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「あ」


 トイレの中には、すでにいたのだ。

 人が。

 先客が。

 女の子が。

 パンツが。

 

 要するにパンツをはいている女子が。

 いや違うな、パンツをはいている女子ということは、普通の女子はパンツをはいていないということになるのでは?

 ……何を言ってるんだ僕は。

 待て、落ち着け。とりあえず落ち着け。

 中にいたのはまっすぐなショートヘアに小さな赤い花の髪飾りをつけた、雫より少し大きいぐらいのそれでも小柄な子だ。

 パンツは薄い水色だ。スカートは赤と黒のチェックだ。

 いやそんな情報はどうでもいい、とにかく女子だ。女の子と言っても雫とか泉じゃない。身内ですらない、赤の他人だ。

 まあ身内のおっさんが入っていてもそれはそれで怖いが……違う違うどうでもいいわそんな、何を考えているんだ。

 あまりの事態に僕は完全に混乱している。

 

 そしてそれは相手も同じらしく、こちらを見ながら固まっている。

 スカートのすそ付近まで持ち上げたパンツを両手でつかんだまま。

 そう、どうやら彼女は用を足し終え、便座から立ち上がってパンツを上げている最中だったようだ。

 そこに僕は踏み込んだらしい。

 この歴史的瞬間に。これはきっと写真つきで教科書に載る。


「あ、あ……」


 アの発音をさっきから繰り返しているのは僕だ。

 出てこない、何も言葉が出てこない。

 ただ向こうはあ、すら言っていない。目を何度かぱちぱちさせているだけ。この点僕のほうがまだ上である。なにが上なのかはわからないが。

 おそらく相手はいまだに状況が把握できていないのだろう。

 つまりパンツをはくときというのは、人間がもっとも無防備になる瞬間である。と僕は思う。それがどうした。


「……ご、ご、ごめん!」


 やっとのことで出た一言。

 と同時に僕は急いで腕を引いてドアを元の位置に戻す。

 ドアが閉じる寸前、その隙間から、女の子の顔がみるみるうちに赤くなっていくのを僕は見た。

 しかしすでに扉は閉ざされた。これで後のことは知らない。一度仕切り直しができる。

 扉を開けたら強そうなボスがいたからやっぱ引き返そうみたいな。よし、レベル上げてまた出直そう。


 ……ふう。さて。


 …………ってヤバイ。ヤバイヤバイ。ヤバイヤバイヤバイ。ヤバイぞこれは超ヤバイ! 超絶ヤバイ!!

 やっと頭がまっとうな思考をするようになった。まっとうな思考とはすなわちとにかくヤバイということだ。

 さっきはあまりの出来事に一週回ってもう冷静に謎の考察が始まったりしていたが、本来ならこっちが先に来るはずだったのだ。

 すんでのところで致命的なシーンは避けられたとはいえ、下手したら女の子が用を足しているところに踏み込んでいたのだ。

 これはうっかりとかラッキーとかそういうのを通り越して、軽く犯罪のにおいがする。

 ラッキースケベなんてなまやさしいものじゃない。これはキャー、バシーン、で暗転、場面が切り替わってほっぺた真っ赤で終わりにはならないぞ。

 変態のぞき盗撮魔スカ兄貴とかなんとかって通り名がこの区域一帯に知れ渡る。

 いやだれが盗撮魔だよ。撮ってはないよ。でもこういうのって尾ひれがつきそうだよな……。

 スカ○ロ王子とか、過去最低な響きだぞ。ついに伏字をしなければならないレベルにまで堕ちるとは。

 でも本当にどっかの国の王子みたいだけど。ってどんな国名だよ。

 

 とにかくこれは社会的立場の破滅だ。破滅スケベだ。ジエンドオブスケベ。

 アニメとかでお風呂とか着替えをのぞくとかはあるが、トイレというパターンはあまり見かけない気がする。

 というのはこれはガチで危険、エロはエロでもシャレで済まない、そもそも性質が違ってくるからではないだろうか。

 耐性がない人は引いてしまうかもしれない。

 

 とまあそんな話はどうでもいい。

 相手はいまだに悲鳴の一つも上げてない。

 キャアアアアーー! って大声で叫ばれてみんなが集まってみたいな考えうる限り最悪なパターンにはならなそうだが……。

 意外にこういうのって声すら出なくなるとかそういうものかもしれない。

 ということは逆に言えばあの子を口封じすればまだなんとかなるのでは。

 よってここで全てを投げ出して全力で外に逃げるとかは下の下、悪手もいいところだ。よし、いいぞ僕はまだ冷静だ。

 だけど口封じって言ってもどうする? なにか相手の弱みを……。

 そうだ、パンツの色をみんなにバラすぞぉ! ……違うな、全然違う。

 じゃあ僕も見せよう、これでおあいこだよ! ……通り名に露出狂、が追加されるだけだ。しかもこれはエロ本の読みすぎだ。

 ……ダメだ、こうなると金を渡すぐらいしか考えつかない。これが現実的かつ紳士的かつ大人な対応。

 世の中の九割のものは金で買えるとか買えないとか。

 しかし金を渡すとなると考えようによっては後払い制の風俗みたいだな。オプションで服装を変えたりとか……。

 いや何を考えてるんだバカか。余計なことを考えるな。


 とかやってたら、不意に扉が開いてビクっとした。

 結局何の対策と言うか準備もできていないという体たらく。

 女の子はゆっくりドアを開けながら、その間からおずおずと顔を出してきた。

 そして真っ赤になった顔で、上目遣いにこちらを見て一言。


「あ、あの、す、すみません……」


 謝られた? 

 むこうの第一声に面食らう。

 もう放送禁止の罵声を覚悟していただけに。

 もしかして、そこまで大したことでもないのか? 

 そんな身の破滅とか深刻に考えずに、軽いノリでかわいいパンツだねーとか言えばいいのか? 

 いやさすがにそれはダメだろ。

 イケメンですら無罪にならないかもしれないのに。

 ブサメン大罪だぞ。しかもトイレに突撃とか、これはもう七つの大罪のうちの一つだぞ。

 どう考えたら向こうが悪いという論理になるのか説明してほしい。


「そ、その……カギ、閉めるの忘れてました」


 閉めるのを忘れたとな?

 そういえばカギかかってなかった。でもだからと言って……。

 

「家だと、いつもカギしめないんで……」


 いや家でもしめろよ。

 などという冷めたつっこみはもちろんできない。

 それにしても何だこの子は、なぜ怒らないんだ。女神か。痴女か。

 つまるところ総合すると、僕はそこまで悪くはないのかもしれない。少なくとも向こうはそう思っているようだ。

 ここはちょっと冗談の一つでも言って軽く和ませつつごまかしていく方向でいいんじゃないだろうか。


「そ、そうかぁ、か、カギの野郎が閉まってないのが悪いよね……。おいカギ、シ、シメるぞコラ……、みたいなね、か、カギだけに」

「……へ?」

 

 ヤバイ、なんだこいつみたいな顔された。

 やっぱここはふざけている場合じゃない、全力で謝罪だ。

 それでも相手の目をまっすぐ見るとか不可能な僕は視線をどこにやっていいかわからず、なぜか女の子の背後の便器のほうを見て謝った。


「い、いやっ、その、こ、こちらこそた、大変も、申しわけ、ございませんでした」

「あっ、いや、ええと……だいじょうぶです。び、びっくりしましたけど」


 びっくりした度でいったら僕も負けてない。実はまだ心臓がバクバクいってるから、そこはおあいこだ。

 しかし大丈夫、ということは、僕を非難する気はないと解釈してよいのでしょうか。

 

「あ、でも……」


 そこで彼女は一度息を飲み込んだ。

 やはりそこまで甘くなかったか。一度安心させてからのタメ攻撃。

 要求はなんだ、金か? 命か? 


「その、すごく……は、はずかしい……です」


 そう言うやいなや、一層顔を赤らめてうつむいてしまった。

 恥ずかしかった……からの、慰謝料を請求、というわけではなさそうだ。

 というか、どうやらそんな風なことを言いそうな雰囲気の子じゃない。

 ただの僕の被害妄想……いやいや、僕は単にちょっとシビアにリスク管理をしただけだ。これぐらいは当然のことだ。

 

 僕はここに来てやっと一息ついて、胸をなでおろすことができた。

 改めて女の子の顔を盗み見ると、こんなときに言うのもなんだがなかなかにかわいい子だ。

 とはいえまだ脅威が完全に去ったわけではない。なにがきっかけで急に態度が豹変するかわかったもんじゃない。

 依然として僕を生かすも殺すも彼女の自由だ。主導権はいまだ彼女の元にある。

 やはり早いところ金を握らせてここはどうか内密に……、とやるのが正解なのだろうか。


「あ、あの……このこと、だれにも言わないでくださいね」


 先手を取られた?

 それはこちらこそというところだけど。

 

「う、うんもちろん……。ほ、本当にだ、大丈夫かな?」

「は、はい。ありがとうございます」


 ……あれ、これなんだ、もう釈放? もう行っていいのかな?

 何事もおとがめなしなんて、まさにこれぞ真のラッキースケベじゃん。

 僕はもう用はないとばかりに、無言で踵を返して速攻でその場を離れようとする。

 もはやトイレで用を足すという当初の目的を完全に忘れ去っていた。


「あ、あのっ!」


 いきなり呼び止められて体がロボットのように停止した。

 漫画的に言うとギクっていう大文字が心臓をブラッディースクライドしてるね。

 さっきもだけど、一度安心させてグサっていうのは本当にやめてほしい。

 無視するわけにもいかず僕はギギギ……と首を回転させて彼女のほうに向けた。


「……な、なにかな?」 

「す、すいません呼び止めて。でも……、あの、お兄さん、私のことって……、お、覚えてます?」


 と彼女は自分の顔を指差した。

 緊張しているのかトイレを覗かれて屈辱なのか軽くその手が震えている。

 実はここで白状すると、この子は一応顔見知りではある。名前は出てこないけど、この子が雫の友達なんだということは知っている。

 ただそれは、中学のときに校舎ですれ違いざまに「こんにちは」とかいきなり挨拶されたり会釈されたりしていたからだ。

 そういうのが他にも何人かいて、この子もその中のうちの一人だ。

 友達の兄だから一応挨拶しとこうみたいな感じなんだろうけど、こっちはいつ絡まれるかとビクビクしていた。

 まあ秘技気づいてないフリとかを駆使してやり過ごしたりはしていたが。

 なのでもちろんこうしてしゃべったことはない。

 ただまあ、顔覚えてます? って言われたらまあ覚えてるってことにはなるのかな。

 

「……う、うん、まあ」

「ホントですか!?」


 それまで不安げだった彼女の顔が急にぱあっと明るくなった。

 なんなの? ここそんなに食い気味になるとこなの?

  

「うれしいなあ~! 覚えててくれたなんて!」

「そ、そう……はは」


 顔を覚えてもらってたくらいでそこまで……よほどキャラが薄いのか。

 気分がよくなったのか、彼女は人が変わったように自分からしゃべりだした。


「雫と一緒に何度か遊んでもらったりしたの、もうかなり前だから覚えてないかなって思ったんですけど……」


 …………え? 遊んでたの?

 やばい、全く記憶にない。だってしゃべったことはないとかさっき自分で断言してたし。

 確かに妹たちの友達とまとめて相手をしていた記憶はあるが、それは中学に上がる前の話だ。

 あのころはそれも含めて不特定多数、名前も覚えてないような子とも遊んでいたからいちいち誰がどれとか記憶してない。

 

「覚えててくれたんですね! ホントにうれしいです!」 

「え、えーっと……」


 何か知らんが今にも抱きついてきそうな勢いでこちらを見つめてくる。

 ここでやっぱ覚えてないとか言えるわけがない。

 なにせ今こちらの立場は完全に下だ。下手に機嫌を損ねてまたさっきのをぶり返されたらたまったもんじゃない。


「そ、そうだねえ、そういえば、あ、そ、そっかー! 大きくなったね」


 適当にあわせることにした。

 親戚のおっさんか。


「えー? 私身長そこまでのびてないですよぉ」


 いや知らんし。

 今のは僕がボケたと思ったのかうれしそうにしているけど、普通に知らんからね。

 名前もわからんし、これ以上突っ込まれたらやばいでこれ。

 ここはボロのでないうちにさっさと切り上げてこの場を退散するに限る。

 

「そ、そっか。は、ははは……。じ、じゃあ僕はちょっと用事があるのでこのへんで」


 僕はさもなにかあるようにずっと沈黙を守っている携帯をわざとらしく取り出してみせた。

 ないよ用事なんかないよ。あるとすれば君の背後にあるよ。トイレに行きたいよ。

 すると彼女は、再び一段トーンを落としおずおずとたずねてきた。


「あ、あの。もしかしてこれから……デ、デートですか?」

「は?」


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