第12話「燻る境界」
嵐は、予兆もなく来るわけではない。
だが、予兆があっても止められるとは限らない。
フェルンベルク領の北端、小さな鉱山町から最初の報せが届いたのは、初夏の終わりだった。
「坑夫たちが、作業を拒否しています」
報告に来たのは、地方代官の使いだ。
アリアは顔を上げる。
「理由は」
「商人連合の仲介業者が、鉱石の買い取り価格を引き下げました。治水工事に人手を回した分、生産量が落ちていると」
ミレイユが素早く計算を走らせる。
「予想していた範囲です。ただし、価格調整は段階的なはず」
「仲介業者が独断で値を下げた可能性があります」
セルマが低く言う。
「あるいは、揺さぶりか」
商人連合との交渉はまだ最終合意に至っていない。
その最中の価格変更。
偶然とは思えない。
「鉱山町の状況は」
「坑夫の家族が集まり始めています。不安が広がっている」
不安。
それは最も早く広がる火種だ。
「馬を用意して」
アリアは立ち上がる。
「私が行く」
鉱山町は城から半日の距離にある。
黒い岩肌がむき出しの丘陵地帯。粉塵が風に舞う。
到着したとき、坑道前には百を超える人々が集まっていた。
怒号はまだ上がっていない。
だが、張り詰めた空気。
「公爵令嬢だ」
ざわめきが広がる。
アリアは馬から降り、坑夫たちの前に立つ。
「事情は聞いています」
声を張る。
「買い取り価格の件ですね」
「約束が違う!」
若い坑夫が叫ぶ。
「治水工事に協力したのは領地のためだ! なのに収入が減る!」
背後で家族が頷く。
怒りと不安が混ざる目。
アリアは一歩前に出る。
「価格変更は、領地の正式な決定ではありません」
ざわめきが止まる。
「商人連合との交渉は継続中です。仲介業者の判断で値を下げる権限はない」
ミレイユが横で書類を掲げる。
「契約草案に明記されています」
「なら、なぜ下がった!」
別の声。
アリアは息を吸う。
「交渉が完全にまとまる前に、相手が圧力をかけてきた」
正直に言う。
「揺さぶりだと?」
低い声が響く。
年配の坑夫が前に出る。
「我らを人質に、条件を有利にしようというわけか」
核心を突く。
アリアは目を逸らさない。
「可能性はある」
その認め方は危うい。
だが、誤魔化せば信頼を失う。
「では、どうする」
問いが返る。
「価格は戻るのか」
沈黙。
ここで曖昧な希望を与えれば、後で裏切りになる。
「保証はできません」
ざわめきが再び強まる。
「ですが」
声を強める。
「領地が直接買い取ります」
一瞬、空気が止まる。
ミレイユが目を見開く。
「令嬢」
「一時的措置です」
視線を坑夫たちに戻す。
「市場価格ではなく、今年度平均価格で。損失は公爵家が負担します」
どよめき。
「そんな余裕があるのか」
「ありません」
はっきり言う。
「だから、期間限定です」
怒りはまだ消えない。
だが、不安は揺らぐ。
「交渉がまとまるまでの猶予をください」
頭を下げる。
公爵令嬢が、鉱山町で。
その光景は衝撃だった。
年配の坑夫が小さく息を吐く。
「……信用していいのか」
「これまで、逃げたことはありません」
王都での敗北も、騎士の死も、逃げなかった。
それが唯一の武器だ。
しばしの沈黙の後、坑夫が頷いた。
「三十日だ」
「三十日で決着を」
「約束する」
顔を上げる。
期限が生まれた。
猶予は三十日。
城へ戻る道すがら、ミレイユが低く言う。
「財政はさらに厳しくなります」
「分かっている」
「一歩間違えれば、破綻です」
「それでも」
アリアは遠くの丘を見つめる。
「合意を守る方が先よ」
セルマが口を挟む。
「だが、商人連合はそれを読んでいる」
「読ませるの」
アリアは静かに答える。
「こちらが民を切らないと」
守る姿勢を見せる。
それが交渉材料になる。
夜、城に戻る。
机に向かい、計算を重ねる。
私費削減の余地はもう少ない。
軍備を削れば騎士団が揺らぐ。
祭礼を止めれば民心が冷える。
どこを削る。
何を守る。
合意には値段がある。
今度の値段は、金だ。
そして時間。
三十日。
王都の塔は遠い。
だが、ここで崩れればすべてが終わる。
アリアはペンを握り直す。
「証明する」
合意は、弱さではないと。
守ることは、敗北ではないと。
だが彼女はまだ知らない。
三十日の期限が、思わぬ形で領地を揺さぶることを。
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