第2話 「覚えていない、という現実」
時計の秒針が、やけにうるさく聞こえる。
リビングでは、あなたが変わらずスマホを見ている。
テレビの音も、もう頭には入ってこない。
私はキッチンの前に立ったまま、動けずにいた。
——今日、なんだよ。
喉の奥まで出かかった言葉を、飲み込む。
言えばいい。
それだけで済む話なのに。
でも、言ってしまったら——
“覚えていなかった事実”が、はっきりしてしまう気がして。
それが、怖かった。
「先、風呂入る」
あなたがそう言って立ち上がる。
その一言で、今日が“ただの一日”として終わることが、確定した気がした。
「……うん」
私は小さく頷く。
何もなかったみたいに。
いつも通りみたいに。
浴室のドアが閉まる音。
その瞬間、家の中が急に静かになった。
スマホをもう一度手に取る。
画面には、さっきと同じ通知。
「結婚記念日」
指でなぞるだけで、簡単に消えてしまうその表示が、やけに軽く見えた。
——こんなに重いのに。
私は小さく息を吐いて、ソファに座る。
あなたがさっきまでいた場所は、まだ少しだけ温かかった。
それが、余計に寂しい。
「……はは」
思わず、乾いた笑いが漏れる。
覚えていないだけ。
たぶん、そう。
仕事が忙しいのも知ってる。
最近、帰りが遅いのも知ってる。
疲れてるのも、ちゃんとわかってる。
——でも。
それでも。
“覚えていてほしかった”
その気持ちだけは、どうしても消えてくれなかった。
しばらくして、あなたが風呂から出てくる。
濡れた髪をタオルで拭きながら、いつものように冷蔵庫を開ける。
「ビール、いい?」
「……うん」
短い会話。
それ以上、何も続かない。
プシュッと缶を開ける音。
一口飲んで、あなたは小さく息をついた。
「あー、疲れた」
その言葉に、私は何も返せなかった。
“お疲れさま”って言えばいいのに。
いつもなら、自然に出てくる言葉なのに。
今日は、出てこなかった。
代わりに、胸の奥で何かが静かに沈んでいく。
「……今日さ」
気づけば、声が出ていた。
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
「ん?」
あなたが振り向く。
その何気ない視線が、少しだけ怖い。
「……なんでもない」
やっぱり、言えなかった。
あなたは特に気にする様子もなく、「そっか」とだけ言って、またテレビに視線を戻す。
それで終わり。
——ああ、やっぱり。
胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて崩れた気がした。
期待していたわけじゃない。
プレゼントが欲しいとか、
特別なことをしてほしいとか、
そんなことじゃない。
ただ——
「覚えていてくれるだけでよかった」
それだけだったのに。
それすら、叶わないんだ。
「……そっか」
今度は、私が呟いた。
誰に向けるでもなく。
その言葉は、どこにも届かないまま、静かに消えていった。
時計の針が、またひとつ進む。
今日が、終わる。
何もなかったみたいに。
でも、確実に何かが変わってしまった夜として。
私はもう一度、あなたを見る。
同じ場所にいるのに、
もう同じ景色は見えていない気がした。
——ねえ。
私たち、どこで間違えたんだろう。
(第3話へ続く)
(夫視点)
「ちゃんとやっている、はずだった」
「最近、どうしたの?」
同僚にそう聞かれて、俺は一瞬言葉に詰まった。
「いや、別に」
適当に流す。
でも、本当は気づいていた。
家の空気が、少し変わっていることに。
理由は、わからない。
ただなんとなく、会話が減った気がする。
——いや、減ったんじゃない。
もともと、こんなものだったかもしれない。
結婚して十年。
子供も二人いて、生活は安定している。
仕事も順調だ。
部下も増えて、責任も大きくなった。
正直、余裕なんてない。
毎日、結果を求められて、
ミスは許されなくて、
家族を守るために、必死で働いている。
——それの、何がいけないんだろう。
帰宅時間が遅くなるのは仕方ない。
疲れて帰ってきて、ゆっくりしたいと思うのも普通だ。
ちゃんと生活費は入れてる。
子供のことだって考えてる。
休日はできるだけ一緒に過ごしてるつもりだ。
“ちゃんとやっている”
そう思っていた。
でも——
「奥さん、大丈夫?」
不意に、同僚がそんなことを言った。
「え?」
「いや、なんか最近元気なさそうっていうか」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「……そう見える?」
「うん。なんとなくだけど」
なんとなく。
その曖昧な言葉が、妙に残った。
家に帰る。
いつものようにドアを開ける。
「ただいま」
返ってくる「おかえり」は、いつもと同じはずなのに、
どこか少しだけ、温度が低い気がした。
気のせいだと思おうとする。
でも、その違和感は消えない。
食卓に並んだ料理。
いつも通り、美味しい。
「うまいよ」
そう言うと、彼女は「そっか」と笑った。
——笑った、はずなのに。
どこか、違った。
うまく言えないけど、
昔みたいな“柔らかさ”がない気がした。
「……」
何か言おうとして、やめる。
仕事のことで頭がいっぱいで、言葉が出てこない。
それに、何を言えばいいのかもわからない。
“普通”でいいと思っていた。
特別なことなんて、いらないと思っていた。
一緒にいて、当たり前に時間が過ぎていく。
それが一番、安心できる形だと。
でも——
それは、本当にそうだったのか。
風呂から出て、ビールを飲む。
いつもと同じ流れ。
なのに、妙に落ち着かない。
「……今日さ」
彼女が何か言いかける。
「ん?」
振り向くと、彼女は少しだけ迷った顔をして、
「なんでもない」
と、言った。
それで終わり。
——なんでもない、わけないだろ。
心の中でそう思う。
でも、それ以上は聞けなかった。
聞いたところで、どう答えればいいのか分からないから。
しばらくして、スマホに目を落とす。
仕事の通知がいくつか来ている。
その中に、ひとつだけ。
カレンダーの表示。
「——結婚記念日」
一瞬、思考が止まる。
日付を確認する。
間違いない。
今日だ。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。
——忘れてた。
その事実が、遅れて重くのしかかってくる。
さっきの彼女の様子が、頭の中で繋がる。
料理を聞いてきたときの顔。
笑ったようで、笑えていなかった表情。
言いかけて、やめた言葉。
全部、理解してしまう。
「……マジか」
小さく呟く。
どうして忘れてたんだ。
いや、理由はわかってる。
仕事だ。
忙しくて、余裕がなくて、
そんな言い訳はいくらでもできる。
でも——
それで済ませていいことなのか。
「……」
スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
リビングを見る。
彼女はもうキッチンに立っていて、こちらを見ていない。
その背中が、やけに遠く感じる。
——こんな距離、前からあったか?
気づいていなかっただけで、
ずっと前から、少しずつ離れていたんじゃないか。
「……」
何か言わないと。
そう思うのに、言葉が出てこない。
「ごめん」
その一言でいいはずなのに、
どうしてこんなに難しいんだろう。
ちゃんとやっているつもりだった。
家族のために、頑張っていたつもりだった。
でも——
それだけじゃ、足りなかったのかもしれない。
「……」
俺は、初めて考える。
“夫婦でいること”って、何なんだろうって。
(続く)




