第4話「王太子の決断」
王城、執務室。
重厚な扉が閉じられると、外のざわめきは嘘のように遠のいた。
レオハルトは机の上に広げられた報告書を見つめている。
「若手騎士三十余名が私邸前に集結。現在は解散させましたが、再集結の恐れあり」
軍務卿の報告は簡潔だ。
「都市商人連合は、令嬢の提言を支持する声明を準備中とのこと」
宰相が続ける。
王都は、すでに割れている。
レオハルトは目を閉じた。
昨日の光景が蘇る。
壇上でのアリアの姿。
迷いのない声。
正しい理屈。
そして――逃げ場のない一撃。
「殿下のご決断は妥当でした」
宰相が静かに言う。
「婚約を維持したままでは、旧貴族の支持を失いかねませぬ」
「支持、か」
レオハルトは小さく呟く。
支持とは、何だ。
忠誠とは。
金で買うものではない、と彼女は言った。
それは正しい。
だが、忠誠は感情だ。
誇りだ。
歴史だ。
数字では測れない。
「公爵令嬢は優秀です」
軍務卿が口を開く。
「しかし、あの場での発言は、あまりに急でした」
「急がねば、財政は持たぬ」
レオハルトは反射的に言い返す。
沈黙。
自分で分かっている。
急ぐべきだった。
だが、急ぎ方があった。
「殿下」
宰相の声が柔らかくなる。
「王太子とは、正しさを選ぶ立場ではございませぬ。国家が割れぬ道を選ぶ立場にございます」
割れぬ道。
昨日、彼が選んだのはそのはずだ。
だが。
胸の奥に、鈍い痛みが残っている。
「……彼女は、恨むだろうか」
思わず漏れた言葉に、宰相は目を伏せた。
「公爵令嬢は、理を解する方です。いずれ理解なさるでしょう」
理解。
それは救いにはならない。
レオハルトは立ち上がり、窓辺へ向かう。
王都が広がる。
遠く、商業区の煙。
その向こうに、貴族街。
すべてを束ねるのが王家だ。
だが、束ねるとは、どういうことだ。
強く握ることか。
緩やかに結ぶことか。
彼の背後で、扉が再び開いた。
「クラリッサ様がお見えです」
侍従の声。
「通せ」
銀髪の令嬢が入室する。
深く一礼。
「殿下」
「王都の様子は」
「火種は小さくございましょう。しかし、放置すれば燃え広がります」
淡々とした報告。
「フェルンベルク令嬢にはお会いしました」
レオハルトの指が、わずかに止まる。
「……何を話した」
「国家は計算式ではない、と」
静かな沈黙。
「殿下は、正しいご判断をなさいました」
クラリッサははっきりと言う。
「旧貴族の離反は、王権の揺らぎに直結いたします」
「だが、彼女の提言は」
「正しい」
即答だった。
「だからこそ、危ういのです」
レオハルトは振り返る。
クラリッサの瞳は揺らがない。
「正論は、人の逃げ道を奪います。逃げ道を失った者は、牙を剥きます」
昨日の広間の空気。
怒り。
恐怖。
牙。
「私は、彼女を守れなかった」
低く呟く。
「守るとは、どういう意味でございましょう」
クラリッサは問い返す。
「婚約者として、か。改革者として、か。あるいは――」
一拍置く。
「殿下個人として、か」
レオハルトは答えない。
答えられない。
「いずれ、再び相対する日が来ましょう」
クラリッサは静かに言う。
「その時、殿下はどの立場で彼女を見るおつもりですか」
王太子としてか。
一人の男としてか。
国家の象徴としてか。
問いは、重い。
「……王太子としてだ」
ようやく絞り出した言葉。
クラリッサはわずかに頷く。
「それが、王家の連続性でございます」
血統。
歴史。
連続。
それを守るために、彼は昨日、婚約を切った。
正しい。
だが、正しいだけでは、胸の痛みは消えない。
クラリッサが去った後、レオハルトは一人、窓辺に立ち尽くした。
遠く、フェルンベルク公爵邸の屋根が見える。
彼女はいま、何を思っているだろう。
怒っているか。
泣いているか。
それとも、次の策を練っているか。
きっと、最後だ。
あの目は、折れない。
「証明すると、言ったな」
小さく呟く。
正しさが国家を守れると。
ならば、自分も証明せねばならない。
王太子の選択が、国家を守ると。
王城の塔に、夕陽が差す。
王都は静かだ。
だが水面下では、確実に潮が動いている。
婚約破棄は、終わりではない。
国家を巡る、静かな戦いの始まりだった。




