第7話「正しさだけでは」
王城の私室に通されたとき、アリアは自分の足音がやけに大きく響くのを感じていた。
昼間の公的な空気とは違う。ここは、王太子レオハルトの私的空間だ。
壁に掛けられた王家の紋章。整然と並ぶ書物。窓の外には夜の王都。
かつて婚約者として何度も訪れた場所なのに、今日は距離がある。
「夜分に失礼いたします、殿下」
一礼する。
「……構わぬ」
レオハルトは机の前に立ったまま、振り向かなかった。
しばし沈黙。
先に口を開いたのは、アリアだった。
「本日の小競り合い、報告はお受け取りですか」
「受けている」
短い返答。
「私の発言が火種になりました」
自分で言い切る。
逃げない。
レオハルトはゆっくりと振り返った。
「火種は前からあった。君は、それに風を送っただけだ」
責める声ではない。
だが、擁護でもない。
「それでも、私が送った風です」
「……ああ」
認める。
その肯定が、胸に重い。
「なぜ、あの場で言った」
問いは静かだ。
「根回しも、調整もなく」
アリアは一瞬だけ目を伏せた。
「急がねば、財政は持たぬと思ったからです」
「急げば、国が割れる」
即座に返る。
正論だ。
「割れないよう、説得します」
「説得で、誇りは守れるか」
昨日と同じ言葉。
だが今日は、私的な空間だ。
逃げ場はない。
「誇りは、特権で守るものではありません」
「では何で守る」
詰め寄られる。
アリアは息を吸う。
「行動で。役割で。責任で」
「理想だな」
レオハルトの目がわずかに曇る。
「だが、彼らにとって誇りは“既にあるもの”だ。証明するものではない」
その違い。
アリアはようやく理解し始めていた。
「……私は、彼らの恐怖を見ていませんでした」
小さく言う。
レオハルトの眉がわずかに動く。
「恐怖?」
「奪われることへの恐怖。価値を否定されることへの恐怖」
窓の外を見つめる。
「私は、数字しか見ていなかった」
沈黙が落ちる。
やがてレオハルトが口を開く。
「君は、正しい」
何度目かの言葉。
だが、続きがある。
「だが正しさは、刃だ」
ゆっくりと歩み寄る。
「鋭く振るえば敵を断つ。だが、味方も傷つける」
目の前まで来る。
距離は近い。
だが、もう婚約者ではない。
「王太子は、刃を振るう役目ではない」
「では、何を」
「均衡を保つ役目だ」
均衡。
その言葉が、胸に落ちる。
「理想と現実、誇りと必要、過去と未来。その全てを崩さぬように」
それが彼の立場。
アリアはようやく理解する。
自分は未来を見ていた。
彼は現在を守っていた。
「……それでも、私は退きません」
静かに、しかし強く言う。
「国家は変わらねばならない」
「変えるなとは言っていない」
レオハルトは即答する。
「だが、変え方を学べ」
その言葉に、胸の奥が痛む。
切られたのは、感情ではない。
方法だ。
「君を切ったのは、私だ」
はっきりと告げる。
「王太子として」
アリアは視線を逸らさない。
「個人としてではない」
その区別が、かえって残酷だ。
「……恨んでいるか」
唐突な問い。
アリアは一瞬、考えた。
怒りはあった。
悔しさも。
だが。
「いいえ」
正直に答える。
「理解はしています」
「納得は」
「していません」
レオハルトの口元が、わずかに緩む。
「そうだろうな」
短い笑み。
だがすぐに消える。
「領地へ戻れ」
命令ではない。
助言でもない。
「そこで証明しろ」
低く、しかし確かに。
「正しさが、合意を生むと」
アリアは深く息を吸う。
胸の痛みは消えない。
だが、形が変わる。
敗北から、課題へ。
「……証明いたします」
顔を上げる。
「次にお会いする時は、殿下に“切る理由”を与えません」
一瞬、レオハルトの瞳が揺れた。
「恐ろしいな」
「望まれたのは、殿下です」
静かな応酬。
そこに甘さはない。
だが、敬意はある。
「生き残れ」
最後に、彼は言う。
「改革者は、死ねばただの夢想家だ」
その言葉は冷酷で、現実的だ。
アリアは深く一礼する。
「承知いたしました」
扉へ向かう。
背中に視線を感じる。
だが振り返らない。
回廊に出た瞬間、夜気が頬を打つ。
涙は出ない。
もう、泣く段階は終わった。
正しさだけでは足りない。
だが、正しさを捨てるつもりもない。
必要なのは、結び方だ。
刃ではなく、合意で。
王城の塔が夜空に浮かぶ。
あそこに戻る日が来るかは分からない。
だが次に立つ時は、今とは違う。
未熟ではなく。
孤立ではなく。
味方を伴って。
アリアは歩き出す。
敗北は終わった。
ここからは、証明だ。




