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「うわああああああ!」
その瞬間僕は思わず叫んでいた。
扉を開けたら敵兵がマシンガンを構えて立っていたかのような衝撃。
「ひっ!」
そしてその伏兵――雫もまた、驚きに目をみはって体を硬直させた。
トイレから出たらすぐそこに誰かが立っていた、というよりか、おそらくは僕の断末魔のごとき叫び声によって。
「な、な、なに!?」
僕に対して無視を決め込んでいたはずの雫だったが、今のは完全に素の反応だった。
トイレから出た瞬間目の前で奇声を上げられたらそりゃそうなるか。
「あ、い、いやなんでも……いきなり開いたからち、ちょっとびっくりして」
と弁解するがなんでもないちょっとびっくりした、というレベルの叫び声ではなかった。
雫は僕の顔から視線をはずし、ばつが悪そうにしている。
「あ、あの雫……」
反応なし。
しかし僕はそのまま雫の前に立ちふさがっているので、雫は動くことができない。
「……ジャマなんだけど」
……ジャマ?
やった、存在を無視されていないぞ、ジャマになった。やったぞ、僕はジャマなんだ。
さっき見せた笑顔はもちろんだけど、こうして無表情でそっぽを向いている雫もかわいい。
思わず僕はその両頬を指でつまんでうにーっとやりたくなり……。
がしっ、ぐいーっ。
けっこう伸びるな~。ふふっ、かわいい。
……あれ? やりたくなり、っていうか、もうやってる?
雫もとっさに何が起こったか理解できなかったようで、きょとんとした顔でされるがままになっていた。
が、すぐに気づいてマヌケな顔のまま声を上げた。
「は、はにふるんだよ!」
「あっ、ごめん!」
あわててぱっと手を離すと、雫が両頬を手で押さえながら抗議してきた。
「なにするんだよ!」
「つ、つい勝手に体が……」
「か、勝手に? なに言ってるの!? 今雫は怒ってるんだよ!? 機嫌が悪いんだよ!? そこんとこわかってんの!?」
「すっ、すいません」
雫を連れてこいという指令をすでに放棄し、僕はヤンキーに恫喝されたかのように普通に謝り体をどけた。
しかしわざわざそんなアピ-ルしなくても……。
そういう風に言われるとなんか本当に怒ってるのか疑わしくなるな。
「……あの女、なに?」
そのまま行ってしまうかと思ったが、雫はぽつりとつぶやくように一言質問してきた。
「なにって、ただのクラスメイトだけど」
「ふうん」
自分で聞いおいてなにそのどうでもよさそうな返事。
「なんか、バカっぽいカオしてるし、超ワガママそう」
その人と君がけっこう似てるってもっぱらの評判なんだけど……。
でもこれはちょっとしたチャンスかも?
なにせこれまではいくら話しかけても全スルーされまくっていただけに、雫のほうからこうやって話しかけてきたってことは……。
偶然とはいえ、雫になんとか口をきかせた。ここでうまいこと関係を修復できないものだろうか。
だがとっさに何を話したらいいか思いつかなかった僕は、
「あの、えーっと……その人がいまちょっと、雫と話したいって言っててさ……」
「……うん?」
あれ、一言「ヤダ!」って拒否られて終了だと思ったけど、意外に話を聞きそうな雰囲気?
「まあ、別に無理にとは言わないんだけどさ」
「あっそ」
ん? もしかしてこれって大丈夫なパターンなのか?
それはそれで困るんだけど……。しまった、完全に余計なことを言った。
「……そ、それはオッケーってこと?」
「絶対ヤダ」
ですよねー。最初の段階で言ってくれると変にあせらなくて済んだんですけどねー。
まったくかわいくない……
「べーっだ!」
いやかわいいじゃないか……。
雫は上目遣いにべえっと舌を出すと僕をするりとかわし、リビングへと戻っていった。
さてどうするか。
リビングにはたぶん泉もいると思けど……もういいだろう。
どの道拒否られるとは思うけど、わざわざ自分で自分を窮地に追い込むこともあるまい。
僕は無理やりやりきった感を出しながら部屋に戻ることにした。
「いやーごめん断られちゃって……」
自室に戻ると、なにやら櫻井と二宮さんが二人で話をしていたところだった。
櫻井がちょっとポジションを移動していて二人の距離が縮まっている。
まさか自分の部屋で他人にいちゃつかれるとか、夢にも思わなんだ。
僕の部屋もビックリしてるだろう。こいつら勝手になにしてくれてんだと。
「なんかヤバそうな悲鳴聞こえてきたんだがさっきのお前?」
「い、いや? 違うと思うよ? な、なんのことかよくわからないけど」
これはもうごまかすしかないよね。
トイレに隠れて時間を稼ごうとしたら妹が出てきてビビって悲鳴を上げたなんて言えるわけがない。
やや狼狽を見せる僕にさらに二宮さんが追い討ちをかけてきた。
「ねえ、なんで断られたの?」
「え?」
「水樹くんなんか余計なこと言ったんじゃないの? それとも怖がられちゃったかな?」
バカっぽいとか言われてましたけどね。
まあ代わりに僕が怖がってますけども。
「ねえなんで?」
知らんがな。
子供に赤ちゃんはどうしてできるのって言われるような居心地の悪さを感じる。
「あー、その、し、宿題があるとかなんとか……」
言うに事欠いて宿題て。
ないわ、自分で言っておいてこれはないわ。
「ふぅーん」
案の定全然信じてない顔で返された。
一方櫻井は特に疑う様子もなく、
「まあ宿題なら仕方ねえわな」
こいつはこいつでなんで宿題にこんな理解があるんだ。謎だ。
このまま立ちつくしていると証言台よろしく尋問が続きそうだったので、ドアから大きく一歩入ったところにとりあえず腰をおろす。
すると背後からコンコンとドアをノックする音が。
「どうぞー」
二宮さんが間髪いれず反応する。
いやいやいや、どうぞーじゃないし。僕は全然許可してないし。
もうこれ以上何人たりともこの部屋には入れたくないわ。間違いなく僕の部屋もそう思ってる。
「しつれいしまぁす」
と、がちゃりとドアを開けて顔をのぞかせたのはにこにこ顔の雫。
十中八九そうだとは思ったがどういうことだ、さっき絶対イヤとかなんとか言ったくせに。
一体どういうつもりで……。
雫は中には入らず部屋全体をざっと見回した後、なんと、僕の顔で視線を止めた。
どういうことだ、雫がまっすぐ僕を見ているぞ。
ちくしょう、でもやっぱかわいいじゃないか。なんなんだその笑顔は。反則だ。
「お兄ちゃん」
雫はちょいちょいっと手招きしながらそう呼んだ。
僕のことをお兄ちゃんと……。
ほんの数日ぶりなんだけどなんかものすごく久しぶりな気がする。
いや、この子はある種僕の知っている雫とは違うのでは? と考えると初めてとも言える。
僕はこんなかわいい子のお兄ちゃんなのか……。やった、僕お兄ちゃんでよかったよ。お兄ちゃん万歳。
もうそんな風に呼ばれたら行くしかないよね。
僕は立ち上がりふらふらと吸い込まれるように雫へと近づく。自然に僕の口元も緩む。
そして僕のそのにやけた顔先へ雫がなにか差し出してきた。
「はい、この本トイレに置きっぱなしだったよ」
本だった。僕は無造作にそれを受け取った。
「じゃあごゆっくり~」
雫は本を渡すと、部屋の中にいる二人のほうに声をかけてパタンとドアを閉めた。
そう、何事もなかったかのようにドアは閉まった。
妹がどうたらとかいうほぼエロ漫画を僕の手の中に残して。
なるほど。よくわかった。雫はただこれを渡しに来ただけだったんだね。
この本はあのときの……うやむやになってなくなっていると思ったら、雫が持ち出して持っていたのか。そうかぁ。
ってなにこれヤバイじゃん! だってこれエロ本じゃん、十八禁のやつではないけど一般的にはエロ本と呼ばれてもさしつかえないやつじゃん。
いやこの際もう十八禁かどうかなんてあまり関係ないじゃん? ていうかむしろ十八禁じゃないところがなんか女々しくて逆に恥ずかしいじゃん?
このエロゲーマジで泣けるに通ずるものがあるじゃん?
……いやそれはなんか違うか。
僕はそんなしょうもない自己問答をすることによって、適切なアクションを考えるべき時間を無駄にした。
でもこれだけは断っておくけど、僕にはこのような本を鍵がかかるからという理由でトイレに持ち込む習慣はない。絶対にだ。本当だ。
二人にはまだ気づかれていはいないけど……これどうすんのよ。
このままだとエロ本(仮)王子とかって鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てられるに決まってる。
やべえよやべえよ……。
おそるおそる振り返る。
うん、見てる、二人ともこっち見てる……。
かと思いきや、今二人の注意は櫻井の手元に集まっていた。
見ると櫻井のスマホがブルブル震えながらしきりに着信音を発している。
そしてなぜか櫻井は手にしたスマホの画面を見つめたまま固まっていた。
なんだかわからないがもしやこれは……、チャンス?
「ねえ、出ないの?」
そして二宮さんが固まる櫻井に不思議そうに声をかけた……その刹那。
投げた。
僕はベッドの下の暗闇に向かって、水切りの要領で水平にエロ本を投げた。
そのダイナミックかつ洗練されたフォームから放たれたエロ本は、かすかな摩擦音とともに床を滑り、ベッド下の暗がりに紛れた。
なんと僕は見事エロ本を処理することに成功した。してしまった。まさかの逆転勝利。
……信じられない。まさかこんなうまくいくとは。僕は自分に戦慄した。
そうして自分の新たな才能と、勝利の美酒に酔いしれていると、横から一言。
「ねえ、今何したの?」
……どうやら見られていたようだ。




