第8話「証明」
三日後の朝、王都は薄い霧に包まれていた。
フェルンベルク公爵邸の門前には、すでに馬車が二台待機している。積み込まれた荷は最小限――衣装箱がいくつかと、書類を収めた木箱、そして領地の地図をまとめた筒。
華美な装飾品は持っていかない。
王太子妃候補として用意された宝飾も、そのまま金庫に残した。
持っていくのは、数字と課題だけだ。
「お嬢様、本当にお一人でご挨拶を?」
マリアが小声で問う。
「ええ」
アリアは頷いた。
「最後くらいは、自分の足で歩きたいの」
王城への道は、思ったよりも短かった。
何度も通ったはずの石畳が、今日は妙に遠く感じる。
城門の前で、衛兵が一瞬ためらうように視線を泳がせたが、やがて静かに道を開けた。
婚約は解消された。
だがフェルンベルク公爵令嬢であることに変わりはない。
謁見の間ではなく、側室控えの小広間へ通される。
格式が一段下がったことを、誰も口にしない。
やがて、レオハルトが姿を現した。
公的な装束。王太子としての顔。
「領地へ戻ると聞いた」
「はい」
一礼する。
距離は一定。
昨日の私室とは違う、公式の空気。
「王都は騒がしい」
「承知しております」
「火種を残していく」
「火は消します」
アリアははっきりと言う。
「いずれ」
レオハルトの視線がわずかに揺れる。
「いずれ、殿下が困らぬ形で」
沈黙。
それは約束ではない。
宣言だ。
「……証明するのだな」
「はい」
迷いはない。
「正しさが国家を守れると」
その言葉に、レオハルトは一瞬だけ目を閉じた。
「正しさだけでは足りぬ」
「存じています」
アリアは微かに微笑む。
「ですから、合意を作ります」
昨日とは違う。
刃ではなく、結び目。
その変化に、レオハルトは気づいている。
「生き残れ」
再び告げられる言葉。
「改革は、成功するか失敗するかより先に、潰されることが多い」
「潰されません」
即答。
だが、傲慢ではない。
「潰されない方法を学びます」
その言葉に、レオハルトの口元がわずかに緩む。
「ならば、競おう」
「競う?」
「どちらの国家が、生き残るか」
血統と合意。
現在と未来。
対立ではない。
競争だ。
「望むところです」
一礼。
それで、終わりだった。
婚約者としての別れではない。
国家を巡る、同志であり競争相手としての別れ。
城を出ると、霧は少し晴れていた。
馬車に乗り込む。
車輪が回り始める。
王城の塔が、徐々に遠ざかる。
胸の奥に痛みはある。
だが、それは足枷ではない。
課題だ。
マリアが隣でそっと問う。
「怖くはございませんか」
アリアは正直に答える。
「怖いわ」
王都を離れる。
中央から外れる。
味方は少ない。
敵は多い。
「でも、怖いからこそ」
視線を前に向ける。
「準備するの」
急がない。
刃を振るわない。
逃げ道を作る。
痛みの順番を考える。
領地は実験場だ。
ここで合意を作れなければ、王都では通らない。
丘を越えると、フェルンベルク領の大地が広がった。
黄金ではなく、やや痩せた麦畑。
現実は甘くない。
だが、ここから始める。
「証明する」
小さく呟く。
正しさは、孤立ではなく、結束を生むと。
馬車は進む。
王都の塔は、やがて地平の向こうに消えた。
だがその影は、確かに彼女の背に伸びている。
未熟さを自覚した改革者が、初めて自分の足で立つ。
それが、彼女の本当の出発点だった。




