極甘えん坊ちゃん錠
放課後の化学準備室。
ドアを開けた瞬間、いつもより静かだと感じた。
陽菜の弾んだ声がない。
白衣の袖が翻る音も、実験器具をカチャカチャ動かす音も、聞こえない。
代わりに、小さな背中が一つだけ見えた。
「……あ、涼香先輩!」
陽葵だった。
中学校のセーラー服に大きなリボン。
金髪のツインテールが、ぴょこんと揺れる。
机の上に広げられたノートと、いくつかの試験管。
陽菜の姿はどこにもない。
「……部長は?」
私は無表情のまま、静かに尋ねた。
陽葵は少し申し訳なさそうに頭を掻く。
「お姉ちゃん、今日は体調崩しちゃって……家で休んでるんです。だから、私が代わりに部室の掃除とか、ちょっとした実験の続きをやってるんですけど……」
「……そう」
私は鞄を机の端に置き、すぐに帰ろうかと一瞬考える。
でも、陽葵の大きな瞳が、こっちをじっと見つめている。
(……にゃんにゃんキャンディの件がある)
あの飴を渡されて、猫耳と尻尾を生やされて、尻尾をぴんと立てて興奮してしまった記憶が、まだ鮮明に残っている。
子供だからって油断はできない。
陽菜の妹だ。
血は争えない。
「……じゃあ、私は帰ります」
踵を返そうとした瞬間、陽葵が慌てて立ち上がった。
「待ってください!あの……ちょっとだけ、お話聞いてもらえませんか?」
小さな声。
でも、真剣な響き。
私はため息をついて、仕方なく椅子を引き、腰を下ろした。
「……五分だけ」
「ありがとうございます!」
陽葵はぱっと笑顔になって、隣の椅子にちょこんと座る。
そして、少し照れくさそうに、でも熱を込めて話し始めた。
「お姉ちゃんのこと……本当にすごいなって、いつも思ってるんです」
「……」
「小さい頃から、お姉ちゃんが作るものって、全部魔法みたいだったんです。壊れたおもちゃを直したり、消えちゃった絵の具の色を復活させたり……それがだんだん、『飲むと猫になっちゃう』とか『笑いが止まらなくなる』とか、すごい方向に行っちゃったんですけど……」
陽葵はくすっと笑う。
「でも、私、お姉ちゃんみたいになりたいんです。なんでも作れる人になりたい。頭の中にある『こんなのあったらいいな』を、本当に形にできる人になりたいんです」
その目は、嘘がない。
純粋で、尊敬と憧れでいっぱいだった。
私は少しだけ、胸の警戒を緩めた。
「……部長は、確かに天才です」
言葉が、自然に出てしまった。
「でも、その才能を全部、変な方向にしか使わない」
陽葵は少し寂しそうに頷く。
「うん……私も、そう思います。お姉ちゃん、ノーベル賞とか取れるのに、『涼香先輩の可愛い顔が見たい』しか言わないんですもん」
「……」
私は無言で視線を逸らす。
陽葵はノートを指でなぞりながら、続ける。
「だから、私……いつかお姉ちゃんの才能を、もっとまともな方向に使いたいんです。人の役に立つ薬とか、世界を変える発明とか……でも、今はまだ全然ダメで……」
真剣な瞳。
私は、つい、口を開いていた。
「……なら、まずは基礎をしっかり固めなさい」
「……え?」
「部長のノート、見せてもらったことある?あれ、すごく緻密なんです。でも、飛躍しすぎてる。実験の仮説と検証が甘いところが多い。あなたが本気で目指すなら、まずは普通の化学の実験を、一つ一つ丁寧に繰り返すこと。失敗してもいいから、データをちゃんと取って、原因を分析して……」
私は淡々と、でも真面目にアドバイスを続けた。
陽葵は目を輝かせて、一生懸命頷いている。
「……すごい……涼香先輩、頭いいんですね」
「……普通です」
私はそう言って、ふと時計を見た。
五分はとっくに過ぎている。
(……もう帰ろう)
立ち上がろうとしたその瞬間――
陽葵が、腕を振りかざした。
手には、小さな錠剤。
それを、迷いなく、私の口に向かって投げた。
「――!?」
反射的に口を開けてしまった。
錠剤が、ぽとん、と舌の上に落ちる。
ごくん。
飲み込んでしまった。
「……っ!」
私は慌てて口を押さえる。
陽葵は、にこっと笑った。
「ふふっ。騙しちゃいました♪」
「……何、今の……」
陽葵は試験管を手に取り、得意げに言う。
「それ、私がゼロから作った薬なんです!名前は『極甘えん坊ちゃん錠』!飲んだら、三十分間だけ、極端に甘えん坊になっちゃうんです!」
「……嘘、でしょ」
体が、急に熱くなる。
胸の奥から、何か甘いものが溢れ出してくる。
陽葵の顔が、急に愛おしく見えてくる。
「……陽葵ちゃん……?」
声が、甘ったるい。
自分でもびっくりするくらい、柔らかくて、ねっとりした声。
陽葵の目が、ぱちっと輝く。
「わあ、始まった!」
私は、椅子から立ち上がって、
陽葵の胸に飛びついた。
「陽葵ちゃあん……♡」
両腕でぎゅーっと抱きつく。
陽葵のセーラー服の匂い。
シャンプーと、少し甘いキャンディの香り。
それが、たまらなく愛おしい。
「陽葵ちゃん、大好き……ずっと一緒にいて……?」
「……涼香先輩、めっちゃ甘えてる!」
陽葵は嬉しそうに、私の背中をぽんぽん叩く。
私は顔を陽葵の胸に埋めて、むにゃむにゃと甘える。
「陽葵ちゃんの匂い、好き……もっと、ぎゅってして……」
陽葵は私の頭を優しく撫でる。
「うん、いいよ。涼香先輩、可愛い……」
(……何やってるの、私……)
頭の片隅で、冷静な自分が叫んでいる。
中学生の女の子に、こんなにべったり甘えてる。
しかも、陽菜の妹に。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
なのに、体が止まらない。
陽葵の膝に座り込んで、首に腕を回して、耳元で囁く。
「陽葵ちゃん……お姉ちゃんみたいに、撫でて……?」
陽葵は少し照れながら、
私の髪を優しく梳く。
「うん……こう?」
「ん……気持ちいい♡……陽葵ちゃん、大好き……」
涙が出そうになる。
恥ずかしさと、甘えたい衝動が、ぐちゃぐちゃに混ざって、
頭の中が真っ白になる。
(……子供に騙された)
真面目に話を聞いて、アドバイスまでしてしまった自分が、
情けなくて仕方ない。
でも――
陽葵の目には、嘘がなかった。
部長のことを尊敬していること。
いつかあんな風になりたいと思っていること。
それは、本物だった。
だから、余計に、悔しい。
「陽葵ちゃん……ずるいよ……」
私はむにゃむにゃと甘えながら、
小さく呟く。
陽葵はくすくす笑って、
私の頬を優しく撫でた。
「ごめんね、涼香先輩。でも……こんなに甘えてくれるなんて、私、嬉しいよ」
三十分が、永遠に感じた。
やがて、薬の効果が切れる。
体から力が抜けて、私は陽葵の膝からずり落ちるように床に座った。
「……終わった……」
声が、ようやく普通に戻る。
陽葵は少し心配そうに覗き込んでくる。
「涼香先輩、大丈夫ですか?」
「……殺意が芽生えました」
陽葵はびくっとするが、
すぐに笑顔になる。
「ごめんなさい!でも、涼香先輩の甘え顔、ほんとに可愛かったです……!動画、撮っちゃいました」
「……消して」
「えー、でも……お姉ちゃんに見せたいんです!」
私は立ち上がり、鞄を掴む。
「……二度と、信じません」
陽葵は少し寂しそうに、でも嬉しそうに言う。
「また来てくださいね、涼香先輩。今度は、ちゃんと薬なしで……お話しましょう?」
「……」
私は振り返らず、ドアに向かう。
でも、ドアノブに手をかけた瞬間、小さく呟いた。
「……陽葵ちゃんの言葉、嘘じゃないよね」
陽葵の声が、背中に届く。
「うん!本当だよ!」
私はため息をついて、準備室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥が、ほんの少しだけ温かいことに、気づいてしまった。




