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ベーシックインカムで働かない僕と、愛犬アトマンの日常~人嫌いなヤマアラシは、ヤブ医者さんに勝てそうもない~

作者: 夕暮れの家
掲載日:2026/09/01

※本作はお犬様の可哀そうなシーンがあります。苦手な方は退避してください。

私は後世に名を残す超天才である!


……ということはない。僕はただの一般人だ。しかし、愚民どもよりは物を知っている。


愚民どもに囲まれる学校という地獄が終わり、愛犬のアトマンと二人、のんびりした暮らしをしている。


ベーシックインカムが施行され、働かなくてもよくなり、節約さえすれば愛犬と暮らすこともできる。


豊かな良い時代? いや、世の中は糞だ。


働かなくて良くなったことで皆暇になった。そして、暇に勝てない内面がかすっかすのペラい馬鹿どもが、刺激を求めて右往左往している。


SNSを開けば炎上事件があちこちで起き、罵詈雑言の嵐だ。実に低俗で人間らしい。


SNSだけでなく、リアルな人間関係も低俗だ。暇を持て余した人間共がやたらと群れている。そうしてドロドロの人間関係を日夜繰り広げ、その愚痴を溢れかえらせている。


実に嘆かわしい。愚民が愚民たるゆえんだ。


まあ、僕には関係ない。


今日も完璧な一日が始まる。7時に起き、アトマンにご飯をあげる。


「アトマンよ、もっとしっかり噛んで食べてくれ」


朝から執筆活動をする。愛犬アトマンを観察してわかったことを日夜描いているのだ。


人間が全ての生き物の中で頂点であるとふんぞり返った馬鹿どもに、現実を思い知らせなければならない。僕が全ての生物の救世主になるのだ。


今日も短い短編漫画を描いてSNSに投稿する。


『アトマンは今日も可愛い』


SNSの糞どもには僕の作品の良さは伝わらない。アルゴリズムがおかしい。世間がおかしい。


しかし、僕には崇高な使命があるから、ここで心を折るわけにはいかないのだ。


今日も聖典である漫画を読みながら、己の画力を高める。


「アトマンよ、これは遊んでいるんじゃない。別に暇をしているわけじゃないんだぞ。……ボールだな。よし、取ってこい!」


そうして午前中を過ごしたらお昼だ。お昼は少し多めに取り、夕食は軽めに済ます。健康こそが幸せの基盤であり、健康さえあれば幸せに生きられるのだ。


大好きなもやし炒めを食べ、アトマンに最高級ご飯を渡す。


この笑顔が見たかった。しかし、秒で食べきるのどうにかならないのか? もっと味わうとか。


午後はレコードを聴く時間だ。今のご時世、円盤で音楽を聴いている人間は少ない。僕のような通しかしない趣味だ。


部屋に柔らかい音が広がり、空気に染み渡っていく。この空気が好きなのだ。


アトマンも音楽が好きで、いつも大人しく聴いている。……アトマン、アトマン、ボールは後にしない? 今? よし、取ってこーい!


14時になった。僕はコートを羽織り、鏡を見て髪型を整える。


一日で一番大事な時間、そう、散歩だ。


アトマンは非常に賢いので、散歩の時間がわかる。時間になると襲いかかってくるのだ。嬉しいから、たまにわざと時間に気づかないフリをしている。


散歩道の冷えた風が、僕のコートの裾を揺らしていた。


優雅な散歩の時間だ。


「おい! このっ! 人間め! 少しは歩調を合わせろ!」


アトマンはダッシュが好きだ。リードの先で誇らしげに胸を張る白のトイプードルを睨みつけると、人間臭い愛犬は、フンと鼻を鳴らした。


この時間に散歩へ行くと、いつも奴がいる。


「あっ、アトマンちゃん!」


最悪だ、またあの女だ。アトマンお気に入りの散歩コースの公園で、巨大なジャーマン・シェパードを連れた女——近所の獣医、上原が立ち止まった。


アトマンは僕の制止も聞かず、尻尾を千切れんばかりに振ってシェパードへ駆け寄っていく。


「ヤブ医者……」


「何かおっしゃいました、佐藤さん?」


ヤブ医者は可憐な笑みを浮かべてこちらを見てくる。この女の能天気さには吐き気がしてくる。


先日アトマンが体調を崩して病院へ連れて行った時も、僕が青ざめている前で、


「うーん、ただの食べ過ぎですね。ご飯が美味しかったのかな?」


などと呑気な診察を下したのだ。ヤブ医者のヤブ医者たる所以である。


僕はヤブ医者が信用ならないから付きっきりで看病し、翌日にはアトマンは元気になった。


呑気に犬たちを見る横顔は間延びしすぎていて、鼻の穴に指を突っ込みたくなる。


「犬は素晴らしいですね」


「そうですね」


僕は短くそう答え、一緒に犬を眺めた。


* * *


家に着いた。時刻は16時だ。夕飯の支度を始める。お金をかけず絶品料理が作れるが、糞面倒くさいことで有名なレシピ本を見ながら仕込みをする。


煮込んでいる間に、趣味の開発をする。


愛犬と話したいというのは、飼い主ならば誰もが持つ夢だろう。


しかし、僕はただの一般人。ボタンを押すと『はい』と『いいえ』と鳴る装置を作るので精一杯だった。


アトマンに今日も使い方を説明する。


「アトマンよ、顔を舐めていないでボタンを……お腹空いた? ちょっと待ってね。よしよーし!」


高級レストランにも負けない料理を1品食べ、白米をかき込む。アトマンと一緒のご飯の時間は素晴らしい。


アトマン、アトマン、だから食べ終わるの早いって。


夜はアトマンが眠くなるまで遊んだり、聖典を読んだりして終わる。


こんな毎日をずっと続けている。僕は幸せだ。だからよりわからない。世間の愚民共は何をそんなに飢えているのか。


そんな世の中を変え得る大事な疑問を考えていたら、アトマンが催促するから寝ることにした。


おやすみなさい。


* * *


今日も同じ日々の繰り返しだ。飽きたかと問われれば飽きてはいない。日々、細かい違いがあるからだ。


「アトマン、ここ寝癖がついてるぞ」


笑いながらブラッシングをすると、アトマンも誇らしげだ。


散歩の時間だ。ヤブ医者はいるだろうか?


いつもの公園に着くと、いつもとは違う光景が目に飛び込んできた。


公園の広場から、品性の欠片もない大声と犬の悲鳴が聞こえてくる。


スマホの自撮りカメラを持った男が、小さな子犬を足蹴にしていた。


ベーシックインカムで暇を持て余した大衆が群がっている。


犬の鳴き声が上がる度、男は下卑た笑いをあげる。


「皆! 次は何して欲しい? ほらほら!」


頭の中で何かがぶち切れた。僕は無意識に拳を握り締め、男を殴り飛ばしていた。


「これだから人間は下劣で下等なんだ……!」


男が起き上がり、僕を睨む。そして獰猛に笑う。


「チャレンジャーの登場だ!」


カメラに決めポーズを取る。


「さあ! 賭けた賭けた! どっちが勝つ? まあ、俺様の勝ちだろうけどね!」


今の日本は違法賭博があちこちで行われている。愚民が!


固めていた拳をほどき、息を深く吐く。体から緊張を取り去る。


OK、僕ならできる。血祭りにあげてやる!


僕の気持ちに同調して、アトマンも唸りをあげる。


動物のことを何も思っていない人間至上主義の愚か者に、鉄拳制裁を下してやる——。


「そこまでです!」


僕たちの前に飛び出したのは、ヤブ医者だった。彼女は迷いのない手つきで警察へ通報した。


「何だお前! 営業妨害か!」


「動物虐待の現行犯です。警察が来るまで動かないでください!」


男は分が悪いと思ったのか、拍子抜けするほどあっさりと立ち去った。


警察が到着し、野次馬が散らばっていく中、ヤブ医者は怪我をした犬を優しく抱き上げた。


「大丈夫ですよ、すぐ病院で治療しますからね。私が救います」


彼女の横顔には、いつもの能天気な笑みはなかった。ただ目の前の命を守るという、毅然とした強い意志だけがあった。


ヤブ医者も愚民にすぎない。愚民にすぎないんだ……。


* * *


その夜、自分の部屋で一人、葛藤していた。ヤブ医者の横顔が忘れられなかった。


僕はヤマアラシだ。他人と関われば相手を傷つけてしまう。


僕の棘で皆を傷つけてきた。親や兄弟、友達だった人たち。


だから僕は人と関わってはいけないのだ。


ヤマアラシは近づいてはいけない。適切な距離があるんだ。


なのに、僕の胸はこんなにも苦しい。


「うぅ……」


頭を抱えて落ち込んでいると、


『はい』


と電子音がした。


アトマンが、僕の作ったボタンを押したのだ。


「……アトマン?」


アトマンは「ワン」と短く鳴き、僕の膝に頭を乗せてきた。


前を向けって言ってるのかい?


僕にはそう聞こえた。


* * *


翌日、僕は意を決して動物病院のドアをたたいた。診察室の奥で、ヤブ医者が少し驚いたように振り返る。


「佐藤さん? アトマンちゃん、また何か食べちゃいましたか?」


「いえ……」


僕は固く拳を握りしめ、ずっと胸に溜め込んでいた「針」を、必死に伏せながら口を開いた。


「僕はヤマアラシなんですけど、大丈夫ですか?」


自分でも何を言っているのか分からなかった。変人だと思われるに決まっている。


だが、ヤブ医者は数秒目を見開いた後、ふっと柔らかく目を細めた。


彼女は僕へ近づくと、迷いのない動作で手を伸ばしてきた。


「大丈夫ですよ。ヤマアラシは、頭が柔らかい毛で覆われていて、こうやって撫でることができるんですよ」


温かい手が、僕の頭にぽんと置かれ、優しく撫でられた。


あまりの出来事に、僕は息を呑む。優しく頭を撫でられる感覚が全身に広がっていく。


(ああ、僕はこの人には敵いそうもないな)


自分の惨めな敗北を悟ると同時に、胸の奥から温かいものが溢れ出してきた。僕は少しだけ、笑った。

お読みいただきありがとうございました(*´ω`*)

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