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気がつくとベッドの上だった。いつもの自分の部屋の天井。
……朝? いくらなんでもちょっと早過ぎないか。
しぶしぶ父さんに渡されたCDを流して、さっき寝付いたばかりだと思ったのに。
もう学校行かないとダメなのか、マジで欝だ。欝としか言いようがない。
まだ目覚ましも鳴っていないので、とりあえず時間を確認しようと上半身だけ起こす。
……あれ、なんかおかしい。体が、視界がふわふわしている。なんとも言い表しづらい妙な感覚。
そうだ、そういえばまた昔の夢を見て……夢……ああ、これまだ夢?
なんだ夢か。早いと思ったんだ。そうそう、夢の中でも自分の意思で動けることってたま~にある。
たしか明晰夢というやつだ。これまでも何度か経験がある。
ということは今あれだ、夢だからなんでも好き勝手できるパターンだ。
現実だと何もできない僕も、夢だとわかっていればできるはず。
自分で言っておいてなんて情けない、とは思うけど、これはそう、言うなれば予行演習だ。
何事もぶっつけ本番はよくない。
よし、そうと決まれば。
僕は勢いよくベッドからはねおきると、そのまま部屋を出た。
さて、何をしようか。実際こういう状況になって意外に困ったり。
などとは全く躊躇することなく、僕は隣の部屋の前に立った。
そして、小鳥すら捕まえられそうな繊細かつ流麗な動きでドアノブを回し、音もなく部屋に侵入する。
部屋に入るなり僕は、全神経を耳に集中させる。
すると、かすかに聞こえる二人分の寝息。
それを確認すると、僕はここで一息つく。
ここは……そう、泉の部屋だ。
泉の部屋だが、今は雫と泉、二人が一緒にこの部屋で寝ている。
というのは、もともと二人で一つの部屋だったのだが、父さんがいない間は雫が勝手に別の部屋に移り占領している。
この部屋は二段ベッドが置いてあるため、確かに狭い。母さんが大して考えなしに買ったのでその辺ミスったのだ。
今は泉がベッドの一段目、なぜか雫は床に敷いた布団の上に転がっている。
ベッドの二段目に布団を準備するのがめんどくさかったのかなんなのかわからないが、そもそも夢だからそんなことはどうでもいいのだ。
それにしてもすばらしく完成度の高い夢だ。
部屋の中は天井の小さい電気がついているため、これまでの暗闇に慣れた僕には十分明るい。
僕は部屋に一歩踏み入れるやいなや、テーブルの上に飲みかけのペットボトルを発見した。
「……ふぅ」
一口飲んで落ち着く。
しかし驚いた。ただのお茶だというのになんだこの溢れ出る活力は。
間接的に妹の唇に触れたおかげか。リポD十本分ぐらいのパワー。いやそれ以上か。
どちらの飲みかけかわからないが、おそらく雫か、もしくは二人で回して飲んでいる可能性も無きにしもあらず。
そう考えた僕は、すかさずもう一口。さらに回復する生命力。
……おっと、全部飲んでしまった。
ペットボトルを元の位置に戻すと、すぐ近くで寝ている雫へと視線を落とす。
雫はあおむけのまま掛け布団を半分以上跳ねのけている。なかなかの寝相の悪さだ。
それでもすぅ……すぅ……と規則的に寝息を立てている。
完全に熟睡しているようだ。
さてと……。
僕はおもむろに雫の顔の近くにひざまづく。
続けて自分の顔を限界まで雫の顔に近づけた。
そして雫の吐いた息を……
――吸う!
吸った途端、体内にすさまじいエネルギーが流れ出す。
……はっ、こ、この呼吸は……妹色の波紋疾走?
急激に世界が変化するのを感じた。
と同時に、なにかに気づきかけた。僕は、重大な思い違いをしていたのではないかということに。
そのまま数回、呼吸をした後、体を起こす。
今僕は、悟りつつある。もう少しで、それがなんなのかわかりそうなのだ。
次にベッドに寝ている泉に狙いを定める。
もはやためらいは微塵もない。
泉はちょうどこちらに背中を向けるようにして、横向きになって寝ていた。
ベッドの反対は壁にくっついているので、雫の時のように正面から息を吸い込むということはかなり無茶をしなければならない。というかほぼ不可能。
だがそれはこちらも心得ている。
僕はそのまま、背を向ける泉のうなじに触れるギリギリまで顔を接近させた。
そしてここで、吸い尽くす。
――来た。来た来た来た!
あえて言おう、みなぎってきたと。
この瞬間、僕は真実に気づいた。
これが、この二人から得られるエネルギーこそが僕の力の源だったことを。
この、かつてのほぼ毎日の日課が。
こんなにかわいい妹が二人もいる。ならば他には何も必要ないという無我の境地。
誰に何を言われようが嫌われようが知ったことではないという、これが僕の根底を支えていたのだ。
暗示がどうとか僕がブサイクだろうがイケメンだろうが全く関係がないのだ。
これをやらなくなったせいで、僕がこれほどまでに落ちぶれたということだ。
興奮冷めやらぬ頭でさらに考える。
……いやまだだ。
すでに今なら神すらワンパンできるが、完全体になるためにはまだ足りない。
そういえばいたな、もう一人。手のかかる妹が。……クックック。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
伊織はリビングで一人、ぼーっとソファーに座っていた。
いつもならもう家を出る時間なのに、まだ制服に着替えてすらいない。
母親は人に会うと言って、夕食だけ作って昨日の夕方出かけたきり。
姉は昨日の朝早く友達の車で迎えにこられて、泊まりで出かけた。明日の夜にならないと帰って来ない。
今日は暦の上では平日なので学校はあるのだが、出なくてもいい講義しかないとかで自主的に連休を伸ばしたとか。
もちろん進学したての高校生の自分にはそんなことはできない。
だけど……行きたくない。
理由はいくつかある。
連休明けでだるい、眠い。
それはもちろんあるけども、それだけだったらこうまで迷ってはいない。
今日行ったら、おそらく学校で直接聞かれるだろう。
この前の返事を。
返事は結局していない。
連絡先は交換したので、なんらかのメッセージを受け取ってはいるのだけど内容は見ていない。
相手の人は、もちろん嫌いというわけではないし、いい人だと思う。だが好きかと聞かれると全然そんな気持ちにはなれない。
本当は、その場で断ってもよかったのだが、変に断ってしまうと角が立つ。相手は先輩だし、顔をつぶしてしまうことになる。
それに、ないとは思うけど、断ったとたん豹変して何か言われるもしれない。ありもしない悪い噂をを立てられるかもしれない。
迷った末、とりあえず保留という手段をとらざるを得なかった。
本当ならそんなに神経質になることもないのかもしれない。
だが過去の経験が、判断を迷わせた。
昔から、男子からよくちょっかいを出されることが多く、それにムキになって対抗していた。
はたから見ると面白がってふざけているぐらいに思われていたのかもしれないけど、本気でイヤだった。
なにか気に食わないことがあるんだろうな、と思っていた。
だがそれは勘違いだったということがわかった。
中学になって、そのしょっちゅうからかってきたうちの一人が告白してきたのだ。
恥ずかしそう笑いながら、好きな子にちょっかい出しちゃうやつ、みたいなことを言ってきて。
本当は張り倒したいのをガマンした。だからせめて「あんたみたいなの一切興味ないから」と言って思いっきり振ってやりたかった。
だけど小学生のころ、前に一度それをやって失敗した。男の子を振ったのに、なぜか女の子からも冷たい視線を浴びるようになってしまったのだ。
当時はそれが本当に理解できなかったが、このときにはその理屈はわかっていた。
だから実際は、「ごめんなさい」としか言うことができなかった。なんで私謝ってるんだろう、むしろ謝って欲しいのはこっちのほうなのに。
こうなるのが嫌なら、そもそも誘いの段階で断っていればよかったのだが……。
本当に、最初はゆっくりおしゃべりがてらちょっと遊ぼうぐらいの感じだった。
大体その先輩は女だし、男子も呼ぶなんて流れになったのは承諾してしまったその後だ。
携帯のやりとりで、彼氏はいるの? とか、いないなら好きな人は? とか聞かれてうすうす嫌な予感はしていたが。
聞かれた時に、はっきりしておけばよかったのかもしれない。
ただその後が面倒だ。うかつに名前なんか出したら、上級生の女子の間で変に話題になってしまうのではと。
何の魔法かわからないけど、ここ数年はものすごく目立たない。でも注目されてよく見たらっていうのはありそうで怖い。
彼は、結局自分のことなどきっと眼中にないのだろう。変な意地だ。
昔からそうだ。こっちが押そうが引こうが、どこかとらえどころがなかった。きっと、愉快な変な女ぐらいにしか思われていないのだろう。
ならいっそのこと、告白を受けて付き合ってみるのもアリかもしれない。
今は相手に気持ちはなくても、なんだかんだで変わるかも知れないし、友達からでも、なんて言ってくれていたわけだし。
なにより、学校をサボろうかどうか迷っているような、今のこの状況よりひどいことにはならないのではないか。
そういう人がいたなら、こういうとき、助けてくれたりするものなんじゃないだろうか。
どんどん思考があらぬほうへと向かっていく。
これって、今、今日決めないとダメなのだろうか。今すぐにそんな決断は、できそうにない。
とりあえず今日は休んで……、そう、やらなければならない授業の予習も、かなりおおざっぱにしかやってないし。
科目によっては授業もやたらピリピリしているし、やっぱり身の丈に会わない学校に入ってしまったんじゃ。
とかなんとか、自分を納得させる別の理由を考え出してしまっていた。
――ピンポーン。
不意に家のインターホンが鳴る。
その音に、伊織は驚いて体を縮こまらせる。
まるでなにか、悪だくみをしているのを見つかった子供のように。
……誰だろう、こんな朝から。
普段、こんな時間にインターホンが鳴るなんてことはまずない。
誰か帰ってきた? 姉が忘れ物とかで……いやそれなら事前にメールなりなんなりしてきそうなものだ。
母親ならいちいち鳴らさないで鍵を開けて入ってくる。
ということは……?
疑問符を浮かべながら、伊織は自分でも無意識に足音を消してキッチン横のインターホンの画面に近づく。
そして、おそるおそるその画面をのぞきこんだ。
変態兄貴がなにやら矛盾することをのたまっていますが、これは彼がそう思い込んでいるというだけです。




