第2話「免税特権という聖域」
王城を出た馬車の窓から、アリアは王都の街並みを見下ろしていた。
石畳の大通り。香辛料の匂い。行き交う商人と荷馬車。城壁の向こうに広がる工房街の煙。
この都市が、王国の富の源だ。
そして同時に、歪みの震源地でもある。
「お嬢様……」
向かいに座る侍女のマリアが、不安げに声をかける。
「本日は、お疲れでございましょう」
「ええ」
短く答え、アリアは視線を外さなかった。
疲れなど、感じている余裕はない。
頭の中では、すでに次の計算が始まっている。
――免税特権の総額は年間金貨三万枚相当。
――その半分でも徴収できれば、軍備再編と穀倉地帯の灌漑整備が可能。
理屈は変わらない。
必要な改革だった。
「王太子殿下は……」
マリアが言葉を選ぶ。
「お嬢様をお守りになれなかったのでしょうか」
その問いに、アリアは一瞬だけ目を伏せた。
「違うわ」
守られなかったのではない。
切られたのだ。
政治的に。
理屈で理解できる。
だが、理解できることと、納得できることは違う。
馬車が石畳の段差を越え、揺れる。
その衝撃で、壇上の光景が脳裏に蘇った。
貴族たちの顔。
怒り。
侮辱。
恐怖。
――恐怖?
アリアは、そこで思考を止めた。
彼らは怒っていたのではない。
怯えていたのだ。
特権を奪われることに。
地位を失うことに。
忠誠が疑われることに。
彼らにとって免税特権は、単なる金銭問題ではない。
誇りの証明。
歴史の象徴。
血統の対価。
アリアは小さく唇を噛んだ。
自分は、それを数字に置き換えた。
三万枚。
効率。
財政均衡。
だが彼らにとっては、三万枚ではなかったのだ。
百年の記憶だった。
馬車は商業区を抜け、貴族街へ入る。
整然とした石造りの屋敷が並ぶ。
その一角、フェルンベルク公爵邸が見えてきた。
門前には既に数人の記者と、野次馬が集まっている。
噂は早い。
婚約破棄。
王都にとって、これ以上ない娯楽だ。
馬車が止まる。
扉が開く。
ざわ、と人々の視線が刺さる。
アリアは背筋を伸ばし、堂々と降り立った。
足は震えていない。
震えさせない。
「公爵令嬢様! 本日の件は事実ですか!」
「王太子殿下との関係は!」
「免税特権削減案は撤回されるのですか!」
問いが飛ぶ。
だがアリアは微笑を崩さない。
「本日の発言は、すべて国家のための提言です。それ以上でも以下でもございません」
それだけ答え、屋敷へ入る。
扉が閉じた瞬間、外の喧騒が遠のいた。
広間では父、公爵が待っていた。
厳格な表情。
だが、その目には微かな憂慮。
「……やったな」
低い声。
「はい」
「間違ってはいない」
父はそう言った。
しかし、続ける。
「だが、やり方を誤った」
その一言が、重い。
「免税特権は聖域だ。触れるなら、根回しが要る。時間が要る。王太子の威信を守る道筋が要る」
アリアは黙って聞く。
「お前は、正論で踏み込んだ。逃げ道を残さなかった」
逃げ道。
政治における逃げ道。
アリアは、それを考えたことがあっただろうか。
「レオハルト殿下は、板挟みだった」
父の言葉は淡々としている。
「貴族の支持を失えば、王太子として立てぬ。だが、お前を庇えば、旧貴族は離反する」
「……では、私は」
「切られるしかない」
事実だった。
冷酷なほど、合理的な選択。
アリアは拳を握る。
「私は、国家を守るために」
「皆そう言う」
父は静かに言った。
「貴族も、王も、お前も」
広間に沈黙が落ちる。
国家を守る。
その言葉の中身は、人によって違う。
「三日後、領地へ戻れ」
父が告げる。
「王都に留まれば、余計な火種になる」
事実上の退去命令。
追放ではない。
だが、中央からは外される。
アリアはゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
部屋を出て、自室へ向かう廊下。
窓の外に、王城の塔が見える。
遠い。
つい先ほどまで、あの中にいたのに。
扉を閉める。
静寂。
鏡の前に立つ。
完璧に整えられた令嬢の姿。
だが、その瞳の奥に揺らぎがある。
「免税特権は聖域」
父の言葉が響く。
聖域とは、理屈で触れてはならない場所。
触れるなら、覚悟が要る。
血が要る。
アリアは、机の上に広げた資料を見つめた。
数字は正しい。
計算も間違っていない。
だが、政治は算術ではない。
今日、初めてそれを突きつけられた。
それでも。
それでもだ。
「……撤回はしない」
小さく呟く。
免税特権は縮小されるべきだ。
都市と貴族は共に負担すべきだ。
国家は、特定の階層のためにあるのではない。
その信念は揺らがない。
ただ。
やり方を、知らなかった。
それだけだ。
窓の外、夕陽が王都を赤く染めている。
塔の影が長く伸びる。
聖域に踏み込んだ者は、必ず代償を払う。
今日、彼女が払ったのは婚約。
だがそれは、序章に過ぎない。
まだ彼女は知らない。
聖域を壊す者は、いずれ神敵と呼ばれることを。




