第9話「帰還」
フェルンベルク領は、王都から三日の距離にある。
豊かな穀倉地帯と、古くからの鉱山を抱える公爵領。名目上は王国でも有数の豊かな土地だが、その実情は、王都の帳簿ほど整ってはいない。
丘を越えた瞬間、広がるのは金色の麦畑――のはずだった。
だが、季節外れの冷害の影響で、穂はまだらに痩せている。
馬車の窓からその光景を見たアリアは、静かに息を吐いた。
「……収量は予定の八割、といったところかしら」
「現地からの報告では七割とのことです」
対面に座るミレイユ・クロードが、淡々と告げる。
彼女は王都の下級官僚だったが、派閥争いの余波で閑職に追いやられていた。今回、アリアの帰還に合わせて招いた。
細縁の眼鏡を押し上げながら、帳簿をめくる。
「税収減は避けられません。加えて、騎士団維持費は例年通り」
「削減は」
「反発が出ます」
即答。
アリアは小さく頷く。
王都で学んだばかりだ。
正論だけでは足りない。
馬車が城門をくぐる。
フェルンベルク城は王城ほど壮麗ではないが、堅牢な石造りの城だ。
門前には領民と騎士団が整列している。
拍手はある。
だが熱狂ではない。
様子を窺うような視線が混じる。
――王太子に捨てられた令嬢。
その噂は、ここまで届いているはずだ。
馬車が止まり、扉が開く。
アリアはゆっくりと降り立つ。
風が頬を打つ。
王都よりも冷たい。
「お帰りなさいませ、公爵令嬢様」
騎士団長セルマ・グランツが進み出る。
長身の女騎士。鋭い目つき。軍装は質実剛健。
「ただいま戻りました」
アリアは微笑む。
だがセルマの目は、わずかに険しい。
「王都の件、聞き及んでおります」
「ええ」
「ここでは、王都ほど甘くはございません」
歓迎の言葉ではない。
忠告だ。
「承知しています」
アリアははっきりと答える。
城内へ入る。
執務室に通され、すぐに簡易会議が始まった。
出席者は、ミレイユ、セルマ、そして古参の執政官ルドルフ。
「まずは現状報告を」
アリアが促す。
ルドルフが咳払いする。
「冷害により収穫は減少。だが問題はそれだけではありません」
「他にも?」
「王都での騒動が、こちらにも波及しております」
嫌な予感が走る。
「具体的には」
「若い騎士の一部が、王家への忠誠を疑われたと感じております」
アリアは目を伏せる。
やはり、ここにも。
「加えて」
ミレイユが口を挟む。
「都市商人が、令嬢の改革案を支持すると公言。農民の一部が『税は減るのか』と期待を抱いております」
「……減らすとは言っていない」
「ですが、そう受け取られております」
受け取られた結果が現実。
王都で学んだばかりの事実。
セルマが腕を組む。
「騎士団の中に、不穏な動きがあります」
「反乱?」
「そこまでではない。だが、不満はある」
アリアはゆっくりと席に座り直す。
王都での言葉が、ここでも火種になっている。
「まずは騎士団との対話を」
そう言いかけて、止まる。
対話だけでは足りない。
逃げ道が要る。
「……セルマ団長。騎士団の維持費、内訳を」
セルマがわずかに眉を上げる。
「削減なさるおつもりで?」
「違うわ。順番を考えるの」
全員がこちらを見る。
「痛みは分かち合うべき。でも、順番がある」
王都で伯爵が言った言葉。
それを、今度は自分が使う。
「まずは公爵家の私費を削る」
室内が静まり返る。
「祭礼費、贅沢品、王都との往復費用。可能な限り」
「それでは示しがつかぬ」
ルドルフが言う。
「逆です」
アリアは首を振る。
「示すの。公爵家も身を削ると」
セルマがじっと見つめる。
「その上で、騎士団と協議する。いきなり削らない」
ミレイユが小さく頷いた。
「順番を作る、ということですね」
「ええ」
王都での失敗は、急ぎ過ぎたこと。
今回は違う。
まずは信頼。
合意。
「ですが」
セルマが低く言う。
「甘いと見られれば、つけ込まれます」
「分かっている」
アリアは真っ直ぐに答える。
「だからこそ、同時に改革案も提示する」
「改革?」
「騎士団の農閑期雇用制度を導入する」
室内にざわめきが走る。
「農民の護衛、街道整備、治水工事。軍務と民生を兼ねる」
セルマの目が鋭くなる。
「騎士の誇りを損なわぬ形で、収入を増やす」
誇り。
それを守る。
ただ削るのではない。
「……面白い」
セルマが呟く。
完全な賛同ではない。
だが、拒絶でもない。
アリアは深く息を吸う。
王都とは違う。
ここでは、自分が責任を取る。
失敗すれば、直接領民に返る。
「まずは騎士団と話すわ」
決意を込めて言う。
「王都で学んだことを、ここで試す」
ミレイユが小さく笑った。
「実験国家、というわけですね」
「ええ」
アリアは立ち上がる。
「証明するの。正しさが、合意と両立できると」
窓の外、曇った空の下で麦畑が揺れる。
豊かさは保証されていない。
忠誠も、合意も。
だがここから始める。
王都で失ったものを、土台にして。
まだ彼女は知らない。
この最初の選択が、思わぬ犠牲を生むことを。
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