
しかし、にもかかわらず素直に喜べない自分がいる。
それは、いい加減最近の水樹の言動に対しての不審感がマックスに達しているからだ。
伊織は負けじと、水樹に反抗するように言い返す。
「あんたさ、自分が言った事覚えてる?」
「なにを?」
「この前さ、もう朝迎えに来なくていいとかって言ったわよね」
まずひっかかっていたのは、これだった。
向こうのほうから断りを入れてきたくせに、一体どういう風の吹き回しかと。
「うん、来なくていいよ。僕が迎えに行くから」
全く悪びれる様子もなくすっぱり言い切られた。それもにっこり笑顔で。
いつもなら、あ~えっと、いやそれは……みたいにひたすらぐずるくせにだ。
予想外の返しに伊織はたじろぐ。
屈託のない笑顔を不意打ちで向けられて、目をそらしてしまいそうになったが、それをしてしまうと負けだと思ってなんとかこらえる。
いつもは向こうがすぐに視線をどっかに逃がすのだが……今日はやはり勝手が違う。
結果、お互いまっすぐ見つめ合う形になる。水樹は全くぶれることのない笑顔。
やがて伊織は恥ずかしさがこみ上げてきて耐えられなくなり、結局自分から視線を外してしまった。
「……い、いいわよ来なくて」
「なんで?」
「なんでって、それは……」
素直にうれしいと言えないところが、相当ひねくれているなと自分でも思う。
なんで、と聞かれてとっさに言葉に詰まった。まだ頭がうまいこと回ってない。
というか、そんな近くで顔を覗き込まれるようにされると回るものも回らない。
いや待て待て落ち着け。相手はあの水樹だ。なにを身構えることがある。そうだ、あのネタで押せばどうとでもなる。
「いいのよ、別に隠さなくて。あの子でしょ、あの、弥生ちゃん? かわいい子じゃない。ずいぶん仲良さそうにしてるみたいだし、私が一緒に登校したら邪魔ですからね」
さてどう弁解するのかな? と伊織は勝ち誇った顔を向ける。
しかしそこにはいつものキョドった顔はなかった。ばかりか、よりいっそうおかしそうに笑みをこぼす水樹。
「あら伊織さん、それってヤキモチですか?」
「や、ヤキモチ……? って、だっ、誰が!」
一気に顔が真っ赤になるのを感じる。
絶対黙らせられると思ったのに、これがヤキモチと言われたら確かに誰がどう見てもそうだ。
なんでこんなのでいけると思ったんだろう。
それにしても一体どうしたんだこの男は。もしや誰かに操られているのでは。怪しい薬とかやっていなければいいが。
でもよく考えてみると、昔はこんな感じだったような。
むしろここ数年がおかしかったとも言える。いや今日だけ、ほんの気まぐれかもしれない。
表情や仕草、話し方が違うだけでこうも別人のようになるなんて、不思議だ。
おどおどされるのは腹が立つしもっといじめてやりたくなるが、こうやって余裕をかまされるのも気に入らない。
向こうからしたら、じゃあどうすればいいんだよって感じだろう。
やっぱ私ってひねくれてるな、と伊織は心の中でため息を漏らす。
「いいから早くしなよ、遅刻するよ」
「じ、準備するから、待ってて」
そうせかされ、水樹を一旦玄関口へ招き入れてから伊織は慌しく階段を登り、部屋で着替えを済ませる。
「……もう、なんだっていうのよ一体」
着替えながら一人毒づくが、それとは裏腹に足取りは跳ねるように軽い。
ついさっきまで体全体を覆っていた重みが、すっかりどこかへ消し飛んでいる。
準備を終えて戻ると、座って携帯をいじっていた水樹が立ち上がる。
「じゃ行こうか」
◆ ◇
バス停までの道を並んで歩く。
今日は、やたら距離が近い。
いつもは水樹のほうから離れていって、変な距離感になっているのに。
「ちょっと」
家を出る前からずっと、水樹は携帯をいじっている。
なにか必死に文字を打っているようだが……。
それでフラフラ歩いているものだから、すでに何度かぶつかりそうになっている。
「ちょっと!」
「ん?」
「なんで私の進行方向妨害してくんのよ!」
「あ、ごめん」
「まったく、ちゃんと前見て歩きなさいよ」
たまりかねて注意するが、水樹は携帯をいじるのをやめようとしない。
どうも隣にいる自分がないがしろにされている気がして、皮肉の一つでも言いたくなる。
「あんたが携帯いじってるなんて、珍しいじゃん。誰に何してるのか知らないけど」
「気になる?」
「別に」
いちいち勘に触る。
大体自分から一緒に行こうなんて誘ってきておいて、携帯とにらめっこなんてどういう了見だ。
……いやいや、違う違う。なんか私が無視されてひねくれてるみたいになってる。そんなもん、好きなだけいじればいいのよ。
とかなんとか一人でやっていると、いつの間にか携帯をしまった水樹が声をかけてくる。
「もう終わったから。はい、どうぞ」
「な、なによ?」
「え? なんか、あるんじゃないの?」
「な、ないわよ別に」
構って欲しかっただけなんて、そんな歯の浮くような気持ち悪いセリフが言えるか。
今のでコイツは完全に私を怒らせた。もうこっちから無視だ。完全に無視してやる。
そうして無言で歩き続け、バス停にたどり着く。向こうも察したのか、ずっと沈黙を守っているようだ。
こうなったらもう、先にしゃべったほうが負けだ。
気を張ったままバスを待っていると、唐突に水樹が口を開く。
「なんか今日暑いねぇ、五月ってこんな暑いんだっけ」
勝った。
しかし、この大事な一言を暑いね~とかで軽く済ませてしまうってどうなのか。
もはや試合放棄に近いのでは。
無視しているにもかかわらず、水樹は立て続けに質問をしてくる。
「あのさ、伊織的にはさ、雫と泉のどっちが可愛いと思う?」
知らねーよ。
「そうだよね、甲乙つけがたいよね。どっちって言われると選べないよね」
何も言っていないのに、一人で勝手に進行している。
「そういえばさ、あの返事ってしたの?」
はいはい、勝手に言ってろ。
――ん?
いきなりそんなことを言われて、一瞬ドキリとしてしまう。
返事、と言われて思い当たるのは、もちろんあの告白の返事。
だが、水樹がそれを知っているわけがない。
……とも言い切れない。またあのおせっかいな姉が、余計なことを話している可能性は十分ある。
早くも無視だ、とかやっている場合ではなくなった。
確信が持てないので、とりあえずシラをきってみる。
「……へ、返事って、なんの?」
「だから、告白されたっていう」
やっぱり。
あの後姉が電話なりメールなりで水樹に伝えることはいくらでもできたはずだし。
「なるほどね……お姉ちゃんに聞いたわけ」
「いや、おととい直で聞いてたんだよね。全部じゃないけど」
「はっ!?」
あの時って……、起きてたってことなのだろうか?
姉は水樹は完全に寝てるって言ってたし、自分もあまり余裕もなかったから……。
うわ、ヤバイ。なにをどこまで言ったんだっけ、と伊織は頭がパニック状態になる。
その時、タイミングがいいのか悪いのかちょうどバスが来てしまい一旦話は途切れる。
連休を挟んでいるということもあってか、バスはまばらに席が空いていた。
先に乗った水樹が座った席の、そのすぐ後ろの席につく。
バスが走り始めるが、水樹は再び携帯をいじっているのか、特にこっちを振り返ってまで話しかけてくる様子はない。
かといってこちらから話しかけるのもなんだか気が引ける。
そうこうしているうちに、早くも駅に到着。
バスを降りて、乗り換えの学校専用バス停まで歩く間、さっきの話の続きをするのかと身構えていたが、
「学校も休みにしてくれれば連休だったのにね」
その話はもう終わったとばかりに、全く関係ない話題を振ってくる。
かなり重要な、というか伊織にとっては今ダントツで一番の関心事だと言うのに。
伊織が告白されようが、返事をどうしようがどうでもいいってことなのだろうか。
さっきもバスの中でいろいろ考えてしまって、もしかしたら水樹は、自分が告白を受けているのにあせって、今日のこんな行動に出たのでは? と思ったりもしたのに。
本当に、なにを考えているのかさっぱりわからない。
とはいえ、こんな中途半端なままで一日を過ごすのは嫌だ。
伊織は耐え切れなくなり、ついに自分から話題をぶり返した。




