14
その日の晩。
夕食を終えた後、僕は自室で勉強机に向かい明日の授業の予習をしていた。
辞書を片手に新しい単語の意味を調べ上げて、英語の訳文をノートに書き連ねていく。
いつもはそれほど時間もかからずてきぱきとこなせるこの作業。
しかし今日はどうにも勝手が違った。
「そんな……ダメだよお兄ちゃん……わたしたち兄妹だよ……?」
ペンを走らせる手が頻繁に止まってしまう。
気がつけば考えているのは今日の放課後のこと。
やっぱりどうしても、あれからずっと伊織のことが気になって仕方ないのだ。
それは僕の言葉が足らなくてヘンに誤解させてしまったこともそうだけど、そんなことよりももっと重大な……。
「でもわたし、お兄ちゃんならいいよ……? 初めてだから優しくしてね……?」
伊織に電話しようかと何度か携帯を手に取ったが、彼女の顔を思い浮かべるとなぜか気が引けてしまう。
相手がこれまでとは違う誰か、そう、まるで伊織が別人になってしまったかのような感覚に襲われるのだ。
それに電話して、そのことをなんて言うべきかもうまく思いつかない。
伊織に、もしくは僕に何らかの変化があったのは間違いない。でもそれが何かはまだ正確にはわからない。
もう一度面と向かって直接会えば、きっとはっきりすると思うんだけど……。
「あ、あんっすごいこれっ、わたし初めてだけど感じ……」
「雫、うるさいから出てって」
さっきから僕が真面目に悩んでいる裏で、勝手に人の部屋に入ってきて勝手に人のベッドの上で変な声を出してるのがいる。
さすがにスルーするのも限界が来た。
「なんでぇ、雫はただお兄ちゃんの部屋にあったマンガ読んでるだけだよ?」
「その本にそんなセリフ書いてないから」
雫がベッドに寝転びながら開いているのは週間少年マンガの単行本だ。そんな二秒で規制されそうなセリフがあるはずもない。
しかし雫のヤツ、なんて声出すんだ。
雫の声は普段からちょっと鼻にかかったような特徴ある声で、いわゆるアニメ声ってやつだろうか。その割に妙に声が通って声量もある。
それが狙って悩ましげなロリボイスを出してくるものだから、声だけ聞いているとかなりエロい。あくまで声だけね。
「あれぇ~、おっかしいなぁ。じゃこっちの本はぁ?」
そう言って雫が枕の下から取り出したるは派手な表紙の本。
あっ、あれは!
富田君にうっかりページ破いちゃって新しいの買い直したからあげるって言われて困るなあこんなの渡されてもって言いながらも受け取ってがっつりお世話になってしまってさらに困っているやつじゃないか!
まあつまり俗に言うエロ漫画なんだけど、雫のヤツいつの間に……!
カバーを他の本のもので偽装して本棚に置いておいたのにしっかり元通りになってるし……。
思わぬ事態に絶句している僕の顔へ、雫は勝ち誇った笑みを向けてきた。
「ねえねえお兄ちゃん、初めてだけど感じちゃうの?」
「知らないよ!」
「ねえねえ、じゃあこれどこで買ったのこれ? なんでこれを選んだの? レジに持っていくときどんな気持ちだった? 店員は男? 女? いくら払ったの? おつりは?」
怒濤の質問攻め。
おつりとか聞いてどうすんだよ……。
「……いや、それ僕が買ったんじゃなくて、ちょっと友達が……」
「買ったらすぐカバンに隠した? 帰り道は何を考えてたの? 帰ってこの本見ながらどうするつもりだった? してる最中についつい妹の顔がよぎっちゃった事は? 妹を押し倒したいと思ったことは?」
「もういいよわかったよ、僕の負けだよ。出てかなくてもいいから、せめて静かにして。あとそれは返して」
「うんわかった。雫ちゃんいい子だから静かにしてるね」
僕は早々に敗北を宣言した。雫を追い出すのはあきらめたが、とりあえず本だけは回収しよう。
あんなものを妹に読ませたらとても教育に悪い。ガチの18禁のヤツじゃないけどやっぱアレはダメだ。まあもう読んでるかもしれないけど。
机を離れて雫のいるベッドに近づく。
するとベッドの上に座りなおした雫が、本と一緒にティッシュの箱を手渡してきた。
「はいっ、どーぞ☆」
「いや、あのね……」
「雫のことは気にしないで、いつもみたくしていいよ。しず~かにして見てるから」
はあ……。これはもう雫の気が済むまで勉強は無理だな。
僕は盛大にため息をついた後、雫と同じようにベッドの上に腰掛けた。
すると相手をしてもらえると思ったのか、雫は本を脇においてすぐさまうれしそうににじり寄ってくる。
「ねえねえお兄ちゃん、今日勉強あんまり進んでないみたいだったけどなに考えてたの? 雫の声で興奮しちゃった?」
「いや、別に……」
「……もしかしてぇ、伊織ちゃんのこと考えてた?」
ぎくりとして思わず雫の顔を見てしまう。
ズバリ当ててきた。なんでわかったんだ……?
「……な、なんでそう思った?」
「だってぇ、朝な~んかヘンだったんだよねー。伊織ちゃんが来た時のお兄ちゃんの態度」
「そ、それはあれだよ、伊織の機嫌が悪そうだったから……」
「違ーう、なんか朝伊織ちゃん来る前からそわそわしてた」
しまった墓穴を掘った。
いやまあいつもどおりまったく意識していなかったといえば嘘になるけど、そんなにわかるものなのか……?
「雫はお兄ちゃんのちょっとした変化も見逃さないよ? お兄ちゃんわかりやすいし。でもま、あの女はバカだから気づいてないと思うけど」
僕ってそんなにわかりやすいんだろうか……。なんかちょっとショックだ。
雫は得意げな顔でさらに続ける。
「お兄ちゃんどーせ昨日あたりまた伊織ちゃんに『私またコクられたんだけどどうしよう~』っとかって言われたんでしょ? ほんっと必死すぎて痛いよね~あの女。ちょっとまともな神経じゃな~い」
さすがに原因までは当てられなかったか。
まあ僕でさえよくわかってないのにわかるはずもないか。
「お前たちなんでそんな仲悪くなっちゃったんだ? 昔はよく一緒に遊んでたし仲良かったじゃん。雫も泉も伊織のことお姉ちゃん、なんて呼んでて」
昔は三人ともよく仲良くしていて、まるで本当の姉妹のようだった。小さいときはみんなかわいかったな。
そういえば僕も伊織の事をもう一人の兄妹ぐらいに思っていたっけ。姉っていうのもヘンだからまあギリギリ妹ぐらいの気持ちで。
いや……、それは過去形じゃなくてずっと続いてたのかもしれない。そう、ほんのちょっと前まで……。
「だから伊織にあんまりちょっかい出すのもうやめなよ」
……そのうちブン殴られても知らないぞ。
そうたしなめると雫はわかりやすくぷくーっと頬を膨らませた。
「だって毎朝迎えに来るとか常識で考えてありえないし。なんか勝手に彼女ヅラしてるけど何様って感じ。こっちだって毎朝するめいか用意するの大変なんだよ?」
「いやそれは誰も頼んでないから」
雫の方もそれなりに苦労があったらしい。
伊織が迎えに来るようになったのは二週間前くらいからだったけど、毎日来てたからなあ。
中学時代もホントに最初だけで一緒に登校なんてしてなかったし。まあそれは学校がチャリですぐ行けてそんな遠くなかったのもあるか。
しかし常識とかっていうワードが雫の口から飛び出すことが驚きだ。
いや、そうでもないか。普段はふざけてるけどよく周りを見てるし、意外とまともな感覚の持ち主なのかもしれないな。
雫は少し迷うような顔をした後、急に真面目なトーンで尋ねてきた。
「それで、お兄ちゃんはどう思ってるの」
「えっ、なにを……」
「あの女のこと!」
いきなり言われても……。
それは……、気にならないといったらウソになる。
「……いや、えーっと、どうなんだろう」
「なにそれ、はっきりして」
雫の態度はかなり険しい。
正直にそう言ったら、どうせまた怒りだすだろうな。
ここはちょっと話をすりかえるか。
「た、たぶん伊織は、明日からは迎えにきたりはしないと思う。もう来なくていいって言ったから」
「それ本当?」
「う、うん」
「ふ~んそーなんだ、ならいいや」
それだけ伝えると、僕が伊織のことはどうでもいいと思っていると解釈したのか、雫はふっと力を抜いて唇の端を持ち上げた。
「一人から回りして、みじめな女だよねほんとに。ぷくく」
意地悪な子だよ本当に……。
「なに、なんか文句ある?」
「えっ」
「今の、ウソじゃないでしょうね」
「う、ウソじゃないよ」
「な~んか怪しいんだよなあ。……ダメなんだから、あの女だけは絶対……。まあいいや、あんな女の話より」
雫はさっき一度手放したエロ漫画を再び手に取った。
そして両手で表紙を見せびらかすように本を持ち、そのまま押し付けてくる。
「おにーちゃん、雫ご本読んでほしいなっ」
お得意のロリボイスを駆使して、陰口女から一気にかわいいぶりっ子妹に早代わり。
といっても普通のかわいい妹は兄にエロ本を音読しろとか強要したりしないけど。
雫はまったくためらいなく目の前でぱらぱらページをめくって見せてくる。
「どこからでもいいよ? お兄ちゃんのお気に入りのシーンからでも」
「だからもうそれは勘弁してってば。返しなさい」
「やっぱりここかなぁ? このページが破れてるところ。興奮して破いちゃったんだよね?」
「いやそれは最初から破けてて……」
富田君……。
よりによって妹キャラが出てくるところを……。
なんかヘンな汗が出てきた。嫌な予感がする……。