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「久しぶりね、みーく……水樹君」
その人はにこりともせずにそう言った。
こちらとしてはいきなり腕をつかまれたこともそうだけど、まさかその相手がこの人だとは夢にも思っていなかった。
僕はげっ、と声がもれそうになるのをおさえて、動揺が顔に出そうになるのをこらえて、なんとか形だけあいさつを返した。
「どっ、どうも……お、お久しぶりです……」
こうして面と向かって二人きりで会うのは久しぶりだ。
子供のときはしょっちゅう顔を合わせていた気がするけど、今となっては本当にご無沙汰だ。
僕が返事をすると、相手はかすかに口元をゆがませてつかんでいた僕の腕を解放した。よくできましたといわんばかりに。
そして牧野香織……つまり伊織の姉は、かすかに首をかしげて一緒に目線も斜め上に向けた。
「いつぶりかしら……」
よほどこと細かく思い出そうとしているのか、僕の存在を忘れたかのようにそのまま考え込んでいる。
その間僕は、改めて相手の姿かたちを眺めた。
顔の輪郭を隠すぐらいの長さのまっすぐな黒髪に、印象的な意志の強そうな切れ長の瞳。
スラリとした長身にややゆったりしたブラウス、細身の黒いパンツが長い足を強調している。
顔を見ると確かに変わってない。久しぶりといっても、すぐにその人だとわかった。
でも、ただ道ですれ違っただけでは下手すると気がつかないかもしれない。
それは見た目が、ではなく雰囲気がまるで別人なのだ。
僕の記憶より、全体的にかなり落ち着いた感じがある。いやかなりというレベルではない。
服装ももっと派手派手しい感じで、テンションの高さも今の五倍ぐらいはあった。
見つかったら口の前にまず手が出る。見境なくスキンシップならぬかわいがりが始まっているはず。
もちろん年をとって何らかの変化があるのはおかしいことではないけど……。正直かなり拍子抜けしている。
「三年ぐらい前……?」
「たぶん、そのぐらいかと……」
僕が中学に入ると同時に香織さんは高校を卒業し、一人暮らしをしながら大学に通うということで家を出た。
だから今も大学生のはずだけど、知っているのはそこまでで、詳しいことまでは知らない。ほとんど話を聞いていないから。
中学に入って半年もしたら、伊織とすら学校でたまたま会ったらちょっと話すぐらいでしかなかったし。
しかし三年もの間、香織さんが一度も実家に戻っていないということはないはず。
その気になれば向こうだって帰省したときなんかに、僕の家に突貫していくらでも会いに来れたはずだ。
実際僕らが小さいころはそんなことがよくあった。
僕が無意識に避けていたというのもあるけど、それなのに会っていなかったとなると、よくわからないけどこの場が妙に気まずいということだ。
僕はそんな気分だ。香織さんのほうはどうなのかさっぱりわからない。
「じゃ、荷物」
「に、にもつ?」
指した指の先、香織さんの立つ傍らに中ぐらいのキャリーバッグが立ててある。あのコロコロ転がすやつだ。
「一緒にうちまで持ってきて」
いきなりなんかと思ったら荷物を持てと? やっぱこの人気まずいなんて微塵も思ってないな。
そこまで大きい荷物じゃないし持っていくこと自体は別にかまわないけど、家にとなると……。
絶対にあがっていけと言う流れになる。絶対に。
「い、いやあのっ、ちょっと僕これから出かけようと……」
「……これから? どこに?」
威圧感だ。威圧感が増している。そしてその威圧的な瞳が近距離でギラギラしている。
なにか嘘を言おうものなら一瞬で見抜かれそうだ。
どの道適当に取り繕うにもなにが正解かもわからないし、ここは正直に言うしかない。
「ゲ、ゲームを買いに……」
「却下」
僕が決めた予定を勝手に却下されてしまった。
そもそも却下とかそういう話ではないと思うんだけど……。
「いや、却下と言われても……あ、じゃあ荷物だけ持ってきますよ」
「違うでしょ、久しぶりなんだから、家まで来てお茶でも飲んでいきなさいよという意味でしょう? 荷物ぐらい自分で持つわ」
さっき持ってきてって言ったじゃん……。
予想通りの展開。しかもなんか微妙に怒られているという。
「だいたい、一人でなにをしているの? 伊織はどうしたの?」
「どうしたのって、し、知りませんよそんな……」
なんで僕が伊織の近況を報告しなければならないんだ。
午前十時現在伊織生存確認、とかってやればいいのか。
僕としては当然のことを言っただけなんだけど、向こうはどうにも解せない顔をしている。
「一緒の学校受かったって聞いているけれど?」
「はあ……」
「一緒の学校行ってるんでしょ?」
「まあ……」
「付き合ってるんじゃないの?」
「ええ……っていやいや付き合ってませんよ!」
危ない、流れで肯定するところだった。
なんでそんな話になっているんだ……?
「それは、どういうこと?」
「どういうことといわれましても……、こっちとしてもさっぱり話がわかりませんが」
「なにかおかしいと思っていたのよ、伊織もそのへんはっきり言わないし。それどころかもう学校行きたくないとかぬかしてきたのよあの子。なんか知らない?」
「し、知らないす。……そ、それは五月病的なやつですか?」
「さあ? つい最近よ? ケンカでもしてるわけ? なにかあったのか知らないけど」
夜の公園に呼び出してブスって言ったんですよね。
……なんて言えるか。
しかしケンカしているとか、どっかの誰かと似たようなことを。
にしてもこれってケンカしてるのかね? すごい関係がぎくしゃくしているのは間違いないけど、よくわからない。
この原因をたどるとやっぱ僕のブス発言にいきつくのかもしれないけど、今となるともはやあれだけが原因じゃない。
アレに関しては雫みたいに、案外ダメージはそこまでではなかったのかもしれない。
ハゲてないのにハゲって言われても腹が立たないのと同じことで、そんなに気にしていなかったかも。
その後の展開にいろいろ問題があって、まあ、要するにあわせ技だね。
でもだからと言って、それが原因でいきなり学校に行きたくないとかっていう風にはならないでしょう。
僕の知らないところできっとなにかあったんだろうけど。
大体僕だって学校に行きたいか行きたくないかって言われたらそりゃ行きたくないよ。行かないですむものなら。
「いや、僕もよくわからないうちに、なんかよくわからないことになってまして」
「なにそれは、あなた一体なんならわかるのよ? 付き合ってもいないのにケンカしているとか意味がわからないのはこっちだわ」
なにがそんなに気に障ったのか知らないが、香織さんはみるみる不機嫌になっていく。
何で僕は怒られてるんだ。こうなったのは僕のせいじゃないのに。いや僕のせいかもしれないけど。
「まったく、しょうがないわね……。わかったわ、なんも口を出さないから、自分で何とかしなさい」
「……え」
てっきり仲直りさせてあげるって言うのかと思いきや、投げられた。
あっけにとられた僕の顔に、さらに香織さんは続ける。
「もうあなたたちみたいなしょうもないのは、どんどん谷底にけり落とすから。お姉ちゃ……あたしだってね、もうあなたたちの面倒は見てられないの。わかってる? みーくん」
そこまで言い切った後、香織さんはしまった、という顔をして、
「……水樹君」
最後だけ言い直した。
そのあたり、こだわりというかけじめみたいなものがあるんだろう。
香織さんは伊織と話すときだけでなく僕と話すときも、一人称はお姉ちゃんだった。
昔はそれでよかったのかもしれないけど、今となるとやっぱりそれは変だ。
少しだけさびしいような気がしないでもない。
「大丈夫です……たぶん」
「そ。じゃ、荷物持ってきて」
香織さんは僕の返事をさも当然かのように聞き流して、すたすたと歩いていってしまった。
強引だなあとは思うけど、伊織のことはやっぱり気になる。すごく気になっていたけど、僕一人では結局なにもしなかっただろう。
香織さんはもう僕らの面倒は見ないと断言したけど、実際こうやって手助けされている形になってしまっているなあ。
そんなことを思いながら、僕は香織さんの後を追った。
◆ ◇
「お姉ちゃん、なんで今日になって来んの!?」
部屋の中から伊織のどなり声が聞こえる。
牧野家、二階。
香織さんが伊織の部屋に入っていくやいなや、いきなり口論が始まったようだ。
もちろん僕はそんな中に入っていくことはせず、どうしていいかわからず部屋の外の通路に立っている。
多分まだ僕の存在は伊織に気づかれていない。
家についてインターホンを鳴らしても誰も出ず、仕方なく香織さんが鍵を開けて中に入るも、静まり返っていてまたもや誰も出てこない。
しかし香織さんは、いるのはわかっているぞといわんばかりにずんずん二階に上がり、そのまま伊織の部屋へ。
僕は静かにその後についていったらこのザマだ。
「まだ怒ってるの? だからそれは用事ができたって電話で謝ったでしょ? 今日だって、朝始発に乗って帰ってきたんだけど」
「もう今日じゃ遅いの! こっちだってね、予定があったの!」
「なんの予定? 部屋でゴロゴロしてるのが? ったくだらしない……」
「そんなの私の勝手でしょ? だいたいどこがだらしないのよ」
「まずその服を着替えてから言いなさい。ゴミも片付けて」
この家に上がったのはいつぶりだろう。これこそ三年じゃすまないのではないだろうか。
昔は大きく感じたこの家もすっかり変わって……などと今はどうでもいいことを考えてごまかしていたが、これは完全に出るタイミングを失った。
「私、今日ちょっと誘われてて、これから出かけるし。だからお姉ちゃんとは出かけられないから」
「なに誘われてるって、デート?」
「えぇ? ……まぁ、そうなのかな」
「ゲーム買いに行くとか言ってたけど?」
「は? なんのこと?」
「違うの? ねえ水樹君、伊織がなんかデートとか言ってるわよ」
ついに名前を呼ばれてしまった。
デートとかなんとかって、もちろん僕は関係ないわけだけども。
この流れで呼んでくるとか、マジ鬼畜ですわ。
とはいえいつまでもスネークして聞き耳を立てているわけにも行かず、僕は観念して伊織の部屋に足を踏み入れた。




