第3話 「恋をする余白」
恋が終わったんじゃない。
ただ——
“恋をする余白がなくなっただけ”。
その言葉を見つけたのは、ほんの偶然だった。
夜、子供たちを寝かしつけたあと。
なんとなく開いたスマホの画面。
流れてきた記事の一文に、指が止まった。
——余白。
その言葉が、やけに心に残る。
確かにそうかもしれない、と思った。
朝はバタバタと始まって、
子供の準備に追われて、
家事をこなして、
気づけば一日が終わっている。
夜は夜で、疲れていて、
やっと一息つける頃には、もう何もする気力が残っていない。
その中で——
“誰かを好きでいる余裕”なんて、あっただろうか。
「……なかったかも」
小さく呟く。
好きじゃなくなったわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、向き合う時間も、
気持ちを向ける余裕も、なくなっていただけ。
そう考えると——
少しだけ、楽になった気がした。
全部が壊れているわけじゃない。
ただ、埋もれているだけ。
なら——
掘り起こせばいいのかもしれない。
「……できるのかな」
不安が、すぐに浮かぶ。
今さら。
十年も経って。
子供もいて。
そんな状況で、また“恋人みたいに”なんて。
でも——
やらなかったら、きっとこのままだ。
あの静かな食卓も、
言えなかった言葉も、
全部、続いていく。
それは、嫌だった。
「……少しだけ」
私は小さく息を吐く。
大きく変えなくていい。
全部を取り戻そうとしなくていい。
ほんの少しでいい。
時間の長さじゃなくて、質。
その言葉を、もう一度思い出す。
——少しの時間でもいいから、会話をする。
子供の話じゃなくて。
生活の話でもなくて。
“私たちの話”を。
「……よし」
小さく頷く。
それが、私の最初の一歩だった。
次の日の夜。
いつも通り、あなたが帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
変わらないやり取り。
でも、今日は少しだけ違う。
私は、キッチンに立ちながら、タイミングを待っていた。
食事の準備をしながら、頭の中で何度も言葉を組み立てる。
——何を話せばいい?
重い話は違う。
責めるのも違う。
自然に。
できるだけ、自然に。
「……」
心臓が、少しだけ速くなる。
こんなことで緊張するなんて、思ってもみなかった。
「ご飯できてるよ」
「うん、ありがと」
いつもの流れ。
食卓に並ぶ料理。
向かい合って座る。
テレビはつけない。
——今日は、つけない。
リモコンに手を伸ばしかけたあなたより、ほんの少しだけ早く、
私はそれを取った。
「今日は、いい?」
自分でも驚くくらい、穏やかな声だった。
あなたは少しだけ不思議そうな顔をしたけど、
「……ああ、うん」
と、頷いた。
それだけで、少しだけ空気が変わる。
静かな食卓。
でも、それは今までの“冷たい静けさ”とは違っていた。
「……あのさ」
私は箸を持ちながら、口を開く。
一瞬、言葉が詰まりそうになる。
でも、ここでやめたら、また同じだ。
「最近、ちょっと嬉しかったこと、ある?」
言えた。
ちゃんと、言えた。
あなたは一瞬、止まる。
予想通りの反応。
そりゃそうだと思う。
こんな質問、久しぶりすぎる。
「……嬉しかったこと?」
「うん」
私は小さく頷く。
できるだけ、軽く。
重くならないように。
「なんでもいいんだけど」
少しの沈黙。
あなたは考えるように視線を落として、
「……あー……」
と、言葉を探す。
その時間が、やけに長く感じた。
やっぱり、無理だったかな。
そう思いかけた、そのとき。
「この前さ」
あなたが、ぽつりと話し始める。
「部下が、初めて一人で案件取ってきて」
私は思わず顔を上げる。
あなたが仕事の話をするの、久しぶりだった。
「それで、なんか……嬉しかったっていうか」
少しだけ照れくさそうに、笑う。
その表情を見た瞬間、
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
——ああ、この顔。
好きだった顔だ。
「そっか」
私は自然と笑っていた。
「すごいじゃん」
「まあな」
少しだけ、誇らしげな声。
ほんの少しの会話。
それだけなのに、
空気が、明らかに違っていた。
沈黙が怖くない。
むしろ、心地いい。
「……」
私は、もう一つだけ、と思う。
欲張らない。
でも、あと少しだけ。
「ねえ」
「ん?」
「昔さ」
少しだけ、勇気を出す。
「よくさ、くだらない話してたじゃん」
あなたが、少しだけ目を細める。
「……ああ」
「私、あれ好きだったなって」
言いながら、少し恥ずかしくなる。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
あなたは少しだけ考えてから、
「……俺も」
と、小さく言った。
その一言で、十分だった。
全部じゃなくていい。
昔みたいに、全部戻らなくていい。
でも——
少しだけ、戻れた気がした。
ほんの少しだけ。
それでも、確かに。
「……」
食卓の上に流れる空気が、柔らかくなる。
それは、ほんの小さな変化だったけど、
私にとっては、確かな一歩だった。
——余白。
きっと、こういう時間のことを言うんだと思う。
無理に作るものじゃなくて、
でも、意識しないと生まれないもの。
私は、そっと息を吐く。
まだ、始まったばかり。
でも——
このまま終わるより、ずっといい。
「……ねえ」
もう一度、声をかける。
今度は、少しだけ自然に。
「今度さ、少しだけ時間取れない?」
あなたがこちらを見る。
その目は、さっきよりもちゃんと“私”を見ていた。
「……時間?」
「うん。ほんの少しでいいから」
私は、ゆっくりと言う。
焦らずに。
逃げないように。
「二人で、話したい」
その言葉に、
あなたは少しだけ驚いた顔をして、
それから——
「……いいよ」
と、頷いた。
その返事を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かが静かにほどけた気がした。
——大丈夫かもしれない。
まだ、ちゃんと繋がれる。
そう思えた夜だった。
(第4話へ続く)




