第5話「貴族の論理」
フェルンベルク公爵邸の応接間は、普段よりも静まり返っていた。
来客は少ない。だが、水面下の使者は増えている。
旧知の貴族からの探り、都市商人からの支持表明、そして匿名の抗議文。
婚約破棄は、単なる個人の不幸ではない。
政治的事件だ。
「お嬢様、グラーツ伯がお見えです」
マリアが告げる。
アリアはわずかに目を細めた。
グラーツ伯。
旧貴族派の中堅。温厚だが、家門意識は強い。
「お通しして」
数分後、恰幅のよい中年の伯爵が入室した。
「このような折に、失礼いたします」
「構いませんわ」
形式的な挨拶を交わし、着席する。
伯爵はしばし言葉を選び、やがて口を開いた。
「令嬢のご提言、理にかなっております」
意外な言葉だった。
アリアは表情を変えない。
「ですが」
続く言葉は予想通りだ。
「理にかなうことと、受け入れられることは別でございます」
「受け入れられるよう、説明を尽くすべきです」
即答。
伯爵は苦笑した。
「説明とは、何でございましょうな」
彼は指先で卓を軽く叩く。
「免税特権は、確かに財政の重荷です。しかし、それは我らが王家に剣を捧げた証」
「過去の忠誠を、現在の財政と切り離すべきでは?」
「切り離せば、何が残りますかな」
伯爵の瞳が、わずかに鋭くなる。
「我らは王家の臣である。だが同時に、家門の当主でもある。家を守る責務がある」
「国家が傾けば、家も守れません」
「国家とは、家の集合でございます」
静かな応酬。
アリアは息を整える。
「ならば問います。国家が破綻した場合、誰が責任を取るのですか」
「王家でございましょう」
「では、王家の財政を支えるのは?」
伯爵は一瞬、黙った。
「……痛みは、分かち合うべきです」
アリアはそう言った。
正論だ。
だが、伯爵は首を横に振る。
「痛みは、順番がございます」
「順番?」
「まずは王家が身を削る。その後に、我らが削る」
その言葉に、アリアは初めて言葉を失った。
王家の身を削る。
具体的には何か。
宮廷費の削減か。
軍の縮小か。
それは王権の弱体化に直結する。
「貴女は、王家の立場を考えましたか」
伯爵の問いは穏やかだが、重い。
アリアは、昨日の壇上を思い出す。
王太子の握られた拳。
苦渋の表情。
「……十分に」
言い切れない。
伯爵は立ち上がる。
「令嬢。貴女は優秀であられる。しかし、優秀さは時に刃となる」
その言葉は、クラリッサと同じ響きを持っていた。
「刃を振るう前に、鞘を用意なさいませ」
深く一礼し、去っていく。
扉が閉じる。
応接間に、静寂が戻る。
アリアは椅子に背を預け、天井を見上げた。
痛みの順番。
逃げ道。
鞘。
昨日から繰り返される言葉。
自分は、刃を振るった。
だが、鞘を用意していなかった。
机上の資料に目を落とす。
数字は変わらない。
理屈も変わらない。
だが、それを通すための道筋が、見えていなかった。
扉が再び開く。
「お嬢様、外で小競り合いが」
マリアの顔が青ざめている。
「若い騎士と、商人の一団が言い争いを」
アリアは立ち上がる。
「怪我は」
「今のところは」
窓辺へ向かう。
門前で数人が揉み合っているのが見えた。
怒号が飛び交う。
「侮辱だ!」
「特権を守るだけの寄生虫が!」
言葉が、刃のように交差する。
昨日までは、同じ王都の民だった。
だが今は、敵のように睨み合っている。
自分の言葉が、境界線を引いた。
喉の奥が乾く。
これが、波及。
これが、政治。
「止めさせて」
アリアは低く言う。
使用人たちが駆け出す。
騒ぎはほどなく収まった。
だが、溝は残る。
窓越しに、若い騎士がこちらを睨んだ。
怒り。
誇り。
そして、裏切られたという感情。
アリアは、その視線を受け止めた。
逃げない。
だが、胸の奥が重く沈む。
理屈は正しい。
だが、人は理屈では動かない。
「……合意」
小さく呟く。
合意とは何か。
全員が納得することか。
それとも、全員が不満を飲み込める地点か。
まだ答えは出ない。
だが一つだけ、確かなことがある。
このままでは、王都は割れる。
そして、自分はその火種の一つだ。
アリアは目を閉じる。
逃げ道を用意する。
痛みの順番を考える。
鞘を作る。
それが出来なければ、次に振るう刃は、自分に向く。
まだ彼女は知らない。
刃を収める術を学ぶには、まず自らが傷つく必要があることを。




