16
泉の声に、すっかりほうけていた雫がびくっと反応して立ち上がった。
それとほぼ同時にドアがゆっくり開き、パジャマに着替えた泉が姿を現す。
「あ、やっぱりいた。しずくちゃんはやくお風呂入りなさい」
今日は先に入った泉が風呂を出て雫を呼びにきたんだろう。
しかしここだけ切り取ると本当にどっちが姉かわからないな。
「あ、あ~あ、も、もう! い、いいところで泉が来るんだから!」
雫はそう捨て台詞を吐くと、逃げるようにして泉と入れ替わりにばたばたと部屋を出て行った。
今のは……いつもの感じを装っていたけど明らかに不自然だった。
まずい、あいつ……かなり動揺してる。
普段の言動からするとあのぐらいなんとも思わなさそうなもんだけど、さっきのが相当効いてるみたいだ。
なんかヘンにひきずらなきゃいいけど……。
まああの雫だから多分そんな心配はいらないか。
それよりも今は……。
「兄さん。二人でなにやってたんですか?」
泉がベッドに腰掛ける僕の前に立ちはだかった。
やっぱりそうきたか。さすがに今の雫の異変に泉が気づかないはずがない。
なぜかにっこり笑顔の泉。
この笑顔が逆に怖い。
「なんかしずくちゃんの様子、明らかに変でしたけど。なにやってたんですか?」
「そ、そうかな? いつもどおりでしょ」
「なに、やってたんですか?」
プログラムされたロボットのように、笑顔のまま繰り返される問い。
これ停止ボタンどっかにないかなぁ……。
「し、雫はマンガ読んでたみたいだけど……」
「なに、やってたんですか?」
ダメだ。このロボット壊れてる。
ここは正直に言うべきか……? いやそれは絶対ダメだ。
ここでうっかり雫にエロ本読まれて勃起したとか言ったら踏み潰されるかもしれない。冗談抜きで。
しかもそれじゃ雫の態度の説明がつかないしな。
不本意ながらも押し倒すような形になりマジな感じになってしまったというのが本当のところだけど、どううまくぼかすか……。
……あっ!!
考えながら視線を泳がせていると、視界の端に危険物が飛び込んできた。
ベッドの上に雫が放り出していったエロ本だ。異様なまでの存在感を放っている。
雫が僕のエロ本を読んでいたと思われたらヤバイ。だいたい妹に自分のエロ本を読ませるってどんな状況だ。
慌てて回収しようと手を伸ばしたが、それよりもわずかに早く泉の手が本をかっさらっていった。
「あっ、それっちょっと待った!」
なんなんだ今の早業は!
制止もむなしく、泉は手に取った本をパっと無造作に開く。
開いた瞬間、泉の体が固まった。立ったまま本を凝視して停止。
……ヤバイ、いきなりショッキングな場面を見てしまったか。
動かないから取り上げても大丈夫かなとそろそろ手を伸ばすと、泉の体が動いて普通にページをめくった。
生きていた。ショックで硬直していたわけじゃなかったのか……。
泉は僕の存在を忘れたかのようにずっと無言で本に視線を落としながら、ときおり指でぺらりとやる。
「あの~、すいません泉さん、熟読するのやめてもらえます?」
お客さんウチは立ち読み禁止です。
そう注意すると、泉ははっと顔を上げた。
すぐにぱたんと本を閉じると、どうするのかと思いきや大事そうに小脇に抱えた。
「それで、雫ちゃんとなにやってたんですか?」
そして何事もなかったかのように再び口を開く。
もちろん万引きは犯罪です。
「……いやいや泉さん、その本、どうなさるおつもりで」
「こ、これはわたしが責任を持って捨てておきます」
それを捨てるなんてとんでもない。
いやちゃんと捨てるんだったらまだいいけど……。
「い、いきなり捨てることはないんじゃ……」
「だってこれ、兄さんのじゃないですよね?」
「ええっとそれはだね……」
「こんな低俗なもの兄さんが持っているはずないですし。どうせしずくちゃんがその辺に捨ててあったのを拾ってきたんでしょう」
道端に落ちてるエロ本拾ってくるとか、どこの男子中学生だ。
泉はなにか僕の事を過大評価しているようだけど、こっちにしてみればやりづらいことこの上ない。
これだったら、兄さんもうこんなのばっかり読んでエッチ! とか言われたほうが全然気が楽だ。
ちょうどいい機会だからそのへんをここらで一度はっきりさせておこう。
「泉……、実はその本は僕のなんだ。とても気に入っていて、すご~くゆっくり読んでるから、まだ最後のほうは読んでない。まだまだ使えるんだ。だから捨てないで欲しい」
その瞬間、妹への威厳<エロ本の不等式が完成した。
なんかかっこつけてしゃべったけど、言ってる内容は最悪なお願いだった。
しかも余計なことまで口走ってるし。
「兄さん……しずくちゃんをかばってそんなウソまでついて……。優しい」
なにを言ってるんだこの娘は。なぜそうなる。
こうなったら意地でもわからせてやる。
「いいか泉。それは雫が拾ってきたんじゃなくて、僕が友達からもらってきたやつなんだ。『いやそんなの渡されても困るよ』とか口では言いつつよっしゃラッキーって思いながら。そして僕は妹がいるにもかかわらず妹モノのエロ本で興奮している変態なんだ。だから僕のことあんまり買いかぶらないで」
なんだこの羞恥プレイ。僕はなんでここまで包み隠さず話してるんだ。
しかしさすがにこれだけ言えば泉の勝手なお兄ちゃん像にもヒビが入るだろう。いや、これはヒビどころか爆散してもおかしくはないぞ。
「そんなまさか。またそうやってウソついて……。だいいち兄さんがこんな本で興奮するはずないじゃないですか」
「いやウソじゃないって……だからそんなに僕を美化するのやめてくれって」
しかし僕の像はダイヤモンドかなんかでできてるのか? どんだけ頑丈なんだよ。
「美化なんてしてませんよ? わたしはちゃんとわかってます。口ではつれないフリをしてるけど、本当は兄さんは実の妹で興奮する変態だって」
「なるほど、美化はされてなかったか。でも僕はそんなことは一言も言ってないんだけどね!」
「あ、実の妹って言ってもやっぱりしずくちゃんはダメですよね。さっきもどうせなにか勘違いしたしずくちゃんが、その本片手に兄さんに迫ったんでしょ。でも全然ダメで、あまりの自分の魅力のなさに絶望してうろたえたと」
なんという超解釈。しかし本を片手にっていうところまでは遠からず当たってるのが恐ろしい。
泉の形態が問い詰めモードからわたしは全部わかってますモードに切り替わったようだ。
まあいいか。今日のところはそう思っていてくれたほうがまだ害はない……はず。
「き、今日はヤケにものわかりがいいね……てっきりまたひねくれるかと」
「兄さんのこと、信じてますから。兄さん昔よりすっかり冷たくなってわたしのこと嫌いになっちゃったのかと思ってたんですが、昨日のことでそれは間違いだってわかったんです。本当はわたしのこと気にしてくれていて……」
いやさっきから全然僕の話信じてくれてないだろ……。
「だから……」
そこで一回言葉を止めると、泉は僕を見下ろしている状態から一歩前に足を踏み出し、すぐベッドの上、僕のすぐ隣に腰をおろした。
風呂上りのせいかシャンプーのいい香りがする。それに得体の知れない甘い匂い。
泉は普段からやたらいい匂いがするんだよな……。すんすん……。あ、なにやってんだ僕は。
と泉の匂いに気をとられていると、泉が不意にごろんと体を倒し膝の上にしなだれかかってきた。
「……またなでなでしてぇ……おにいちゃぁん……」
別人のような猫なで声。そのうちごろごろ言い出しそうだ。
昨日ので完全に味を占めたなこいつ……。
うかつに撫でたりしてまた痴漢行為されたらこっちはたまったもんじゃない。
「いやいいよもう……、重いからどいて」
「やだぁ! はやくなでなで!」
なんだこの幼稚園児は。
「昨日みたいに調子に乗るからダメ」
「え~? じゃちゅーして?」
「ぶーーっ!」
あっさり言いやがったぞこの下の妹は!
さっきの雫とのやりとりが急激にバカらしくなってくる勢いだ。
「い、いきなりなに言ってるんだよおまえ!」
「えっ、だってほっぺにちゅーとかよくしてくれたでしょ」
「あっそれは言うな! そ、それはずっと昔、こ、子供のときの話だろ!」
嫌な記憶が……。
そりゃ昔はね……、二人の事めちゃくちゃかわいがってたからね。
それはもう、周りからドン引きされるぐらいに。今となっては完全に黒歴史だけど。
あの頃はなぜか妹たちのこと最高にかわいいと思ってたんだ。
今みたいにブサイクだけど中身はかわいくていい子なんだよなって言うんじゃなく、外見も中身も全部。
断っておくがこれは僕がロリコンだとかいう話じゃない。
昔の写真とか見返してもやっぱり見てる間にだんだん憎たらしくなってくるし、なんか怪しい催眠術にでもかかってたんじゃないのかって思う。
そんな僕の困惑もおかまいなしに、泉は「んー」と柔らかそうな唇を突き出してくる。
……おいおい、ほっぺにちゅーじゃないだろうそれは。
昔のことはいざ知らず、今の二人には口を付けるどころか、近距離に顔を近づけただけで吐き気を催しそうになるっていうのに。
我ながらよくやってたもんだ。もういろいろ狂ってたね。
……あれ?
と思ったけどこれは……全然そんなことない。なんとかいけそうかも……? これならどうにか……。
いける……な。うん、いける。普通にいける。全然いける。楽勝でいける。
いやむしろしたい。すごくしたい。ていうかさせてください。
僕は何の躊躇もなくぐっと唇を押し付けて……。
ッと待った!
すんでのところでパっと顔を上げる。
危ねえ、これじゃさっきの二の舞じゃないか。
にしてもなんでこんな……。どういうことだ今のは。さっきといい今のといい絶対おかしい。
危険な思考を振り払うようにぶんぶんと顔を横に振る。
そして改めて泉の顔を見直すと、
「うっ」
思わず軽くのけぞってしまった。
……う、うげっ気持ち悪っ。やっぱ無理だ。
いま見た映像を黒くかきけしたくて、反射的にぎゅっと目を閉じてしまう。
すると次の瞬間、唇に何かが触れる感触が。
なんだ? こ、これはまさか……。
おそるおそる目を開く。
漏れる光から目に映ったものが、最悪なものでなくてとりあえず一安心。
唇に当たっていたのは、泉のひとさし指の先だった。
「なに……してんの?」
「だってほら、おにいちゃん昔は泉の指よくしゃぶってたよね。いい匂いするって言って」
封印していた記憶がまた一つ甦る。
はいどう見ても僕は変態でした。本当にありがとうございました。
…………いやもうね、昔の僕は存在自体が黒歴史みたいなもんだね。もし今、目の前にいたら殴りたい。君が泣くまで殴るのをやめたくないね。
なにがひどいかって、今のだってまだ序の口だっていうことだ。他にも相当痛い言動を日々繰り返していた。
雫や泉のおかしな言動も元をたどれば僕の激しいスキンシップが原因なのかもしれない。あくまで一因だと思いたいけど。
でも痛すぎて面白い奴と思われていたのか、そのころは女の子とも普通に接して遊んでたりしてたんだよな。
いや普通にって言うか「今日もパンツ見せて」とか今思い出すともだえ死にしそうなことばっか言ってた気がする。
それでも袋叩きにあったとかっていうことはなかったから、あれは僕の最初で最後の奇跡のモテ期だったのかもしれない。
だけどその時の僕は妹にしか目がいってない変態兄貴だったから、他の子はことごとくスルーしまくった。
今思うとなんてもったいない事をしたんだろう。
「ねえおにいちゃん、なめないの? じゃああれやって、耳をかぷってするやつ」
「なにそれ、僕そんなの知らない。断じて知らない」
もうこれ以上後でのたうちまわるような記憶を思い出したくないので、さっさと泉を追い出すことにした。
「あーもう今日は早く寝よ。なんかもう頭痛くなってきた」
「じゃ今日は一緒に寝よ?」
「寝るわけないだろ!」
「えー、だっておにいちゃん昔は泉の寝てるところにもぐりこんできて……」
「はいもうダメダメ出て行って今すぐ速やかに!」
僕はベッドから立ち上がると、ぐずる泉を無理やり押し出してドアを閉めた。そのまましばらくドアに寄りかかって再侵入を防ぐ。
ドア越しに「じゃ泉お布団で待ってるからね」なんて聞こえてきたが無視。
なにをバカな……、行くわけないだろ。
にしても、あーなんか、……死にたくなってきた。